10. ミモザの日

 三月のとある日。いつも通りの木の上で目を覚ますと、どこからともなく甘い香りが漂ってきました。鳥さんいわく、あちこちで梅の花が咲いているから、その香りが風に乗って届いたのではないか、とのことです。あいにくわたくしはここからひとりで遠くへは行けませんので、実際に見たことはないのですが。


「何だ、見たいのか?」

「トーゴさん、乙女の寝起きを覗くなんて失礼ですよ」

「誰が乙女だ。ちんちくりんのくせに」


 そう言って笑いながら、トーゴさんは両腕をこちらに差し出してきます。あまりに失礼な言い草にぷうっと頬を膨らませたわたくしに、けれどトーゴさんがふと首を傾げました。差し伸べていた手を引っ込めて、顎を撫でながら何やら考え込んでいます。

「……伸びたか?」

「はい?」

 わたくしも首を傾げておりますと、トーゴさんは一歩前に歩み出て、ひょいとわたくしを抱え上げました。そうしてわたくしもトーゴさんの言葉の意味を悟ったのです。

「伸びましたね」

「何でだ?」

「さあ、わたくしにもわかりかねますが、これでちんちくりんなどとは言わせませんよ!」

 えっへんと胸を張って見せましたが、トーゴさんは呆れたように肩を竦めるばかりです。そのまま裏口からお店の中へと入り、わたくしをイートインのテーブルの前で下ろしました。


 ガラスのショーケースはいつも通りにぴかぴかに磨き上げられ、もうケーキが綺麗に並んでいます。どうやらちょっぴり寝坊をしてしまったようでした。仕方がありませんね。春眠しゅんみんあかつきを覚えず、と言うではありませんか。


「むしろ真冬は半日以上寝てただろ」

「育ち盛りですから、おひさまの光がないときはモードなのです」

「で、春が来て一気に育ったのか。の割に中途半端だな」

 そういうトーゴさんは何だかちょっぴり不満げです。理由はよくわかりませんが、まだ三月は始まったばかり。春というには時期尚早です。

「まだまだのびしろはございますよ」

「そう願いたいね」

 へっと鼻で笑って、トーゴさんは厨房に向かいます。その時ちょうど、カランと入口の鐘が鳴りました。振り向くと、そこには輝かしい笑顔のあの方が立っていらっしゃったのです。

「久しぶりー! やだ、なんか大きくなっちゃった⁉︎」

 その柔らかい腕は以前と変わりませんが、抱きしめられたわたくしの目線はもう肩あたりに届いていました。

「秋乃さんもお元気そうで何よりです」

「そうなの。りんごちゃんずっと変わらなかったのに、何かあったの?」

「よくはわかりませんが、トーゴさんがおっしゃるには、春が近いからではないかと」

「……ふーん?」

 秋乃さんは何だかきらきらとした瞳でわたくしを見つめた後、厨房の方に視線を向けられました。その視線の先にはトーゴさん。


 ふと、胸の辺りで何かがざわざわと騒ぎました。胸騒ぎ、というわけではないのですが、何だか落ち着かない感じがいたします。はて、と首を傾げておりますと、トーゴさんが歩み寄ってきて、わたくしの顔を覗き込みました。

「具合でも悪いのか?」

「いいえ、わたくしはりんごの木の精霊ですから、具合が悪くなったりはいたしませんよ」

「なら、いいが」

 どこか浮かない顔のトーゴさんが持ってるケーキに目がいって、わたくしは思わずわあ、と声を上げてしまいました。


 それは綺麗な正方形ましかくの黄色いケーキでした。表面はふわふわとした黄色い綿のようなスポンジのかけらで覆われて、半分に切ったいちごとミントの葉がまあるく飾られています。横から秋乃さんも覗き込んできて、あら、と声を上げました。

「ミモザのケーキ! 今年は丸じゃないの?」

「表面のスポンジがこぼれやすいからな。丸だと余計にカットするときに形も崩れちまうから、今年は四角にしてみた」

「へえ、いい感じね。中身はカスタードクリーム?」

「いや、苺とピスタチオのムースを重ねてある。今年人気みたいだからな」

 トーゴさんのおっしゃるとおり、ケーキを横から眺めると、ピンク色と薄い緑の二色が綺麗に黄色いスポンジにサンドされていて、パステルカラーがとても可愛らしい仕上がりです。


 ショーケースの中には、小さくカットされたものも並んでいました。グリーン系のデザートといえば、抹茶が定番でしたが、今年はピスタチオも人気のようです。あいにくりんごは旬が終わってしまいましたから、わたくしとしては張り合うつもりは毛頭ございませんけれども。


 さくさくのアップルパイの方が美味しいに決まっていますけれどね!


 そう断言したわたくしに、秋乃さんがくすくすと笑っています。

「りんごちゃんは相変わらずね」

「それはもう、わたくしはりんごの木の精霊ですから、誰よりりんごの果実を推して参りますとも! ねえ、トーゴさん?」

「はいはい、また秋にな」


 本当は今の時期でもアップルパイを作るためのりんごは手に入るのです。けれど、トーゴさんはわたくしの収穫時期が終わり、そのりんごを使い切ってしまうともうりんごのデザートを作ろうとはなさいませんでした。きっとわたくしのりんごが美味しすぎたせいですね!


「そういえば、イートイン始めたのね?」

「ああ、出せるのはここにあるケーキとコーヒーだけだがな」

「召し上がっていかれますか? 素敵な椅子もあるんですよ」


 わたくしが以前トーゴさんと物置から見つけてきた椅子をすすめますと、秋乃さんは少し驚いたように目を見開かれました。


「……懐かしい。お祖父じいさんの椅子ね?」

「ああ、よく覚えてたな」

一樹いつきさんが、仕上げを手伝ってたから」

「そう、だったか……」


 わたくしの知らない名前に、トーゴさんがびくりと肩を震わせました。秋乃さんも何だか少しだけ悲しげで、それでわたくしはそのお名前がどなたなのか、すぐに気づいてしまったのです。

 秋乃さんはすぐに元の明るい笑みを浮かべて、それからケーキを選んでトーゴさんに包むようお願いしました。


「イートインは、また次回のお楽しみに取っておくね。しばらく日本に滞在する予定だから」

「そうなんですか?」

「うん、りんごちゃんにお土産もあるのに持ってくるの忘れちゃったから、近いうちにまたお邪魔するよ」

「はい、楽しみにしております!」


 秋乃さんはトーゴさんからケーキを受け取ると、にっこり笑って帰っていかれました。急にしんとしたお店の中で、なぜだか胸がざわざわとする音が響いているように感じられました。トーゴさんの方を窺うと、じっとイートインの席を見つめています。何となく、何を考えたのかがわかってしまって、わたくしはゆっくり歩み寄ると、後ろからぎゅっと抱きつきました。

 以前は腰の辺りに届くかどうかという感じでしたが、今は胸の辺りに手が届くほど背が伸びていました。不思議なこともあるものです。


「な、何だ……⁉︎」

 慌てたようなトーゴさんの声が聞こえて目を上げますと、声の通りに慌てた顔がわたくしを見下ろしていました。無精髭の、日頃は少し意地悪な笑みを浮かべているトーゴさんの、いつになく動揺なさった様子がおかしくて、わたくしは思わずふきだしてしまいました。

「隙だらけです、トーゴさん」

「……お前こそ、隙だらけだぞ」

 ため息と共に、トーゴさんが上の棚から何かを取り出しました。すっと差し出されたのは、ふわふわとした黄色い色。

「これは……お花、ですか?」


 それは、いくつものふわふわとした——ちょうど先ほどのケーキに飾られていたような——綿毛に似た形の黄色い花がいくつもついた房の花束でした。茶色い紙と透明なビニールで包まれて、手元には赤いリボンまでかけられています。


「ミモザだ」

「みもざ、ですか? そういえば、秋乃さんもおっしゃっていたあのケーキによく似ていますね」

「ああ、今日はミモザの日といって、この花を贈る習慣があるそうだ。日本じゃまだそこまで浸透していないが、イタリアあたりの風習だったかな」

「そうなんですね。とっても明るくて綺麗なお花ですね」

 りんご以外の花をこうして間近で見る機会はあまりないので、何だか心が浮き立つようでした。先ほどまでのモヤモヤした気持ちもどこかへ行ってしまったようです。


「ありがとうございます。次は梅の花も見てみたいですね」

「梅?」

「さっき起きた時、甘い香りがしていたんです。鳥さんが言うには、きっと梅の花の香りが流れてきたのでしょうと」

「そうか。まあもう少し育ったら、自由にどこへでも行けるようになるんじゃないか」


 ふっとトーゴさんが優しい笑みを浮かべてそうおっしゃいました。それから、私の手の中の黄色い花束から一房だけ抜き取って、わたくしの耳の辺りに差し込みます。

 ふわりと、すっとするような柑橘かんきつに似た匂いがしました。そうしてそちらに気を取られている隙に、頬に柔らかい感触がして、すぐに離れていきました。


 どきりと心臓が跳ねて、花束を持っている指が熱くなったような気がいたしました。けれども、わたくしは齢七年のりんごの木の精霊です。熱など出るはずもありません。


 ———もしかして、何かの病気にかかっているのでしょうか?


 そんなことを申し上げたら、きっとトーゴさんが心配なさると思いますので、しばらく秘密にしておくことにします。


 皆さま、もし何かお心当たりがありましたら、こっそり教えてくださいね?

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