9. 椅子

 さて、いよいよ本日からイートインが始まります。世間の色々な事情もあって、しばらくお休みしていたのですが、新しい珈琲コーヒーマシンの設置も無事に済んで、綺麗なマグカップも棚に並べられ、お客様を迎える準備は万端ばんたん——とそう思っていたのですが。


 ちょっとお客様気分を味わってみたいと思って……ではなく、イートイン用のテーブルセッティングを確認すべく、椅子に飛び乗ったところ、ぽきり、と何やら聞き慣れない音がしました。

「おい……ッ⁉︎」

 珍しく慌てたようなトーゴさんの声に振り向く暇もなく、座っていた椅子がぐらりと傾いで、このままでは転んでしまいますね、と何だかのんびりとそんなことを考えてしまいました。これがいわゆる走馬灯そうまとうというやつでしょうか。


 何しろわたくしはよわい七年しちねんのりんごの木の精霊です。仮初かりそめの姿で頭を打ったところで大事はないのですが、やっぱりぶつけたりしたら痛いかもしれません。覚悟を決めてぎゅっと目をつぶっていると、やってきたのは衝撃ではなく、力強い腕に抱き止められて、持ち上げられる感触でした。


 どうして目をつぶっているのにわかるのか、ですか?


 それはもう、トーゴさんに抱っこされるのには慣れておりますから。まあわたくしはもう一人前だとそう申しているのに、いつまで経っても子供扱いなのには困りものですけれどね。


 目を開けると、見慣れた無精髭の顔が、いつもとは違う表情を浮かべていました。少しだけ眉根を寄せた、けれども心底ほっとしたような。


「トーゴさん?」

「どこかぶつけたりしてないか?」

「はい、大丈夫です。トーゴさんこそ、そんなに慌ててらして、大丈夫ですか?」


 確かちょうどショートケーキの生クリームを絞る仕上げをされていたと思ったのですが。肩越しに作業台の方を覗けば、くしゃりと潰れたような生クリームの山がスポンジの真ん中に積み上がっていました。


「……まあ、削ってもう一度絞れば大丈夫だ」

「ご心配をおかけして、申し訳ありません……」

「いや、お前に怪我がなくて良かったし、客が来る前に気づけて良かった」

「そうですね」


 改めて見れば、わたくしが座っていた椅子の足が一本、綺麗にぽっきりと折れていました。しばらく使っていなかったうちに老朽化していたのか、はたまた不良品だったのか。ともあれ、トーゴさんはわたくしを腕から下ろすと、壊れた椅子を持って裏庭の方へと向かいました。


 わたくしも一緒についていきます。トーゴさんはひとまず壊れた椅子を物置の端に置きました。それから顎を撫でながら、物置の中を眺めます。ふと、その視線が部屋の片隅に置かれた古そうな椅子の上で留まりました。

 全体が木でできた、大きな背もたれに大きな座面、それから緩くカーブした四本の足がとても優雅な印象のしっかりとした椅子です。

「懐かしいな、そういえばこんなのもあったか」

 トーゴさんは椅子の側に歩み寄ると、全体を触りぎしぎしと揺らしてその強度を確かめているようでした。

「ちょっと座ってみてくれるか?」

「はい」

 頷いて、わたくしはゆっくりとその椅子に腰を下ろしました。クッションも何もないのに、不思議と腰のあたりが包み込まれるようで、とても座り心地のよい椅子です。背もたれもちょうどよく背中のラインにぴったりフィットする感じでした。


「すごく、座り心地のいい椅子ですね」

「うちの祖父じいさんが作ったもんだが、玄人くろうとはだしだとよく言われたもんだ」

「トーゴさんのお祖父様が作られたのですか?」

 驚いて眼を見開いたわたくしに、トーゴさんは事も無げに頷かれました。

「ああ。手先の器用な人でな。陶芸から日曜大工まで何でもこなしてた。イートインで使うカップの半分くらいは祖父さんの作ったもんだぞ」

「そうなんですか。トーゴさんの手先の器用さは、お祖父様譲りなのですね」


 椅子に座ったまま、足をぷらぷらさせながらそう申し上げたわたくしに、けれどトーゴさんは何だか戸惑ったような、どこか居心地が悪いというような顔をなさいました。


「トーゴさん?」

「……いや、俺は不器用な方だぞ」


 そういえば、トーゴさんのアップルパイの編み目は、最初の頃はお世辞にも整っているとは言い難いものでした。けれども今はとってもぴっちり綺麗に仕上がるようになっております。もちろんわたくしとの特訓の賜物たまものですよ。


 思い出してえへんと胸を張ったわたくしに、トーゴさんは表情を緩めて、くしゃりとわたくしの頭を撫でてから、わたくしを抱き上げました。


「そう、俺のは努力の賜物。先天的な手先の器用さは、兄貴の方が受け継いでたな」


 そう言って、じっとわたくしを見つめる顔は、何だか切ないような色を浮かべています。トーゴさんのお兄様については、わたくしはよく存じ上げません。長らく病気をわずらってらして、三年ほど前に亡くなったとだけ伺っています。

 わたくしはお会いしたことはないのですが、その頃のトーゴさんがひどく落ち込んでいたのは覚えています。きっと、仲の良いご兄弟だったのでしょう。


「お兄様が作られたものもあるのですか?」

「いや……そういうのは、あきが持ってるかもしれないが、ここにはないな」

「そうですか」


 秋乃さんは、先日いらっしゃって以来、そういえば一度もお店にはいらしていません。何か事情があるのかもしれません。わたくしはこう見えて一人前なので、大人の事情もちゃんとできるのです。


「馬ー鹿、そういうんじゃねえよ。あいつは旦那と一緒に海外に渡ったんだ。次に戻ってくるのは正月くらいだと言ってたから、その頃にはまた来るんじゃないか」

「そうでしたか。でしたら、秋乃さんもお兄様の作られたものは、もうお持ちではないかもしれませんね」

「……そう、だな」


 トーゴさんは、何だか歯切れ悪くそう頷いてから、もう一度わたくしをじっと見つめます。それから珍しく、ぎゅっとわたくしを抱きしめました。

わか

「はい?」

「本当に、兄貴のことは覚えてないんだな?」

「トーゴさんのお兄様、ですか? お会いしたこともないと思うのですが、どこかでお目にかかっていたのでしょうか?」

 そう問い返したわたくしに、トーゴさんはぎゅっとわたくしを抱きしめたまま、深い息を吐きました。


 切なげなそれに、どきり、と心臓がおかしな音を立てました。いつかも感じたそれに首を傾げながら、わたくしは少し身を離して、トーゴさんのお顔を両手で包みます。

 ざらりとした無精髭の残るその顔は、いつも少し意地悪で、けれども温かく優しく見守ってくださいます。ですから、わたくしはようやく少しだけ、このざわりとした感覚の意味がわかってきた気がするのです。


「何かお悩み事があるのでしたら、伺いますよ?」


 わたくしは齢七年のりんごの木の精霊です。そうして七年をこの方とともに過ごして、ようやく気づいたことがありました。


「だって、トーゴさんはわたくしにとって、とっても大切な方ですから」


 ——だから、いつも少し意地悪でも、笑っていて欲しいのです。


 そう申し上げたわたくしに、トーゴさんは鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をして大きく目を見開きました。それからしばらくして、ふわりと、今まで見たこともないほど優しい眼をして笑ってから、わたくしの額にそっと口づけたのでした。


 その笑みの本当の意味に、わたくしが気づくのは、もう少し先の話でしたけれど。

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