7. 時計
カチ、カチ、カチ、と規則正しい音が響いています。お店の隅に置かれたテーブルの、その真上にかけられているのは、トーゴさんが昨日買ってきたばかりの壁掛け時計です。
大きなまるいその時計は、下に振り子がついていて、数字が十二個並んでいる、一見すると普通の時計です。ところが、そうではないのです。
ゆらゆら揺れる振り子をじいっと見つめていると、だんだん何だか眠くなってきてしまいました。昨夜はちょっと
もちろんわたくしは一人前のりんごの木の精霊ですから、怖くて眠れなかったわけではありませんよ。ちょっと木の上でざわざわする風の音が、いつもより落ち着かなかっただけです。
朝、目が覚めたら、トーゴさんのお部屋にいた理由は、よくわからないのですけれども。
ともかくも、暖かいお店の中で、甘いおいもやとびきり綺麗に焼けたアップルパイの香りに包まれているうちに、いつの間にか、うとうとしてしまっていたようです。
不意にカチッと何かが開く音がして、わたくしの目もぱっちり覚めました。見上げると同時に、夜空が描かれた盤面の上で、長い針がぴったり12を指しました。
そうして、柔らかなオルゴールのような音楽が流れ出します。魔法のように、時計の盤面が三つに分かれて、くるくるとまず右へ回り、それからしばらくすると今度は左に回り、また右へ。
その音はとても澄んでいて、まるでお星様がきらきらと瞬いている様子が、そのまま音楽になったようです。
「そんなに気に入ったのか?」
少しだけ呆れたような声に振り向くと、口の端を上げて笑う無精な髭の顔は、それでも何だかいつもより優しげに見えました。
「はい、とっても綺麗です!」
けれど、わたくしがそう言ったちょうどその時、曲が終わり、開いていた盤面も閉じて、元通りのただの時計に戻ってしまいました。
その表面には、星空が描かれていて、とても綺麗ですし、振り子を眺めているのも楽しいのです。けれども、やっぱりあんなにきらきらと素敵なショーを見てしまうと、ちょっと物足りなく感じてしまうのでした。
肩を落としたわたくしに、トーゴさんがもう一度、呆れたように笑います。
「四六時中あんな風にくるくる回ってたんじゃ落ち着かないだろう」
「そうでしょうか……」
あんなに綺麗なもの、ずっと見ていても飽きないのに。
名残惜しい気持ちで未練がましく時計を眺めていると、トーゴさんが手を洗って近づいてくる気配がしました。そして、時計の下の部分に手を伸ばします。
するとどうでしょう、また音楽が流れ出し、盤面がくるくると回り始めたのです!
盤面の動きは変わりません。けれど、流れてきたのは先程とは違って、明るくて、少し弾むような、それでいて優しい曲でした。まるで女の子が歌っているような、何だか少し切なくて、世界が広がっていくような。
「トーゴさん、これは何の曲ですか?」
そう尋ねると、トーゴさんは何だか少し困ったような顔をなさいました。無精な髭の残る頬をかきながら、時計をしばらく見つめ、それから、わたくしの頬に手を伸ばしてきました。先日と同じように、何かを確かめるかのように、親指でわたくしの頬をひどく優しい手つきで撫でるのです。
「……人間に恋した人魚の物語に出てくる曲だな」
「人魚姫、ですか?」
以前、トーゴさんに絵本を見せていただいたことがあります。人間の王子に恋した人魚姫は、結局その方と結ばれることはなく、最後には泡になって消えてしまうという、うつくしいけれど悲しい物語でした。
「——をベースにした別の話だな、ありゃ」
「そうなんですか?」
「ああ、最後はハッピーエンドだからな」
「王子様と人魚姫が結ばれるのですか?」
「……ああ」
頬に触れるトーゴさんの手が、何だか熱いような気がしてきました。わたくしが首を傾げると、トーゴさんは何かを迷うように視線をさまよわせ、けれどもすぐにいつも通りの笑みを浮かべてわたくしの頭をくしゃりと撫でました。
「眠いんだろう。少し昼寝でもしていろ」
そう言って、どこから取り出したのか、綺麗な赤と緑のブランケットをわたくしの肩にかけてくださいました。暖かなそれと、流れてくる穏やかできらきらとした音楽のおかげか、わたくしはすぐに眠りに落ちてしまいました。
そうして、何だか不思議な夢を見たのです。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
むかしむかし、というほど昔のことじゃない。わりと最近のことだよ。確か、七年前だったかな。
ある森の妖精が、人間の青年に恋をした。木の幹のような茶色い髪と、透き通る若葉のような緑の瞳を持つ、そりゃあ綺麗な娘だったよ。こんな娘に想いを寄せられたら、どんな男だって心を動かされずにはいられない、それくらいのね。
だが、人と妖精とは基本的に出会えない。妖精から人は見えても、ほとんどの人間には妖精は見えない。けれど、どうしてもその恋を諦められなかった妖精は、森の魔女に頼んだのさ。人間にして欲しいって。
ああ、もう気づいているだろう? その魔女っていうのはもちろん私のことさ。
けどねえ、魔法というのはタダじゃない。必ず何かの対価を必要とする。その妖精は、あいにくと何も支払えるようなものを持っていなかった。だから、例えばかつて人魚の姫が海の魔女と取引したように、その声や、あるいはとびきり美しい緑の瞳をもらってもよかったんだけれどね。
まあ、何しろ私は優しい森の魔女だから。大盤振る舞いで、無料で願いを叶えてやったのさ。けれど、それでもやっぱり魔法には代償がつきものだ。請求しなくても代金は発生するんだねえ。
その子の場合は、対価の代わりに条件がつけられた。次の満月までに、恋した相手が心の底から彼女を愛するようになること。
ならなかったらどうなるかって? ご想像の通りさ。恋が叶わなかった人魚の姫は泡となって消えた。森の妖精は、
そうして人になった妖精の娘は、恋した相手に会いに行った。けれど、残念ながらその恋は叶わなかった。娘は知らなかったが、相手の青年にはすでに想う人がいたんだよ。あの娘の魅力をもってすれば、奪い取ることだってできたはずだけれどねえ。
だが、娘はそれでいいと笑っていたよ。恋する人のそばで、恋人ではないけれど、彼と言葉を交わし、いろいろな話をして過ごした。そうして満月の夜、森に戻ってきた娘の命はもう風前の
条件は果たされなかった。あとはもう、朝には露となって消えていく。可哀想だが魔法というものは万能じゃない。森の娘も悔いた様子もなく、月の光を存分に浴びて、幸せそうに微笑んでいた。
悲しいけれど、これが物語の終わり。
——そうなるはずだったんだけれどねえ。
ところがそこに無粋な声が割って入った。自分がその娘を愛するから、ここに留めてくれ、と。
私も娘も驚いた。声の主は、なんと恋した相手の弟だったんだ。そいつはどうやら妖精が見える眼をもっていたらしい。森の娘が人になる前から知っていて、彼女に恋していたと言うんだよ。
真実の愛はどんな呪いも解く。真摯なその想いは、娘にかけられた呪いを解くのに十分なものだった。けれど、たった一つ欠けているものがあったんだねえ。
「わたくしの心はあの方のもの。お気持ちは嬉しいけれど、わたくしはあなたを愛することはできません」
「何でだ? 消えてしまう方がいいっていうのか⁉︎」
苛烈な瞳で、青年の弟は叫んでいた。狂おしいほどの恋心。愛を伝え、救いの手を拒絶されてもなお諦めないその想いの強さ深さに、珍しく私も心を動かされてねえ。だいたい私はもともとあの青年はおすすめじゃなかったんだ。弟の方がよほどいいと思ったから、ちょいと手助けをしてやることにした。
「お前さんの命はもう
そう声をかけると、森の娘だけでなく、男の方も首をかしげたね。私は何だかとっても楽しくなって、話を続けてやったのさ。
「どうせ消えゆく命なら、そいつに一度だけ
「そんな……わたくしはもう……」
「まあまあいいじゃないか。そうだねえ、おいお前、その手にもってるのはりんごの種かい? ああちょうどいい、ではその種にこの娘の命を重ねよう」
真っ黒い一粒のりんごの種。これを今からここに植え、この娘の新たな命の芽吹きと重ねてやる。そうして果実が実る頃、この娘も一人前になるだろう。
「期限は特に設けない。この種が大きく育って初めて実をつけて、それから実をつけなくなるまでに、なんとかこの娘の心を掴んでおしまい」
そうして、私は魔法をかけた。娘はりんごの種と共に眠りにつき、やがて小さな若木となる。男はその木を見守りながら、時を待つ。
素人にりんごの木の世話なんてできるのかって? そりゃあ私は親切な魔女だからね。放っておいても育つように魔法をかけてやったさ。
何しろ対価はとびきり綺麗な妖精娘の命。それくらいの
それからどうなったかって? さあ、それはお前さんたちの方がよく知っているんじゃないのかい?
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
何だか不思議な夢を見ていたようです。目を覚ますと、外はもう真っ暗でした。
ショーケースの中は空っぽです。今日も商売繁盛、わたくしの出る幕がなかったのは残念ですが、さつまいもとりんごのタルトが一番人気だったので、よしとしましょう。
両手を上げて伸びをして立ち上がると、ちょうどまた時計がカチッと鳴って、音楽が流れ始めました。先程聴いたのと同じ、とてもきらきらと綺麗で、少しだけ切ない人魚の曲。うっとりと聞き惚れていると、がちゃりと扉が開く音がしました。
「起きたのか」
「ぐっすり眠ってしまいました。お手伝いもできずに申し訳ありません」
ぺこりと頭を下げると、トーゴさんは何だかいつもより優しく微笑んで、わたくしを抱き上げました。その体からはぷぅんと煙の匂いがして、わたくしは思わず顔を顰めます。
「その匂い、あんまり好きにはなれません」
「しょうがねえだろ、お前があんまり待たせるからだ」
ひどく甘くて、ちょっとだけ苦しそうな強いその眼差しは、いつか見たことがあるような気がしました。じいっと見つめると、トーゴさんもまっすぐに見つめ返してきます。胸の奥がざわざわして、そうして、気がつけば口から問いがこぼれていました。
「もしかして、わたくしは何か大事なことを忘れているのでしょうか?」
そう尋ねたわたくしに、少しだけ驚いたように眼を見開いて、けれどトーゴさんは片眉を上げて、いつも通りに肩を竦めて笑いました。答える気はないようです。
「わたくしはもう一人前のりんごの木の精霊です。ちゃんとお話ししてくだされば、きっと理解もできると思います」
「そうだな」
そう頷くけれど、やっぱりトーゴさんは何も話そうとはしてくれませんでした。めいっぱい頬を膨らませたわたくしに、トーゴさんは呆れたように吹き出して、それからわたくしをそっと抱きしめました。
「まだまだ時間はある。俺は、ちゃんと待っててやるから」
——だからちゃんとそれを育ててくれよ。
「それ、ですか?」
首をかしげたわたくしに、トーゴさんはわたくしの胸のあたりを指差します。
「なんかざわざわするんだろう?」
「どうしてわかるのですか?」
「秘密」
そう言って笑ったトーゴさんの顔は、何だかとても幸せそうで、わたくしはまた、胸のあたりがぎゅっとなって、そして温かくなるのを感じました。
わたくしは
だって、それは、何だかとっても大切なことのような気がするのです。
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