6. フローライトのレンズの銀縁眼鏡

 ほら、と言って常連さんのかえでくんが手のひらに載せて見せてくださったのは、綺麗な薄緑色の石でした。四角くカットされていて——正八面体、というのだそうです——少し濁った、若葉よりももう少し青みが強い、以前トーゴさんが写真で見せてくださった南の島の海に似た色です。


「フローライトだよ。ほたるいしとも言うんだって」

「ホタル、ですか?」


 実はこの洋菓子店の裏手の森の奥には川がありまして、夏になるとたくさんのホタルが飛び交います。あいにくと、わたくしはそう遠くまでは行ったことはないのですが、今年の夏に、トーゴさんが虫かごに捕まえてきたたくさんのホタルを見せてくださったのです。その綺麗なことと言ったら……!


 けれど、その光の色はもっと黄色っぽい黄緑だったような記憶がございます。わたくしがそう首を傾げると、楓くんは何やら得意げに胸を張りました。


「加熱すると光って弾けて割れるんだってさ。それがホタルみたいだからってのが由来らしいぞ」

「そうなのですか……。なんだか物騒な石ですね」

「まあ普通は加熱とかしないし。でもフローライトっていろんな光を通すから、レンズに使われたりするらしいぞ」

「レンズ、ですか?」

 楓くんの手の上にある石には、真ん中に虹色にきらめく薄い壁のようなものがあります。とてもきらきらとして綺麗ですが、光を通すようには見えません。もう一度首をかしげたわたくしに、つられたように楓くんも首をかしげました。

「俺にもよくわかんないけどさ、レンズを作る場合は、砕いて大きい結晶にする方法があるらしいよ。それでも何かものすごく時間も手間もかかるから大きいのはめっちゃ高いらしい」


 らしい、ばかりで何だかよくわかりませんでしたが、とりあえず時々トーゴさんがかけているような眼鏡のレンズになるようなものではない、ということだけはわかりました。よくわからない、ということがお互いにわかったことで満足されたのか、楓くんはトーゴさんからおつかいの箱を受け取ると、手を振って帰っていかれました。


 ショーケースの中には、チョコレートガナッシュケーキが三つ、茶色いモンブランが二つ、ショートケーキひとつと、それからホールのアップルパイがまるまる残っています。

 もうそろそろ日が傾きはじめた時刻、明日は火曜日おやすみですから、ちょっと困った事態です。トーゴさんも一つため息をついてから、セール用の値札を準備しはじめました。

 ここ数日は台風や雨模様が続いたせいで、お客さんの入りも今一つです。アップルパイはまだもう少し日持ちはするのですが、それでもやっぱりできたてその日に食べて欲しいもの。


 せっかくですから、お一ついかがですか?


「だから、誰に話しかけてんだよ?」

「聞いてくださる方にです。もしかしたら、あっという間に全部売り切れるくらいお客さんが殺到してしまうかもしれませんよ?」

 そう言うと、トーゴさんはヘッと少し意地悪に、鼻を鳴らして笑いました。わたくしのことなんてまったく当てにしていない、という顔です。このお店の見守り役として、また、一人前のりんごの木の精霊として、こうも軽んじられては黙ってはいられません。


 ——そろそろ実力をお見せする良い機会でしょう。


 ふふんと不敵に笑ったわたくしに、トーゴさんは怪訝そうな顔になりましたが、構っている暇はないのです。裏庭へと続く扉を抜けると、わたくしは森の中へと駆け込みました。実は、こんなときに頼れる方に心当たりがあったのです。


 の木のすぐ近くの森の入り口に、大きなうろの空いたお年寄りの木があります。わたくしはその木に近づいて、中に向かって声をかけました。

「こんにちは」

「おや、みどりの。久しぶりだのぅ」

 顔を覗かせたのは、ちょっと目に眩しいくらいの橙色のお洋服と、茶色い三角帽子をかぶった長いお髭のおじいさんです。

「誰がおじいさんじゃ。わしはまだ三百歳のぴちぴちの土妖精ノームじゃぞ」

「三百歳はぴちぴち、なのですか?」

「おう、長生きとは五百年を超えてからじゃ」

「すごいですねえ」

 齢七年のわたくしからすれば、スケールが大き過ぎてちょっと理解がおいつきません。

「おう、すごいのじゃ。ところで今日は何か用かの?」


 ああ、そうでした。わたくしはかくかくしかじかと、おじいさん——ではなかった、ぴちぴちのノームさんに事情を話します。


「何、ここの裏の洋菓子店の売り上げを一気に倍増させて、恩を売ってやりたいじゃと?」

「いえ、もう少しこう包んで申し上げた気がするのですけれど……」

「包んでも開いても結果は同じじゃ。花は開いてなんぼのもんじゃろう」

「ちょっとよくわかりかねますが、何か良いお考えをお持ちですか?」

「ふむ、そうじゃのう」


 そう言いながら、ノームさんは懐から丸い銀縁眼鏡を取り出しました。そのレンズはとても透き通って、ほんの少しだけ薄い緑色をしています。ノームさんはその眼鏡をかけると、まじまじとわたくしを見つめました。

「何じゃお前さん、やっぱりそのちんちくりんは、仮初かりそめの姿か」

「え? ええまあ、わたくしはりんごの木の精霊ですから、本体はあちらの木かと」

「いや……自分でも気づいていないとは、のんきものじゃのう……まあええか」


 ノームさんは一人で何やら頷いて、何かを納得されたようです。それからわたくしにその眼鏡を差し出すと、うろの奥にある姿すがたを指し示しました。

「かけて見てみぃ」

「はい……?」

 首をかしげながらも、その小さな眼鏡をかけ、後ろの姿見を覗き込んで、わたくしははて、と首をかしげました。


 鏡の中にはすらりとした背の高い女の子——ちょうど少女と大人の中間くらい——が映っています。茶色い髪に、若葉のような緑の瞳。ぱちくりとわたくしが瞬きすると、その女の子も瞬きます。わたくしが首をかしげると、その子も同じように首をかしげます。


「何をやっとるんじゃ」

「何だか同じ動きをする子が中にいるのです。これは魔法の鏡ですか?」

「そりゃお前さんだ」

「え?」

「一人前を名乗る割にはちんちくりんだと思っとったが、そいつはあの中途半端な髭せいか? 人の子の七歳といえばまあそれくらいじゃから、そうなったのかのう」

「何をおっしゃっているのですか?」

 そう言ってから、ふとわたくしは違和感に気づきました。

「ノームさん、縮みました?」

「お前さんがでかくなったんじゃ」


 言われてみれば、何やら足も手も伸びているような気がいたします。鏡を振り向いて、手を伸ばせば同じように、鏡の中の女の子もこちらに向かって手を伸ばしてきます。


「何が起きたのでしょう……?」

「お前さんがかけている眼鏡には、蛍石のレンズが嵌めてある。蛍石のレンズは普通は見えない光や見えないもの——真実の姿を見通すのじゃ」

「これが、わたくしの真実ほんとうの姿だと?」

「そうかもしれんし、違うかもしれん」

「何ですかその適当なお返事は」

「いずれにしても、その姿ならどこへでも行けるじゃろう。振り売りでもしてくるがええさ」

「ふりうり?」

「今だと何というんだったかのう……。まあお前さんなかなかの別嬪さんじゃから、にこにこ笑って道行く連中に声をかけてみれば、いくらでもフラフラ寄ってくるんじゃないかの」


 何だか乱暴な言い草ですが、もう日も傾きかけています。とりあえずお店に戻って対策を考えた方がよさそうです。わたくしはノームさんに眼鏡を返すと、洞から出て、お店へと戻り始めました。けれど、すぐにの下に見慣れた姿が見えました。


 トーゴさんはちょうど、懐からあの煙い棒を取り出して、火をつけようとしているところでした。


「それは体に悪そうなので、おやめになった方が良いですよ」

 後ろから近づいて、間近に見上げたトーゴさんの顔は、いつもよりずいぶんと近く感じられました。トーゴさんは、ひどく驚いた様子で、まじまじとわたくしを見つめています。そういえば、姿がずいぶんと変わっていたのでした。もしかしたら、気づかれていないかもしれません。

「どうしたんだ、お前?」

 けれど、トーゴさんにはお見通しだったようです。

「おわかりになりますか?」

「わかるに決まってんだろ。なんで急に伸びたんだ?」

「ノームさんにお店のお手伝いをする相談をしたら、こんな風になりました。ノームさんがおっしゃるには、なかなかの別嬪さんですから、にこにこ笑って道ゆく方に声をかけてみれば売り上げも上がるのではないかと」

「あのジジイ、ろくなこと言わねえな……」


 取り出しかけていた細い棒を、もう一度ポケットにしまいながら、トーゴさんは何やら深いため息をつきました。それからじいっとわたくしの方を見つめます。

 いつも生地をこね、フルーツをカットしてとても素敵なデザートを作るその大きな手が、そっとわたくしの頬に触れました。親指で頬を撫で、それから何かを確かめるように、わたくしの瞳をじっと見つめます。


「トーゴさん?」


 それはトーゴさんが初めて会ったときにつけてくださった名前です。普段は滅多に呼んでくださらないその名前に、お返事をするより先に、トーゴさんの顔が急に近づいてきました。

 それから、柔らかいものが唇に触れました。繰り返し、何度も何か温かいものが入り込んできて、驚いたまま目を見開いていると、トーゴさんは口の端を上げて、無精な髭の生えた顔に、いつもの少し意地悪な笑みを浮かべます。


「どうだ?」

「どう……と言われましても……」


 それはきっと、先日秋乃さんにしていたのと同じことのようなのですが、わたくしにはよくわかりませんでした。


「何だ、まだ、わかんねえのかよ」

 首をかしげたわたくしに、トーゴさんは呆れたように言って肩を竦めました。

「まだ早ぇな。もうしばらくは、若木こどものままでいておけ」


 そう言って、ぴん、とわたくしの額を指で弾きました。


 その瞬間、くらりと地面が回るような感じがして、目を閉じると、次の瞬間にはわたくしはトーゴさんに抱き上げられていました。いつも通りの、ちょうど目線が合う高さで。


「トーゴさん、何かわたくしに隠していることはありませんか?」

「ねえよ。お前が忘れてるだけ」

「思い出したら、さっきみたいに大きくなれるのですか?」

「さぁ、どうだろうな? 大きくなりたいのか?」


 トーゴさんは、顔を近づけて、楽しげに笑いました。その笑顔はいつもと変わらないはずなのに、何だか少しだけ寂しげに見えました。問いかけようとして、口を開いたわたくしの言葉は、けれど、トーゴさんの低い笑い声で遮られてしまいました。

 じいっとその顔を見つめると、トーゴさんはその綺麗な黒い夜空のような瞳に、見たことのない光を浮かべて言いました。


「大きくなったら、食っちまうぞ」

「食べられてしまうのですか? トーゴさんに?」

「そういう約束だ」


 くすりと笑った顔はいつもと同じように見えて、何だか違います。何しろわたくしはトーゴさんの観察にかけては七年の経験キャリアがあるのです。

 けれども、なんだかざわざわするこの感覚は、齢七年の一人前のりんごの木の精霊のわたくしにも、やっぱりよくわかりません。


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