5. 傘

 九月ももう半ば近くになりました。時折夏のような日が戻ってはくるものの、概ね朝晩は涼しい日が増えて、虫の音もセミから秋の繊細な声で鳴くスズムシやコオロギたちに変わってきています。

 と言っても、お店の中は空調で一定の室温に保たれているので、こうしてお店でくつろいでいると、季節の移ろいにはちょっぴり鈍感になってしまいそうですけれども。


 トーゴさんはといえば、今日は蒸してペーストにした、甘い甘いさつまいものタルトに、とても綺麗な黄緑のマスカットのフルーツサンド、栗クリームたっぷりのロールケーキと秋の新作開発に余念がありません。

 りんごのデザートの新作はと尋ねたところ、今のところハロウィン向けのあの小さなアップルパイのみだそうです。ちょっぴり不満もありますが、わたくしはもう一人前のりんごの木の精霊ですから、小さな子供のように拗ねたりはしないのです。


 頬を膨らませたまま外に出ようとすると、後ろから襟首を掴まれました。

「おい、これから台風がくるっていうから、こっちで大人しくしとけ」

「え、そうなのですか? では、なおさら見てこなくては」

 まだ青いりんごたちはしっかりと木にくっついているので大丈夫ですが、つやつやに赤い実たちは、もう食べ頃ですよと主張して、放っておいても落ちかねません。台風の強い風など吹いたらポロポロ落ちて、せっかくのつやつやが傷だらけになってしまいます。


 慌てて駆け出そうとすると、今度はお腹のあたりに後ろから腕を回され、引き留められました。粉まみれの手で服を汚さぬようにとの配慮だとは思いますが、日々粉を捏ね、重い荷物も軽々と運ぶその腕に急に引き寄せられて、ちょっと息が詰まりました。見上げたトーゴさんの顔は少し眉根が寄っています。


「もう外は結構な雨だぞ。お前なんて風で飛ばされちまう。一段落ついたら俺が見てくるからちょっと待ってろ」

「トーゴさん、わたくしはこれでも一人前のりんごの木の精霊です。ちょっとやそっとの風で飛ばされたりはいたしませんよ?」


 そう申し上げたのですが、腰に回された腕は緩みません。雨風が強くなってきたのならなおさら早くと気ばかり焦って、ではもう庭へと意識を移してしまおうかと思ったその時、あははと軽い笑い声が聞こえてきました。


「りんごちゃん、とうは心配なんだよ」


 振り向くと、まず真っ赤な頭が目に入りました。ちょうどつやつやに熟したわたくしの果実と同じような艶のある深い赤の髪の毛です。

しゅうさん、こんにちは。綺麗な赤ですね」

「あ、気に入った? りんごちゃんの季節だからおそろいもいいかなって」


 にこにこと笑いながら近づいてきて、わたくしを軽々と抱き上げたその人は、柊二さんと言って、このお店の常連さんです。柊二さんはすらりと背が高く、手は骨張っていて硬そうだけれど、耳にはとても綺麗でちょっと痛そうな輪っかがたくさんついています。

 ちなみに柊二さんは半月に一度ほどの頻度でお店にいらっしゃるのですが、お目にかかるたびに髪の毛の色が変わっています。前にお会いした時は、目にも鮮やかな若葉のような黄緑色、その前は朝顔のような淡く穏やかな紫色でした。


「とっても素敵だと思います。でもどうやってそんなに色を変えているのですか?」

「え、普通に自分でやってるだけだよ。一回脱色して、それから染めると綺麗に染まるんだよね。やっすいカラー剤使うとすぐ色が抜けて白髪みたいになっちゃうけど。りんごちゃんもやってみる?」

「馬鹿言うな。どう考えても化学薬品は果樹には悪影響だ」

「え、りんごちゃんとりんごの木ってそういう関係なの?」

 後ろから、なんだかご機嫌斜めな声で口を挟んだトーゴさんに、柊二さんは首を傾げます。

「よくはわかりませんが、わたくしはりんごの木の精霊ですから、あんまりというのは好ましくないかもしれません」


 何しろわたくしは肥料もなしの天然育ちでございます。好き好んでというよりは、トーゴさんが全くお世話をしてくださらなかったので、否応いやおうなしに無農薬栽培です。頑張れば有機栽培の認証だってとれてしまうかもしれません。それがどんなものなのかは、よく存じ上げませんけれども。


「どこで聞いてくるんだそんな農業知識? そもそも俺しか仕入れないし、別にうちの店の商品に認証マークつける気もないから、必要ないだろう」

「あ、なになに、俺のオンナなんだから、他のやつの目になんか晒したくない、みたいな?」

「……馬鹿なのか? ああ、馬鹿だったな。もういいから、暇なら落ちそうなりんごの収穫でも手伝ってこい」

 トーゴさんの呆れたような声に首を傾げたわたくしに、けれど柊二さんは何やらしたり顔で頷くと、わたくしを抱き上げたまま、奥の扉を抜けて裏庭へと出てきました。


 トーゴさんがおっしゃっていた通り、かなり強い雨が降っています。風も強くなってきているようでした。わたくしが柊二さんの腕から飛び降りて、そのまま駆け出そうとすると、後ろから腕を掴まれました。

「りんごちゃん、濡れちゃうよ?」

 そう言いながら、柊二さんは小脇に抱えていた傘を開き、わたくしの上にかざしてくださいます。


 ざあざあという音と、ぱたたたたた、と傘にあたる雨音が混じって、なんだかとても楽しげに聞こえてきました。透明な傘の上には丸い宝石のような、小さな雨粒が当たっては流れ、当たっては流れ、を繰り返しています。


「りんごちゃん、もしかして傘、初めて?」

 雨粒の流れる様子に目を奪われていたわたくしに、柊二さんが優しい声でそう声をかけてくださいました。

「はい、何しろわたくしはりんごの木の精霊ですから」


 雨はわたくしにとっては美味しいごはん、なくてはならないものです。もちろん、根本の土が流れてしまうほどの豪雨や、あんまりずっと降り続く、梅雨や秋の長雨はちょっと苦手ですけれど。


「そっか」

 見上げたわたくしに、柊二さんはなんだかとても楽しげにその赤い色の髪を揺らして笑っています。それから、扉の近くに置いてあったとうのカゴをわたくしに手渡すと、の前まで一緒に歩いていきました。木の下に立つと、雨はえだに遮られ、ほとんど濡れることはありません。

 柊二さんは傘をたたみ、それから、つやつやに熟した、今にも地面に落っこちそうな実から一つずつ丁寧にもいではカゴに入れてくださいます。


 やがて、落ちそうな実を全てもぐと、カゴは半分くらい埋まっていました。


「ずいぶんたくさん採れたね。でも、残りはあともう少しだねえ」

「そうですね。でもりんごは低温で長期保存が可能なので、まだまだ美味しく召し上がれますよ」

「よく知ってるね。さすがりんごちゃん」

「トーゴさんが教えてくださったんです」

「そっか。あいつはりんごちゃんのことが大好きだからねえ」


 何やら含みのある言葉に、わたくしがじいっとその顔を見上げると、柊二さんはちょっと困ったように笑いながら、わたくしの頭をその綺麗な大きな手で、くしゃりと撫でました。


「桐悟にとっては、家族みたいなものだから。ちゃんとよく食べてよく寝て、長生きするんだよ」

「りんごの木の寿命は大体三十年くらいだそうですから、まあそれくらいは大丈夫ではないでしょうか」

「えっ、そうなの? もっと長いかと思ってた」

「果樹としてはそれくらいなのだそうです。まだまだお役に立てますよ」


 だって果樹として一人前のわたくしは今年が一年目。これからもっともっと美味しい実をつけて、トーゴさんにたくさんのりんごのデザートを作っていただくのです。

 胸を張ったわたくしに、柊二さんはぷっと吹き出して、それからもう一度傘を差すと、お店へと促しました。


 お店の中に戻ると、トーゴさんが箱にいくつかのケーキを包んでいるところでした。

「俺、まだ注文してないけど」

「どうせいつものメンバーだろ。手間賃がわりに今日はサービスしてやるから持ってけ」

 箱を覗き込むと、出来たての新作のさつまいものタルトと栗のロールケーキ、それからつやつやのアップルパイが二つ、入っていました。

「お、新作? あいつが喜ぶよ」

「アップルパイの方が美味しいです」

 口を尖らせたわたくしを見て、トーゴさんがニヤリと笑うのが見えました。それから小さく切った、試食用のタルトを柊二さんに差し出します。柊二さんも笑いながら受け取って口に含むと、ちょっとびっくりしたように目を見開きました。それからわたくしを見て、肩を竦めて言いました。


「桐悟は本当にりんごちゃんが好きだねえ」


 残り半分、テーブルの上に置かれたおいものタルトの断面から覗くのは、ごろっと大きくカットされて甘く煮たりんご。


「組み合わせた方が美味いんだよ」


 ふいと視線を逸らしたトーゴさんの横顔と、ちょうど目に入った透明な傘に、何やら遠い記憶が浮かんできました。


 ほんの小さな芽だったわたくしが、初めて目にしたのは、土が流れるほどの大雨を遮ってくれた透明な丸いもの。それからそれを差しかけてくれていたずぶ濡れの横顔。


 わたくしは、齢七年の一人前のりんごの木の精霊ですが、もしかしたら、うっかり忘れていることがたくさんあるのかもしれません。

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