第7話 暗い部屋に佇む女

暗い部屋は異様なイカ臭さで満ち溢れていた。


洋子は、一人、カーテンの閉められている窓の前に真っ直ぐ立っていた。


部屋の隅にある黒いプラスチック製のごみ箱の中には、大量のティッシュが、丸められて捨ててある。


壁際に勉強机が設置されていて、分厚い書物が何冊も、積んである。


ティラノサウルスのフィギュアが机の隅に置いてある。


暗くて鮮明には見えないが、大きなスピーカーがあり、オーディオ機材がある。


機材の上にはグロテスクな男の顔面がかなり精巧に彫ってある木彫りの彫刻が置いてある。


洋子は、じっと、暗い部屋で壁を凝視していた。


壁には、何もない。気の利いた絵画とか、癒し系カレンダーとか、そんなものは一切ない。


洋子は凝視している。特に、何を考えているわけでもない。


だいたい、この部屋が、誰の家の、誰の部屋なのかさえ、洋子にはわからなかった。


洋子は、新鮮な林檎が、何となく食べたくなり、八百屋に買いに行くということを、自宅にいる夫の井上三木安(元政治家)に対して表明し、家を出たのだ。


井上三木安は、ちょうど、チャイナドレスを着て書道に取り組んでいた。


洋子は、毎回、その姿を微笑ましい気持ちで見る。


洋子は、自宅を出るとすぐに、曲がり角で、腰が異常に曲がった老人、ほとんど頭が地面に付きそうなくらいに、腰が曲がっている老人にぶつかってしまう。


「あの、すみません。」


幼少の頃から素直な心を持つ洋子が謝罪すると、老人は柔和な笑顔を浮かべて、べつに死ぬわけでもないし、いいのだ、と述べた。


老人は自称作家であり、現在『エロスの核心』という著作を執筆中とのこと。


「みんな結局エロいから、エロいことを書けば儲かるかな、と思って。」


腰が異常に曲がり、今や、ほとんど頭が地面に付きそうになっている老人は率直に自身の考えを述べた。


『エロスの核心』は70年以上構想している著作らしい。


洋子は驚いた。


戦時中、空爆に怯えながら、防空壕の中で、老人は(そのときは少年だったが)『エロスの核心』の構想を練り続けていたのだという。


最近はアパートとか一軒家に勝手に侵入し、赤ん坊のチンポコやアナルやマンコを舐めて、その味わいにエロスを感じるのだとか。


「本当はチンポコを入れてみたいんだけどね、でも、エレクトしないんだよね。もう20年くらい、まともにエレクトしてない。機能が失われているようなんだ。

若ければ若いほど、やはり良い物だし、エロい。今は赤ん坊にハマッているが、いずれは受精卵にエロスを感じるだろうね。」


そして精液、卵子、それらにエロスを感じる。


そしてそれらを生み出す成熟した赤黒いチンポコや赤黒いマンコへの愛に、やがては帰還するのだろう。


「私のチンポコはかなり黒くなりほとんど炭みたいな色だ。あなたのマンコはどうだろうか?」


「はい。私のマンコも最近、著しく黒ずんできている事実があります。」


洋子と老人は穏やかなムードの中、路上で、そのような会話をし、握手と、軽い抱擁をして別れたのだった。


路上は静かだった。空にはゆっくりと、大きな雲が、流れていた。


不愉快なおっさんの鼻歌とか、いきなり凄絶な悲鳴を発する中年のおばさんとかは今は、いなかった。


洋子はため息をついた。


別に今は、生きていることを嫌だとか思ってはいないけど。


いきなり胸糞悪い気持ちになることはある。


なんで。


両親が自分勝手に快楽を求めてチンポコをマンコに入れてそれで中出しして受精卵が発生して私が生まれてしまった。


なんで。


そのことが延々と続く絶望の根源なのだ。


勝手にセックスして、勝手に私を産まないで欲しかった。


いや、今は、そんなことは考えない。


路上は静かで、同じような灰色のアパートが(おそらく学生向けの)延々と立ち並ぶ区域を、洋子はブロック塀に触れながら、歩いていた。


その時に、洋子と井上三木安(元政治家・チャイナドレス収集家)の間に生まれた一人娘の咲子はどうしていたか。


「やめてください!変態行為やめてください!」

彼女は、叫んでいた。


公園のベンチだった。


「やめてください!変態行為やめてください!」


そのように、ヒロイックな甲高い声で叫ぶ彼女の腕を、男が掴んでいた。


男は40代半ばくらいだろうか。


髪はボサボサ、伸ばし放題の髭、全裸であり、体毛が濃く、ハエがかなりの数、周囲を飛んでいる。


四角い顔、中年太りしたみっともない身体。


もっさりと生えた陰毛からは、赤黒い、グロテスクに血管が浮き出たチンポコが、びくんびくんと震えながら顔を出している。


「やめてください!変態行為やめてください!」

咲子は叫び続ける。


手汗が夥しく出ている手で、咲子の腕を掴む全裸の男。


彼は、何も言わない。嫌がる咲子の顔を凝視しているだけだ。


ちょうど、公園のベンチの正面には小さいが本格的なステージが設置されていた。そこでは、今まさに「白目を剥いてゆっくり歩くことによってあらゆる感情表現をする」ということを最大の目標に掲げた団員年齢の平均が25歳という非常に若い人たちにより結成された劇団『白目サーカス』がリハーサルを行っていた。


舞台上には一本の電信柱が置かれている。


その周囲を、5人の若者が、白目を剥き、両腕を前に突き出して、のっそり、のっそりと歩いている。


何を表現しているのだろうか。


わからない。


わからないということは、上手くいっていないのか。


監督らしい人物が、観客席の一番前に座っている。


だが、彼は指示を飛ばすことができない。


彼もまた白目を剥いているからだ。そして腕を組んでいる。


白目を剥いて、腕を組んで、頷いている。


何もわからなかった。


結局『白目サーカス』の団員たちは、夜7時になったので、帰ることにした。延々と、ステージの真ん中に設置した電信柱の周りを、白目を剥いて歩いていたが、何一つ「感情表現」を実現した気がしなかった。


団員たちは監督に意見を求めたが、監督は首を振るばかり。


「白目を剥いて、腕を組んでいたんだから、何も見えるわけがない。それくらいのこともわからないのか。お前たちは無能すぎる。どうせ家に大量のエロ本があって、四六時中セックスのことしか考えてないんだろ。深遠な哲学の話とか、人生とは、とかほざいてくるが、そんなのはかっこつけでしかない。実際はくだらない浅い人間なんだよてめえらなんて。底が知れてるんだ。かっこつけやがって。性欲の塊のくせに。ふざけてんだ。こんなもんは!」


監督は急に不機嫌になって最後は、馬鹿、もう知らん、勝手にしろ、と叫び、駆け出して行った。


『白目サーカス』の面々が完全に去った後、公園は真っ暗になっていた。


「やめてください!変態行為やめてください!」

それでも、咲子はベンチで叫び続けていた。


男は、ずっと咲子の腕を掴んでいる。けっして離さないのである。


「やめて!ほんとにやめて!お腹が空いたのよ!」

涙目になる咲子。


しかし、全裸であり、周囲にかなりのハエが飛んでいる男は、何も言わない。


嫌がり、泣き始めた咲子の顔を凝視するばかり。


「家に帰らせて!お腹が空いたのよ!」


いつまで続くのか。終わりがないようにも思える。


男からは凄絶なほどイカの臭いが立ちのぼる。


そして、気が付くと、暗い部屋に、異様なイカ臭さで満ち溢れた部屋に、洋子はいたのである。


何かしらのドアノブを手で触れた感じはあった。


でも、それはいつのことだろうか。ついさっきである可能性は否定はできないが、確定的なものではない。


目の前には壁があり、洋子はそれを凝視していた。


誰の家か、誰の部屋か、全くわからない。


ただ、暗い、何の音もしない、異様なイカ臭さで満ち溢れた部屋に、俯いた姿勢で、真っ直ぐに、立っていた。


時間が経過している感覚はまったくなかった。


特に何を考えているわけでもなく、閉めてあるカーテンの前にいる。


時間が経過している感覚がないから、この状況が終わるということが、永遠にないのではないかと、洋子には思われた。


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