第16話 ブレジネフ書記長の逃れられないキス

 ―――下から手首を持ち上げるようにして手を持ち上げ、相手の手のひらを上に向ける。体を寄せ、その流れで肘のあたりを軽く掴む。掴んだまま相手の身体に押し付ける。こうして相手の脇を閉めさせ、腕を開くとつられて少し首が傾くので、それに相対するように下から抉るように打つべしキス


 かつてロシアで話題になった動画「ブレジネフ書記長の逃れられないキス講座」の応用編、合気道の極め技を取り入れたキスの解説だ。

 ほんの3分ほどの動画は、旧ソ連のキス魔・ブレジネフ書記長のマスクを被った男が道端やカフェで相手に話しかけ、さりげなくキスを奪うというものだったが、実際に被害者が名乗り出て炎上した。

 ここで語られる「気づかれない程度に相手の身体を極める」技術が本当に実用的なのかはわからない。ただ、被害者が出たということで信憑性が出たという話だ。

 なお、本当のブレジネフのキスは、ただがっちりと抱擁して無骨にガッツンガッツンと三度交わすもので、技術もへったくれも無い。

 注目すべきは、当時、社会主義国の首脳はうまく躱す技術も磨いていたことだ。64年、モスクワに到着したカストロ議長は、飛行機から降り立つときに葉巻を咥えることでブレジネフのキスを華麗に回避した。翌年、彼はキューバ共産党の第一書記の座を射止めた。



 さて現実はどうか。

 半睨みする書記ちゃんを起こして、訊いた。右手は詰襟のポケットに入れて。


「このパンツ捨てていい?」

「返して」

「じゃあもう一回目をつぶって」

「もうムリ、絶対ムリ」

「じゃあ後ろ向いて」


 彼女の肩を回して壁に向かせてから手をパン、と強く叩く。


「はい、履かせた」


 ビクッとした彼女の肩越しにささやく。慌てて確認したかと思うと本当に驚いた顔で振り返る。


「ケイくん、ど、どうやって履かせたの?」

「こう、シャッって」


 両手を縦に上下させた。


「え、え、え」


 三歩ほど下がって椅子に座って、笑いながら答えた。


「脱がしてないんだな、これが」


 ようやく揶揄われたことに気づいたようだ。


「わたし、騙されてた?」

「うん、すごく、すごかった」


 笑いが止まらない。語彙が足らない。

 机にあったメガネを渡す。これでホンモノの書記ちゃんだ。


「これぐらい意趣返しさせてもらわないと、ね」


 そう口にした途端にテンションが下がった。笑いが途絶えた。もちろん自分のことだが、違ったらしい。

 あちらはまだ顔を赤くしたまま、まだ頭の処理が追いついてないようだ。俺なんかより遥かに頭脳明晰なはずの彼女は…逃げ出したいとか思ってるだろうな。じゃあこうだ。


「今日、一緒に帰らない?」


 あ、固まった。酸欠の金魚みたいにパクパクしてて面白いし、判りやすい。あえて奔放な感じに勢いよく立ち上がってカバンに荷物をまとめる。

 よく見たら友人のカバンもある。これは出た途端に遭遇するかもわからんね。


「あー。やっぱ一人で帰るわ」


 自分のカバンを取ろうとしていた書記ちゃんが、怯えた顔でこちらを見る。たぶんここのでの正解はきっとこれだ。



 ―――神よ、この死に至る愛の中で我を生き延びさせ給え



 好きな人とキスするとすぐ死んでしまう。そんなのはやりきれないと言ったが、あれは嘘だ。思いがけずちょっぴり好きになってしまった子の、その唇をあっさりと奪ってしまった。肘は掴んだが、逆に鼻息荒くと両手で頭を掴まれて。相手は本物の書記長だった。

 友人から、という意味では奪ってしまったので間違いではない。それよりもこの後に起こるだろう遭遇戦に集中したかった。



     * * *




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