第11話 二人の母

 妻の死は訳が分からなかった。産後の肥立ちが悪かったということにはなっているが、退院する予定時間に迎えに行ったら大量出血を起こし多臓器不全で手の付けようがない状態になっていた。出産時や出産直後ならまだしも、5日も経ってからの大量出血など聞いたことが無かった。

 前日までは何ともなく、朝、電話でヤマザキの薄皮クリームパンのピーナッツ味を買ってきてと言うので、あれ5個入りだけど一個でお茶碗一杯分だぞ、と脅したのが最期だった。もちろんこれは嘘*だ。



 息子のケイの子育ては2歳上の姉に頼りきりになった。あんたたちの新居に嫁さん面して居つくのも悪いよ、と最初は通っていたが、一週間もしないうちに関越道で居眠り運転で事故を起こし、旦那と大喧嘩して我が家に住み着くようになった。大破したベンツGクラスから、大量のストロングゼロの空き缶が出て車両保険が下りなかったのだ。ああ、姉よ。あなたはGクラスの値段を知らない。


 本人はまったくの無傷で、流石ベンツとうそぶいていたが、実はこのとき流産していた。こっそりと桂に母乳を与えていたのだ。吸わせてみたら出た、人の体っていい加減なもんだね、もう止まんないし、なんて笑っていたが、気を遣わせまいと無理しているのが分かった。姉が桂の事実上の2番目の母になった。



     * * *



 それから1年、平穏な日々が続いた。トイレの電気は付けっぱなし、トイレットペーパーは使い切ってもそのまま、冷蔵庫に飲み終えた牛乳パックを戻す、お風呂の蛇口はいつも閉め切らずたれ流し、エアコンは気付くと24℃に変更され、それでいて寒いと怒った。出かけるときもテレビは付けっぱなし、ダイニングのテーブルの下には派手なブラジャーが落ちており、玄関に常に10足は靴が出ている。ナプキンの張りついた下着を脱衣所の床に置きっぱなし、ついには妻のたっての希望で奮発した、ミーレの全自動洗濯機を壊し修理を呼んだ。姉はうっかりオムツ洗っちゃった、ごめーん、と言っていたが出てきたのはナプキンだった。食器洗いとゴミ出しは絶対にやらないと最初から宣言していたが、姉は本当によく育児をやってくれていた。

 仕事から帰ってくると、家のすみずみまで明かりが灯っているのが見えた。家に着くなり姉に「この家は明るいね」と皮肉ってみたが、満面の笑みで「感謝しろよ」と返された。光熱費は以前の3倍になった。


 育児で忙しいからしょうがない、とよく文句を言っていたが、それらは実家にいたときの懐かしき姉の行動そのものだった。義兄もよくこんなのと結婚したなと、うんざりしつつも、ヤフオクを駆使した育児ライフの充実っぷりには感謝していた。もっとも駆使していたのは義兄のクレジットカードだったが。


 その姉は、朝起きたらトイレで冷たくなっていた。


 死後硬直で固まりはじめた姉をトイレから引っ張り出したが、尻穴にティッシュがこびり付いていたので、救急車が来る前にきれいに拭きとった。最期までこんな感じか、と思うと不思議と涙が出なかった。

 下着を履かせようとしたら、アンダーヘアが味付け海苔みたいでちょっとだけ笑えた。姉の名は倫子のりこだ。義兄がハイジニーナだけはイヤだと文句を言っていたのを思い出した。電話しなきゃな、いや本当に尊敬するわ、義兄どの。愛されてんじゃん。ようやく涙があふれた。



     * * *



 生徒指導室に行くと、見慣れたヤクザっぽい体育教師の担任と、校長先生、その他4人ほどに囲まれて嫌な予感がした。


 亡くなった生徒さんのお母さんが言うには、毎日のように桂が亡くなった息子の家に入り浸っている、何とかしてくれ、というものだった。

 すでに息子はスクールカウンセラーと何度か面談していたが、最初はとても激しい自責感情と後悔を持っていたようで、あたかも自分が殺したかのようだったが、先の面談では明らかに現実を受け止められない言動が伺えた。

 無理に死を確認させるのは本人のためにならないので、時間をかけて理解させるほかない、亡くなった生徒さんのお母さんのご負担にならないような形に持っていきたいので、まっすぐ家に帰るよう働きかけてくれ、とのことだった。

 亡くなる以前も、学校帰りに家に入り浸っていた、唯一の親友だったことも聞かされた。友達とは聞かされていたが、親友と呼べるような間柄だと聞かされたのは初耳だった。


 以前にも息子さんは親しいお友達を相次いで亡くされているので、こちらとしても慎重に対応していきたい、と言われて、え、と戸惑った。幼稚園からずっと仲良しだった女生徒で、山本さんと斎藤さん、覚えていらっしゃいませんか? と聞かれて固まった。

 幼稚園にはほとんど通えなかったのに、ずっと仲良し? 誰かと勘違いしてませんか? と聞いたが、新入生に王子様みたいな子が居て、目の色が珍しい淡褐色ヘーゼルですごい色白で、親御さんたちに未公認ファンクラブまであったとか、幼稚園でも王子様に近寄る有象無象を蹴散らしていたそのツートップが相次いで亡くなったときは毒殺まで噂されたとかの妄言を聞かされた。

 毒殺、という言葉にふと姉の姿がよぎった。残念美人だったが死に顔はひどく歪んでいて残念残念だった。姉の目も淡褐色だった。


「すいません、亡くなった生徒さん、藤井君の死因は何だったんですか?」

「心不全です。朝、校庭で授業前に遊んでいて急に苦しんで倒れまして」

「でもAEDとかありますよね、学校って」

「ええ、私が使いました。救急車に乗せた時は呼吸も安定していて、意識もあって、それが病院で急変したそうです」


 担任が牽制するように続ける。


「私は体育教師なので、救急処置の訓練も受けています」

「もともと持病があったとかは?」

「そういうのは無かったと聞いています」

「あの、以前亡くなった生徒さんは?」

「…山本さんは白血病でした。もう一人の生徒は持病があったとしか」


 さっき妄言を吐いていた前の担任の女性がためらいがちに話した。これ以上話すことはない、というニュアンスで続けた。


「嫌ですよね、子供が亡くなるのは」



     * * *



 息子の周りにはあまりにも死が多い。親しくなった者を根こそぎ奪ってゆく。それが5人というのはさすがに無視できる数じゃない。女子生徒たちのことはよく知らないが、おそらく親愛を深め、距離を縮めて奈落に落ちたのだろう。俺はなぜ死なない? 妻や姉と何が違う?

 そこまでは考えたが、結局いちばん簡単な方法を選んだ。距離を取れば俺は死なない。必要以上に関わらなければ何も起きない。考えても分からないものは分からないままにしておく。封をするわけではない。逃げたり投げ出したりするわけでもない。触れたり壊したりもしない。

 人は分からないものにレッテルを貼って安心しようとする。分からないものに恐怖する。恐怖は人を攻撃的にする。分からないままにしておくのはとても難しい。だが、それが俺の処世術だ。



     * * *



 *ヤマザキの薄皮シリーズはだいたい2個でお茶碗一杯分、200~240Kcalです

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