第9話 最初の3人
彼の机の上にルービック・キューブが置かれている。
誰が最初に学校に持ち込んだのか、学年全体にブームが来ていた。小学校にゲーム類の持ち込みは原則禁止だが、ルービック・キューブだけは知育玩具として黙認されていた。
4時間目の授業の時間はとっくに始まっているが、4年生の教室、ルービック・キューブが置かれた席だけは生徒がいない。
そして俺は残酷な事実をこの教室で伝えなければならない。冷静に、事実だけを。まだこのことを知らない子供たちに。
何で俺が担任の時にこんなことが起こる? 誰か冗談だと言ってくれ。もう帰らせてくれ。こんなクソみたいな役割を果たさなければならない教師がいったい世の中に何人いる? 足が重い。膝が震える。
吐くものは吐きつくしてもう胃液すら吐けない。ちくしょう。歯を食いしばれ。眉間のしわを消せ。顔面の筋肉を揉みほぐせ。
止まれ、鼻水。
このフロアでこの教室だけがまだ騒がしい。だがあと何分かすれば泣き声しか聞こえなくなるだろう。さあ、行け。一番仲が良かったのはあいつだ、ケイだ。どうしてる? あいつ、勘が良いからもう気付いてるかもしれない。チャイムが鳴って15分経っても俺が来ないのはおかしい。
一歩、教室に入った。さあ止まるな。顔を上げろ。皆の顔を見ろ。それが俺の義務だ。ケイは――机に突っ伏してる。
もう気付いてる。
だんだん教室が静かになってきた。こんなパンチパーマでゴリラみたいな顔で、こめかみに血管浮かしてたらそりゃ黙るよな。あ、永山が気付いた。歯を食いしばった。やっぱ地頭いいな、あいつ。察しがいい。いい女だよな、だからその胸で癒してくれ、ちくしょう。気付いたのは2人だけかい。まあいい。
「朝、校庭で倒れた藤井純くんですが」
つづけろ
「――残念ながら先ほど病院で亡くなりました」
* * *
「…純ってなんで自分の写真飾ってるの?」
おれはルービック・キューブを持った右手で鴨居のほうを指した。
そこにはなぜか遺影のような写真が額装されて飾ってある。
「うち家族みんな撮ってるけど、ケイくん撮ってないの?」
「お正月に親戚と集合写真は撮るけど」
「うち毎年写真館で撮るから、写真館の人が撮ってくれて」
「やっぱ比べんの? 横に置いたりして」
「いや?」
「ふーん、なんか女優みたいだなって」
「そうなの?」
「なんかで読んだ。自分の今の最高を撮って、それを部屋に貼りつけるじゃん? それはもう過去で、それと今の自分を競争させるの。常に進化してないとダメで、過去の自分に負けたら引退するんだって」
「あ、今のキメ、女優っぽい」
「そうかしらぁん? うふ」
「ケイくん女の子っぽいよね」
「あたくしは魔性の女、ケ・イ・コよ」
「あ――っ、いま、した?」
「もう一回、いいかしら」
「……」
「おれ、一年生のときキス魔って呼ばれてて」
「そういうのは好きな人としないと」
「めちゃくちゃ好き」
「えー」
「いいじゃん好きなんだしもう一回」
おれの初告白はこんな感じだった。ガチ初恋は同性。絶対明日返すからと言って奪うようにルービック・キューブを借りて、意気揚々と全力疾走して帰った。借りたのは保険だった。もし気まずくなった場合の。
遅刻ギリギリで登校したおれは、結局返すことはできなかった。
* * *
「昨日、このクラスの斎藤裕子さんが亡くなりました。残念ながら病気の療養のため、入学から一度も学校に来られなかったので、みなさんの中には一度も会ったことがない人もいるかもしれませんが、ごめいふくをお祈りしましょう」
1年生の担任の田沼先生が鼻をすすりながら、ゆっくりと説明する。やたらと先生と目が合う気がするが何だろう。
ざわざわする教室。ショックを受けた顔の子が、1,2、…3人。その全員がぼくのことを見る。全員、ぼくと同じ幼稚園出身だ。
(え? 誰? 知ってる子?)
「ケイくん、何で?! 裕ちゃんはずっとケイくんのこと好きだったのに! お見舞い行ったんでしょ?!」
いやいや、病気だったことも知らないし、そもそも誰だか思い出せないし。
「覚えてないの?! ねぇ、ケイくんが初めて幼稚園に来た日にキスした子だよ?」
「え? それお前だろ?」
* * *
ぼくの心臓の弁はポンコツで、幼稚園に入園したものの、初めて行ったのは年長組になってから、それも夏だった。
幼稚園というところでは何をすればいいのかまったく分からず、途方にくれて先生みたいに周りの園児たちを見ながら立っていた。そんなとき、いきなりキスしてきた子がいた。ビックリして慌てて口を拭ったけど、それを見てその子が泣き出したから、ああ、こうしてキスすればいいのかと思ってキスを返したら、余計泣かれた。あの子か。
その日は熱を出して午前中で退場、その後も入退院を繰り返してトータルで3週間ぐらいしか通えていない。記憶があいまいで、目の前のレイとすり替わっていたようだ。
「バカ!! あのとき私もした…けど…」
あー、泣いちゃった。その記憶もどうやら違うみたいですぜ。初登園で女の子2人からキス? どんだけモテてたの。ぜんぜん記憶にないんだけど。
もはや教室にしんみりした雰囲気は皆無で、レイの周りに集まった女子からは最低の鬼畜扱いで、男子からは「ケイとレイ! 敬礼! 結婚!」とはやし立てられた。酷いことに、いつの間にか、ぼくから2人にキスしたことになっていて、6歳にして「キス魔人」という不名誉な称号を得てしまった。
そのレイも、夏休みのあいだに急性白血病でこの世を去った。
さすがにぼくもこの時はお葬式で泣いた。
* * *
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます