第5話 流れないプール

「通報した人、おそらくその人がこの庭に何かを埋めた犯人です」


 ダメだ。第一声がこれじゃ何を言ってるか意味不明だし、伝わってない。超絶に頭が回らない。今の発言で間違いなくパトカーの後部座席の指定予約が取れたはずだ。全席指定・禁煙車、14時02分発・特急第八方面・終点・小平警察署まで止まりません。


「とりあえず、家の中で説明しますのでどうぞ」


 野次馬の前でこの家が空き家であることを公言するのはあまりよろしくない。鍵を取り出そうとして、今日は鍵を持ってないことに気づいた。これじゃ完全に不法侵入の不審者だ。


「あ、やっぱりパトカーの中でもいいです」


 とりあえず心証を少しでも良くするために指定席に案内してもらった。なんかあったんですか、なんてパトカーの前で待ち構えていた声のデカい男が白々しく聞きに来る。ジロジロ見んな糞虫が。エアコンの効いた車内に乗り込んで少しホッとする。横に若い警官が座る。その様子を車外から観察していた線の細い神経質そうな警官が、前の助手席に乗り込んでこちらを向く。ようやく頭の中で話が組めてきた。

 5分もしないうちに応援が呼ばれ、あとは不法投棄の犯人確保まで一直線だった。



     * * *



 通報者は隣のアパートの住民で、案の定、不法投棄したのもその夫婦だった。投棄した廃棄物の撤去義務と5年以下の懲役もしくは1,000万円以下の罰金、加えて器物損壊。ポポーの木の下に埋まっていたのは猫だった。自分たちの手で掘り起こすんだろうか。

 事情聴取を終え、線の細い警官が清書したものに署名した。パトカーから降ろしてもらえるかと思ったら、犯人夫婦の妻のほうが精神的に不安定で、下手をすると逆恨みされそうな感じなので、顔を会わせない方がいいと、若い警官がわざわざ100均グッズの詰まった袋を持ってきてくれた。これ、使わなかったけど経費になるんだろうか。


 移動中のパトカーの中から会社に電話すると、迎えに来てくれるとのこと。ついでに爺さんにも無事解決したと礼を伝える。



     * * *



 空が赤く染まった頃に小平署まで迎えに来てくれたのは『城南〇〇サービス』の車だった。城南って港区とか大田区とか都心のはずだけど。すげえ遠くから来たな。

 運転していたのは城南の経理の女性だった。普段はかけていない眼鏡をしている。エクセルでゴリゴリのマクロ組んでそうな、繊細で神経質な印象だったが、運転はすこぶる荒い。アクセルかブレーキのどちらかを常に踏んでいる。これは酔いそうだな、とチラッと横を見ると、思いがけない強烈なパイスラが目に飛び込んできた。これはいけない。バカ夫婦のせいですっかりやさぐれてしまった気持ちを再起動して心のf2を連打する。


 BIOSを初期化しますか? <はい><いいえ>


「すいません、ちょっと寄ってほしいところがあるんですけどお願いできますか?」

「…ぁい」


 やけに声が小さい。とりあえずナビの画面を凝視して目的地を探し出す。

「あ、その信号を左に曲がっ」

「…(クイッ)」

「――ってしばらくまっすぐです。あの、お名前教えていただけますか」

「…ィず」

「スズさん?」

「シ・ズ」

「シズさんですね。こんな遠いところまでありがとうございます」

「……」

「さっきココ来るときに電車からプール見つけたんですよ、流れるプール。それもけっこうレトロな感じの」

「……」


 反応が悪い。「自分にご褒美」に切り替えよう。

「でね、今日ね、悪い人捕まえたんですよ。名推理で。他人の家に不法投棄しておいて、その家に入った人を通報する? 雑魚ザコいよね。あんな奴らのために一日潰れて。でね、良いことしたけど今日という一日は散々だったから、最後にちゃんと良くしたいんだ。ちょーっとしてくれない?」

「…泳ぎたいの? もう閉まってるし」

「知ってる。一緒に泳がない?」

 よし、言った。


「バカ?」

「もちろん」

「水着は?」

「もちろん」

「無いんだ」

「もちろん。でも絶対に今日は泳ぐ。あ、そこ右」


 プールに隣接した公園の入り口で停車。

「5分でもいい、1分でもいい、今日、泳いだという事実が欲しい」


 さあエンジンを切れ、切れ、切れ。もう一押しか。言ってるのは「先っぽだけでもいいから」とまったく同義だが、それを気付かせないように畳みかける。


「特別なご褒美が欲しい」


 言い切ってから初めて顔を見つめる。あちゃー、微妙な顔だよ。俺だってこんなこと言われたらドン引きだ。はい、ここから目を逸らさず長考に入ります。寄り筋はハンドルを握ってる左手。詰めろワンタッチ。お、目を逸らしたし。お!! エンジン切ったよお姉さん。シズちゃんだっけスズちゃんだっけ? エンジン切っちゃったよ? 止めてた息、吐いちゃったよ? 俺の心臓、バクバクが止まらない。


「じゃあ行こう」


 電気の消えた正門の手前、ツナギ姿の2人は自転車置き場に入る。ざっと見まわした感じ、監視カメラやセンサー類は見当たらない。

 フェンスが一か所、たわんでいる。誰かが出入りしている形跡があった。倒れている自転車を起こし、彼女を荷台の上に立たせる。


「そこの穴が広がってるところにつま先入れて。そう」

「鉄棒みたいに腕で上に」

「反対の足上げてフェンスに跨って」

「ちょっと待って」


 サドルの上に乗ってピョンと飛び、フェンスの上に一瞬だけ立ち、しゃがんで重心を前に倒し、前転して敷地内に着地。フェンスが揺れて小さい悲鳴が上がる。


「はい、手のひらに足載せて」

「反対の足も。あ、体の向きは外のままで。そうそう。ゆっくり下ろすよ。肩に手を載せて」

 彼女の膝が目の前に来るまで下げてから、パッと手を放して腰をガバッと抱く。その時に少し後ろに反らないと顎と頭がヒットするが、上手く行くと対面立位で密着する。ちょっとよろけたがそれなりにサマになった。お互い息が荒い。そのままギュッと抱きしめる。もうすごくいい匂い。一瞬でバッキバキになるが、いくら当てても押し付けても逃げ場はないから構わない。体がブルブル震える。魔法なんて無くても一気に体温を上昇させ、身体能力を高める正真正銘の「バフ」。それが武者震いだ。


「行こう」


 管理棟から一番遠いフェンス側を抜け、流れるプールへ。電車が通ると思いのほか明るく照らし出される。開ききった瞳孔には車窓の明かりが眩しすぎる。手を繋いだまま流れるプールのトンネルの影に潜り込んだ。


 無言のまま靴と靴下をまとめて脱ぎ、ツナギを脱ぎ、Tシャツを脱ぎ、パンツも脱ぐ。もう名前忘れちった、彼女を無視して大きく息を吸い、黒い水面に静かに飛び込む。深さが分からないとものすごく怖い。当たり前だが水は流れていない。とりあえず潜る。武者震いが止まらない。というかかなり冷たい。今は9月も中旬だ。


 ゆっくりと水面に顔を出す。ナントカお姉さんはもちろん服を着たままだ。あ、思い出した。名前。


「スズ」

「シ・ズ!」

 本気で間違えたが、天丼ネタになったおかげで緊張が切れた。


 プールサイドまでゆっくり泳ぎ、手招きする。

 近寄って来たので手を伸ばす。手のひらを上にする。

 手を握るかと思ったら手のひらに自分の顔を押し付けてきた。顔が近い。まだ怒っている。


「冷た! ていうか、あんたの名前知らないんだけど」


「ケイ」


「ケイは生意気?」


 鼻が触れそうな距離までスッと近づいてみる。もちろん、生意気なガキを必死で演じているだけの心臓ドキドキバクンの小心者だ。たぶんバレている。じゃなきゃそんな質問はしない。だから返事はしない。


「ぬいで」


 声が震えて訛ったった。必至のここで痛恨のミス。さっきは大胆にしっかりと押し当てたくせにもうこれだ。吊り橋効果は必要十分、あとはきっかけを与えれば良いだけなのに、いつだって必死さが歯車を狂わせる。


 手から顔が離れた。ああ、死ね、死ね、5秒前の俺。彼女がプールサイドから離れていく。と、振り返る。


「こっち見んな」


 あれ?? セーフだった??



     * * *



「ちょっと離れて」

 背を向けていた俺の後ろから声がした。一瞬振り返るとバレッタで髪を巻き上げたシズが見えた。


「だからこっち見んなて」


 流れるプールの反対岸まで移動すると、ようやく後ろから水音が聞こえた。振り返ると顎のあたりまで水に浸かったシズが近くにいた。


「けっこう冷たいね」



 この日、俺たちは日本中の男女の見果てぬ金字塔「夜のプールに忍び込み裸で一緒に泳ぐ」をついに達成したのだ。

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