第2話
〇月×日
あの日から数えて、何人、死んだ?
例の薬を開発して、20年近くなる。自分に使い、その虜となり、羊にもばらまいた。羊は予想以上に興奮し、攻撃性を露わにした。他人を殺る、か、自分を殺るか、選択の岐路に立ち嗚咽しながら死んだ。
僕のワイフ。
そう、あれも殺した。
楽しい、安全な会話で毎日暮らし、大丈夫だよ、と言いながら、密かに、食事に薬を混ぜた。表向きの治療には、睡眠薬を処方し、優しくなだめた。バイオリンの演奏家として世界を回り、日々緊張しながら、生きていた。夫を信じ切る妻の心は次第に病んでいった。
やがて、ワイフは家から離れたいといいだした。バイオリン演奏家をやめて、若い頃の留学先だったドイツで休養したいといった。
私はいつものように、口では彼女のわがままを許した。
そしてようやくその日がきたと狂喜した。
キャリーバックに荷物を積め、旅支度が整った朝、スクランブルエックの中にアレを混ぜた。
玄関口で見送る、灰色がかった、ワイフの顔に私は満足した。
玄関先で私は悲しい目を送った。最後の旅路に、涙さえ流した。
すいません、
彼女は口元でそう作って去っていった。
2
「T美さん、ちょっといいかな」
MはT美を所長室に呼んだ。
T美は数年前、大学の紹介で入職した臨床心理士だった。年は20代後半で資格をとってまだ数年だったが、遅くまで記録を打ち込む姿がMの目に留まっていた。周りからは将来のチーフを嘱望されていた。
「連絡があってね。君の担当している、ほら背が高くて、IT会社の副社長している…」
「Wさんですか?」
「そうそう、Wさんがね、10セッション受けたのに効果がないから担当を変えてほしいというんだ」
「え、どうして…」
化粧っけのない額から血の気が引くのがみえた。
「…先生に直接ご連絡があったのですか」
「うん。ほら、あの会社、寄付が多くて、何かと要求水準が高い。君はよく勉強しているから、ビップを担当してもらったんだがね」
「ご迷惑かけて…申し訳ありません」
「いやいいんだ。ひとまずWさんは僕が引き取るよ。よくあることだから気にしなくていい。これも経験だから」
T美はぺこぺこと,こわばった顔で何度も許してください、といった。
Mはにんまりとして、もてあそんでいたペンを机に置いた。
「許さないよ」
もちろん、クライエントからそのような連絡なぞなかった。
連絡したのはMの方だった。クライエントには適当な理由をいって、Mの担当に変えたのだった。T美のカウンセリングは進捗していたし、ストレスもだいぶ収まっていたと副社長は電話口で話していた。その言葉が余計にMの癪に障った。
MはT美の処罰を決定した。
一人、所長室の安楽椅子に深々と座り、T美の血の気の引いた顔を思い浮かべ、それが深くて暗い扉の中に閉ざされていくのを見た。
T美を処罰する理由。
たいしたことではない。ただ単に真面目さが憎かったのだ。まじめに人に取り組む姿勢。
カウンセリングの鷹揚さは座学で会得するものではない。一方で人には言えないようなつらい経験を持つ者が他人の心に入りすぎて、治療にならない場合だってある。結婚してこどもを作って、母性を知り、いやそれが生活の疲れを染み出させて、クライエントの不興を買うかもしれない。
他人の心を扱う以上、バランスがなければいけない。だが難しい。
ひょっとしてT美はこの仕事に向いているかもしれない。このままいけば職場結婚でもして、カウンセラーとしての、バランス、あの鷹揚さを身につけられるかもしれない。
無名の人間ほど、地道な人間ほど、クライエントを治せるのだ。功名心や親心はかえって邪魔だ。著作のある者、学会で名をはせる者、そういう輩は現場ではつかえない。気持ちが揺れ、行ったり来たりのクライエントにプライドが我慢できなくなる。
Mの悪魔は目立たず、真面目で、芽のある人間を破壊する衝動にかられた。
T美がMに教えを請う時の、あのボディーゾーンが気に食わなかった。教師と生徒の距離を崩さないあの真摯な態度が嫌いだった。
T美が研究所にきて2年、彼の悪魔はついに生贄を決めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます