Mの殺意
おっさん
第1話
Mは妻を殺めた。
ビジネスホテルで首をつっている、そう連絡が入ったのは、盆を過ぎ、残暑の残る金曜日、診療の最中だった。警察官は妙に低い遠慮がちな声で、妻の死を伝えてきた。
残りのクライエントにセッションの中止を申し出ると、ジャケットを鷲摑みにして、くだんの町までタクシーを飛ばした。
実を言えばそれは必然の、死だった。
Mは死体に会う前から心のアリバイをいくつも作っていた。
ホテルへ到着し、駆け込んで部屋に入ると、身体はすでに降ろされ、手足の先がすっかり白くなり、瞼が水を入れたように膨れていた。
「ご確認、お願いします」
Mは膝を崩し、ナイロンの敷布を握りしめ、紫に変色した索状痕を見つめながら、
「妻です」
といった。
(10時間は経っている)
心の内でMはそう見立てていた。
「検死の後、連絡させていただきます」
おそらく連絡をくれた警察官であろう、男はMを横目に、白くなった顔に大事そうに黒いシーツをかぶせ手を合わせた。
Mは静かに泣いて、
「…ご迷惑おかけします」
と頭を下げた。
精神科医であるMは、自らの名を冠した心理療法の創設者で、数多くの著作とともに「心の問題」では常にマスコミに取り上げられる業界の寵児であった。クライエント、すなわち信奉者は彼の治療を受けるために行列を作った。
若くして大学病院の準教授まで上り詰めると、あっさりそこでの出世を捨て、私設の研究所を開設した。大学での信奉者は、今度は彼の研究所に行列を作った。信奉者には、カウンセリングの助手となる、心理療法士、研修医、学生を含んでいた。評判が評判を呼び、クライエントもスタッフも鋭角で増えていった。当初の研究所はわずか数年で手狭となり、間借りのフロアを出て、とうとう5階建てのビルを丸ごと購入するに至った。
新たな研究所は、都会の表通り、横断歩道の交差する街中で、信号待ちの人々がふいに仰ぎ見る、目を刺すガラス張りの建物だった。
有名人、政治家、噂をきいたその家族、係累、の出入りも頻繁だった。彼らのプライバシーを守るために裏玄関から地下駐車場、業務用に似せた秘密のエレベーターまで設置していた。大物の彼らを、スタッフがいそいそと誘導する姿が、まさに研究所のブランドだった。世間での大人物、が、Mの前では、打ち捨てられた、犬や猫のように泣いて助けを求めた。
Mの自尊心は満たされたかのように思えた。官僚主義の大学を辞めて、王国を作れば安心すると考えていた。信者が研究所に多額の寄付を申し出るたびに、万能感を感じた。
だが、最終的に彼の悪魔は彼を自由にしなかった。
泣き叫んで助けを求める人間ほど強欲なものはない。万能感を勝手に信じ込み、そこにわずかでもシミがあれば、わがままをいって過大な要求を当然のようにするのがクライエントの本質だった。
治療に引き込んでおきながら吐き気がする。人の本性に触れるにつけ、もともと嫌いな人間たちをさらに憎んだ。
死に絶えろ。
彼は心のうちで叫んだ。
Mの憎しみに付け込んだ彼の内に住む悪魔は、彼に人殺しを命令した。
いつの日からか、Mはそれに従い、何人もの人間を殺めていった。
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