第3話
かの上場企業の副社長はいとも簡単に死んだ。
会社のトイレで真っ赤に染まった右手を便器に突っ込み、絶命していた。動脈をざっくり切って水の中に浸していた。T美からMに代わり、わずか1か月後の出来事だった。T美は報道でそれを知ったのか、あくる日から体調不良を理由に休むようになった。
スタッフの間に動揺が走った。
Mは会議室にスタッフ全員を集め、ミーティングを始めた。
「今日はT美さんの件について話そうと思う。誰か彼女から連絡は?」
司会でチーフのA子が真っ先に手を挙げた。
「誰も連絡をもらってないようです。こちらからかけても、不通で。まじめだったので心配しています」
Mはひとつ頷き、
「他には?」
と総勢53人の顔を見渡した。
「アセスメントと違って自信を失くしたようでした」
「真面目さがほどよくとれて、成長していた矢先だったのに」
「記録にはない悩みをかかえていたのでしょうか」
「…いいにくいけど、カウンセラーとして、ちょっとね。僕はそう思った」
一通り、発言が終わると、とぼけたような、間の抜けた男の声がした。
「あの、ちょっと、はい、ほんと、言いにくいんですけど。寄付は、研究所への寄付は大丈夫でしょうか。ほかの会社にも影響がないでしょうか」
不遜を前提に、変に口ごもった質問だったが、部屋の人間の多くが本音ではそのことが気になっていたのだろう。寄付の一部は、彼らのボーナスになっていた。
目線がMに集まった。Mはおもむろに口を開いた。
「知っての通り、Wさんの所属する会社から、我が研究所は多大な寄付を受けている。WさんをT美さんに担当させた私の責任もある。この件は私が直接、調査しようと思う。何か情報があれば教えてほしい。皆さんに肝に銘じてほしいのは、治療者としての長いキャリアを考えると、今後もこういうことはあるから、振り返りは必要だけど、気持ちの切り替えも大事だ。寄付の件は心配しないでください。仮になくなっても、皆さんのインカムが減ることはないです。これは所長として僕が責任を持つ」
安堵したような深い吐息が室内に行き渡った。
「それではこれで散会ということで、もし何かあれば私の方にお願いします」
司会のA子が区切りをつけると、集団は出口に向かって散っていった。
「ちょっといいかな」
散会とともに、MはA子に声をかけた。
こういう場合は5階の所長室と決まっている。
A子はMの後ろに密着するようについていった。
Mは所長室に入るなり、小声でこういった。
「彼女、向いてないね」
A子のハッとした表情をよそに、Mは続けた。
「記録にはないんだがね、実はWさんとの最終のセッションで…」
2週間後、T美はやせ細った姿で研究所に現れた。重い足取りだった。か細くなった手の甲は微かに震えていた。全員が気をつかって、T美をじっと見ないで仕事に向かっていた。だがその空気もかえって変だときづいたのだろう、誰かが、おはようと声をかけると、派生したように全員が、おはようといった。
「クライエントの自殺ほどきついものはない。僕らはそう宿命つけられている。だけどこれが我々の仕事なんだよ」
MはT美に職場にもどるよう説得した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます