第34話 風邪は万病のもと。なのです。

「はぁ…。」


 日本の病院に入院したのは初めてでした。医師の診断は、初期の下食道炎。私の場合、移植患者の中でも死に直結しやすい心臓移植患者なので、こんな症状でも検査入院が必要でした。

 流行病コロナの影響もあり、病棟はいつもピリピリしていますし、お見舞いも一切できませんので、私を訪れる人間は医師と看護師のみ。


 入院と言われた時に持って来た日本の教科書を眺めながら、出来るだけ授業に遅れまいと努力しています。


『お嬢さんは熱心だね。学生さん?』


 そう聞いてくるのは、カーテンを挟んでお隣りのお爺さん。室内は私も含めて4人の患者が、各々の入院生活をしています。


「イエス。」

『おや、外国の方ですか。わしゃ英語はてんでしゃべれんの。あ~お嬢さんなら日本語は分かるかいなぁ』


 多分、そう話しているのだろうけれど、お爺さんの言葉は日本語独自の訛りが強くて、困ってしまいます。


「大丈夫。私、日本語分かる。」

『そうかい。そうかい。勉強熱心なんじゃな。若い事は良いことじゃ。私が若い頃には…。』


 そう言ってお爺さんは自分の過去を饒舌に語ってきます。が実はこの話、この日で3回目。


(お爺さん、何回この話をしてくるのでしょう…。私もアメリカ人だから戦争についての話は曾祖母グランマから聞かされたけど…。)


 ただ、何度同じ話を聞いても、日本人から見た戦争の記憶は、私が聞かされたものとは少しだけニュアンスが違っていて、とても興味深い事です。なにせ70年以上も前の話ですし、祖父母も戦争に行ったわけではないのです。だから、曾祖母グランマの話には多少の美化があるのかもしれません。

 看護師さんのお話では、お爺さんは認知症の疑いがあり、そのため同じ話を繰り返してしまうそうなのですが、お爺さん自身は認知症ではないと否定し続けていると聞いています。


『シェリーさんが来てからの高橋さんは、とても精神的に安定しているんですよ。お孫さんの子供も同じくらいの年齢なのだとか。本当かは私も知らないのですけれど、でもおかげで退院も早くなりそうです。まぁ…家族は施設行きを希望しているようなのですが、今はどの施設も満杯なので難しいでしょうね。』


「施設?」


『老人介護を専門にしてくれる施設よ。』


(そんな施設もあるんだ…。私知らなかった…。)


 私の祖父は早くに亡くなっています。祖母はまだ生きていますが同居はせず一人暮らしをしています。とはいえ、私の知る祖父母は、母方の祖父母であり、兄二人の父方の祖父母は見たことがなく、私自身の父方の祖父母も数えるくらいしか会ったことがありません。


(まぁ…父の実家はオクラホマだから…。心臓の弱かった私が気軽に行けるところじゃなかったのよね…。)


「えっと…おいくつ…ですか?」

『え~っと高橋さんは…96歳よね…。』


「ぉぅ…。長生き…ね」


 予想外の数字に少し驚きました。見た目はもう少し若く感じたからです。


(だって…私以上に元気で歩き回ってるんだもの…。腰も曲がっていないし…。)


 それに比べて私は、折角新しい心臓を戴いているにも関わらず、外で動き回る勇気が無くて、術後の数年で自らと言えるほどの運動はしていませんでした。


『シェリーさん。日本語で病は気から。と言います。例え健康の体でも、気が病んでしまうと一気に病気になってしまうんです。だから、シェリーさんも元気、元気でね』


「病は…気から…」


 看護師さんから励まされ、少し照れながらも笑顔を出すと、看護師さんも笑顔で返してくれました。


(そうだ…私の心臓は竜也パパから戴いた大切な絆。最近パパさんの声が聞こえる事は無くなっているけれど、こうして元気に鼓動し私を見守ってくれている。)


「うん。頑張る。」


 そんな日の夜…。


『うう…ううう。』


(なんだろう…。)


 お隣から聞こえる声。カーテンしか遮るものがない病室で聞こえる声なんて一つしかありませんでした。


「(※英)お爺さん…?大丈夫ですか?」


 他の患者を起こさないよう、ゆっくりとカーテンの隙間を抜けて、お隣のベッドを覗いてみると、夕飯時間まで元気だった隣のお爺さんがうめき声をあげていました。


「だい・・・じょうぶ?」


 今度は日本語で声をかけます。

 

『ああ…聞こえて…いるよ…お嬢さん…』

「あの…医者…呼びます?」


 お爺さんはゆっくりと首を横に振る。


『良いんだ…。その…代わりに…。』


 お爺さんはゆっくりと手を私に伸ばす。私は差し伸べられた手を両手で受け取り、包み込みました。


『ありがとう…。お嬢さん…。』


 そう言葉を交わすと、お爺さんはゆっくりと目を閉じていきました。


「(※英)ちょ!!お爺さん?」


 私は慌ててお爺さんのベッドにあるコールボタンを押しました。駆けつけた医師や看護師によって緊急処置が施されましたが、お爺さんの意識は戻りませんでした。


『老衰…だそうです。』


 翌日、看護師が私に伝えてくれました。奇しくも、お爺さんが亡くなった当日は、彼の妻が亡くなった日と同じだったそうです。


(奥さんと同じ日にお亡くなりになるなんて…。とても仲が良かったのでしょうね…)


 空席になったベッドを見て今思えば、最後に見せてくれたお爺さんの顔に、苦痛の表情はありませんでした。私に孫かひ孫の顔を重ねたのでしょうか。


(私も…あんな風に看取られる日が来るのかしら…。)


 自分の胸に手を当てて、それから十字に交差させ、同じ部屋を共にした仲間の冥福を祈るのでした。

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