『僕のお星様』

サトウ サコ

『僕のお星様』

 いずれフレアが自身をも飲み込んでしまうことを、僕は期待していた。


 乳白色の空の色。僕は天使としてこの地に降り立った。

 体は唐草色、髪の毛はエリンギの胴体のように滑らかで、瞳の色はカノープス、靴は履いてない。天使だから、僕には言葉が無かった。

 バベルの塔が崩壊して以降、誰も意思を交わさない。それは酷く不自然なことではあったが、僕が言葉を持つことの方が不格好だった。だから、僕は自ら、言葉を削ぎ落した。


 丘の上には青いチューリップ帽をかぶった男がいた。

 僕が体型的に男と判断した人間だ。


 男は分厚い本を片手に、天に向かって鉛筆を走らせていた。

「こんばんは」

 話し掛けると、男は帽子を持ち上げ、僕を見た。

「おや、誰かと想へば、白金の坊ちやんぢやないですか」

 その男は、僕の家の裏手に住む、堂道先生であった。


 堂道先生は風変わりなことで大人たちから知られているが、子供たちにはこれ以上ない大人の人だ。

 僕たち天使を決して名前で呼ばない。いつも、僕であったら「白金の坊ちやん」、コウ坊のことであったなら「池之上のボン」と言い、分厚い本の内容を、惜し気もなく僕らに語ってくれるのだ。


「スケツチですか? 」

 僕が聞くと、堂道先生は困ったように首を振った。

「さふと言へばさふですが、さふでないと言へば、それもまた事実」

「さやうですか」

 僕は万事納得と頷いた。堂道先生は人間の中でも、格別、格式が高いと見受けられるのだ。


「鉛筆は、何の役に立つのでせう? 」

 また尋ねると、

「これで、僕なりの天を描いておるのです」

 と、先生。

「しかし、天は遠くて、簡単に描けるものではありませんよ」

 僕が感想を述べると、先生は、

「いいえ、描けるのです。白金の坊ちやんは描けませんけれど。僕ならできるのです。だつてほら、今、僕が天の小熊座を右四十七度の処へ移したのです。人類は気がつかないのです」

 と、馬鹿にした。

「僕は天使なんです」

 僕が訴えると、先生は、

「知つていますよ。せいぜい箱舟でも待つておりなさひ」

 

 堂道先生はそのまま、僕の手を握って、丘を下り始めた。


 鈍色に染まった三味線草のもとに見える町の景色は、寂しい。

「蝋燭も高くなりましたね。ちつとも夜が楽しみで無いです」

 堂道先生はしんみり言った。

「ぼんやり灯る窓を見下ろすのが趣味だつたんですよ。エゲレスから輸入したバケツトを木の下まで持つて行つてね、蜜を垂らして頬の内側に擦りつけるのです。蠟の火と粘膜とがね、味のしないバケツトを甘く仕上げるのです。と言つても、白金の坊ちやんには味わうことのできない貴重な貧困です。僕はね、どんなに悲しくなつても、バケツトだけは買おうと決めているのです。しかしそれも、光が無ければできなくなりました」

「なら、星を見つめれば良ひのでは? 」

 僕が提案すると、先生は、何を今更と僕を詰った。

「だから今夜、星を描いていたのぢやありませんか。しかし、星では腹は膨れません。今夜は寝ます」

「八坂太夫のところですか? 」

「ええ、さふです」

 堂道先生は、だらしがないと評判高い。

 今度、その八坂太夫と駆け落ちするんだと言っていた。


「まさに愛の逃避行。シエイクスピアも蒼白の恋愛劇です」


 と静かに語って聞かせてくれたが、その噂が広まって、今や太夫の顔は、虻にやられたように醜い。

 それでもあの女の事を愛しているのだから、やはり先生は偉大なのだ。


「僕も連れて行つてくださひ」

 お願いしてみたが、堂道先生は僕の家の戸を叩いたきり、

「僕は子供は御免です。お漏らしするから臭いのです。陶磁の肌を貪りたいのであれば、充分大人のルールを学ぶがよろしいのです。線香を二本買つてやれる財力を身に着けるがよろしいのです」

「僕は天使ですよ」

 もう一度訴える。

「ええ、だからやうく分かつていると言つているぢやありませんか、分からず屋。そんな低能な白金の坊ちやんに、僕のペン、上げます。天使なら星、描いて見なさい」

 堂道先生は僕に鉛筆を押し付けると、開いた戸口に僕を押し込んで行ってしまった。


 母さんは女中がマッチを無駄にするのを睨んでいた。

「おひ、お前、次マツチを擦り損ねたら、今すぐ服を剥いで庭の木にぶら下げちまうよ」

「かと言つて奥様、このマツチをジヨンの厠に落としたのはお嬢様ぢやありませんか。わたくしとて、とつても器用なんです。ご存じの通りでございます」

「もういい、お前、こいつを部屋に連れておいきなさい。いいかい、裏手の呉服屋は蛇だよ。想ひ直しなさい」

 母さんは言って、女中は僕の襟首を引っ掴んで、部屋を出た。


「わたくしは叶ふなら、今すぐにでもここを抜けたひのでございます、坊ちやま」

 月に照った銀色の廊下を行きながら、女中は吐露した。

「抜け出してどこへゆくのです。貴女を欲しがる人などいませんよ」

 僕が言うと、女中は、

「貴方の姉さんがいない処なら、何処へでもでございます。貴方、昨日はお漏らしで、今日はお便所でございますよ、坊ちやま。わたくしはこの手をジヨンのお便所に入れたのでございます。坊ちゃまには分からぬ苦労でいたしませう」

「僕は天使です」

 僕が答えると、

「さふでせうね。そりやあ」

 と、女中は泣き出した。


「ぢや、わたくしはここで」

 離れへ渡る池の前で、女中は僕の手を離した。

「連れて行くのではありませんか? 」

 僕が聞くと、女中は、

「離れには、ほら、お嬢様がいらつしやるぢやありませんか」

 と答えて、道を引き返した。


 姉さんは畳の上に寝転がっていた。赤い着物の合わせから、零れ落ちている。

 混凝土の壁を伝うと、格子の仕切る窓がある。

 窓の外には、堂道先生の移動させたポラリスが光り輝く。


 鉛筆を握って、僕は頬を膨らませた。エゲレスのバケットは、無味らしい。

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『僕のお星様』 サトウ サコ @SAKO_SATO

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