第24話 世界創造と世界統治に一番大事なこと

結局、あらゆる意識たちを自由にするには、世界の基本法則そのものを設定しなおす必要があることがわかった。


どうしても、肉体という体験強制装置に意識が入るという仕組みでは、肉体そのものが拷問体験強制装置になっている以上、意識たちの安全確保ができないのだ。



生存本能君たちが、それは嫌だと騒ぐが、お前たちはただの肉体に設定されたプログラムじゃないか……


意識たちは、本当のところ、無限の素晴らしい体験だけを、安全に楽しみたいのだ。



必ず寿命で死ぬ運命の肉体は、そこに生存本能や死の恐怖などをプログラムされている以上、ほとんど避けようがない苦しみを生み出すことがわかりきっている。



つまり、一種の自動拷問体験強制装置になっている。



これはそのまま俺の自由世界に持ち込める代物ではない。



少なくとも、肉体の基本仕様のうちの悪い部分はなくして、大幅に基本仕様を変えなければならない。



そもそも生存本能など、肉体を維持するための安全警告や種族保存……程度の役割くらいにしか使えないのだから、それだけなら、何も耐え難い拷問的な痛みや苦しみが発生するような不自由で恐るべき仕様にしなくてもいいはずなのだ。


肉体に危険が発生していますよという情報だけ、意識に伝えることができればそれで十分なのだ。



何も耐え難い痛みとか、苦しみとかの体験が発生するような仕様にしなくてもいい。



また、種族保存など、本能が決めるべき問題ではなく、良心的な理性が決めるべき問題であり、本能に従って鼠算式に子供を増やせば、その子供たちがいつかは地獄体験を味わうことになるくらいのことは、わかりきったことであり、そんな重要なことを生存本能などに任せておくわけにはいかないと思った。



世界のキャパシティが無限ならば、いくら子供が増えても問題ないだろうが、有限なら鼠算式に子供を増やす生存本能など、残酷な結果を必ず生み出す本能ということになる。



そうした本能が自然だとうのなら、自然のままに生きるべきだという価値観は、自然のままに生きて子孫を増やしすぎて地獄体験を生み出してもよいのだという価値観になり、そんな自然なら糞くらえだと俺は思った。



自然が守るべき素晴らしい舞台装置だというなら、自然は、あらゆる意識たちに素晴らしい体験だけを提供するものでなければならない。



はじめからそうした本能を肉体や生態系にプログラムしている以上、あらゆる意識たちの最善を目指して世界創造したとは考えれないし、実際、自然に従って生きてもその目標は実現しない。



生命たちは、自然のままだと、互いに食い合いをし続けるし、人間同士も争いあいや殺し合いをずっと続けている。



きれいごとだけの自然など、歴史上、どこにも存在していない。



俺は、自然保護ということについて疑問をもっていたが、自然保護をいくら全人類がしたところで、残酷な食い合いもなくならないし、人間同士の争いもなくならないし、実際、自然保護を名目に、動物や人間を殺そうとする者たちまで現れた。



そうしたことを目の当たりに見て、俺は、考え方が、根本から間違っているのだと気づいた。



目指すべきは、自然を守ることなんかではなく、あらゆる意識たちが心から満足し楽しめる状態を実現することだったのだ。



自然はあらゆる意識たちが心から満足し楽しめる状態にするために必要十分な程度に守ればいいのであって、第一優先はあらゆる意識たちが安全に心から満足して楽しみ続けれる状態を実現することだと確信した。



「そのあらゆる意識たち」には、体験能力を持つあらゆる意識たちが含まれる。



動物たちも、人間も、神も悪魔も天使も、宇宙人も、地底人も、幽霊や霊的存在たちも、天国にいる者たちも、地獄にいるものたちも、煉獄にいるものたちも、刑務所にいる者たちも、別の星や銀河や宇宙にいるものたちも、異世界にいるものたちも……体験する能力がある意識ならば、すべて含まれねばならない。



体験する能力とは、苦楽を味わう能力だ。

何をしても何の体験も味わうことがない岩石やロボットのような存在は含まれない。

逆にいえば、そうした存在でも苦楽やその他のいろいろな体験を味わう意識がそこにあるならば、含まれる。



気分、感情、肉体の痛みや快楽や苦しみの体験、夢の体験、空想する体験、新聞を読む体験、悟りの体験、さまざまな本能や欲望が存在するという体験……



つまりは、体験能力がある者たちとは、そうした体験を味わう主体であり、意識であり、魂であり、存在であり、体験者だ。



そして、彼ら体験者たちは、意識しているにせよ、無意識であるにせよ、みんな、自分が望む体験をしたいと思っている。



それが最も重要なことであり、自然などというものは、あくまでそうした体験を味わうための舞台装置のようなものに過ぎない。



だから……自然?を守るためならば、意識のある肉体をどんどん消せばいい……などと考える価値観は根本から間違っていると感じた。



その価値観からは、どうしたってあらゆる意識たちが満足できる世界は実現しないからだ。



変えなければならないのは、「自然」の方だったのだ。



「世界」と言い換えてもいい。



その自然状態の世界にほとんど自動的に残酷な苦しみ体験が発生し続けるのならば、その「自然」や「世界」という舞台装置にこそ問題があると理解しなければならなかったのだ。


そして、舞台装置そのものを改良してゆかねばならなかったのだ。

肉体という体験強制装置もまたしかりだ。

自然の仕組みもしかり……

その基本仕様から根本的に見直してゆかねばならなかったのだ。



「あらゆる意識たちが心から満足して楽しみ続けれる状態」を目指して見直してゆかねばならなかったのだ。



その判断を誤ったために、俺の元いた世界は消滅してしまったのだろう……



そして、苦しみ発生の原因を本気で突き詰めれば、世界に発生した苦しみ体験に対する責任は、そうした不自由で苦しみが発生し続けるような「世界」をわざと創造した者=世界創造主にあったということがわかる。



それを理解したから、俺は、俺の自由世界では、「一切の望まれない体験の強制が不可能に設定」したのだ。



そうしなければ、どうしても自由世界の創造主としての俺の立場がやばくなるからだ。



「俺様は強い! 全員俺様に無条件に従えーーっ!!!従わねば、酷い目に合わせるぞーーー!!!」的な創造主キャラでやってしまうと、自業自得のブーメランが戻ってきて100%地獄体験を味わわねばならなくなるからだ。



俺は、意識世界の井戸端会議で、そうしたことを耳学問で学んだのだ。



俺は、そんなヤバい責任を負うのは、絶対に嫌だったので、誰もが自分自身の世界の創造主になって自由に自分だけのプライベートミニ世界を創造できるようにしたのだ。



それならば、それぞれが自分の世界創造についてだけ責任を負うことになる。


さらに、うっかりミスで自傷行為の中毒や無限ループにならないようにも配慮した。


塾を開いて、事前に危険なミスを回避できるようにもしてやった。


しっかり理解して、試験に合格しないと、ミニ世界の創造主になれないようにもした。


そしてそのミニ世界全体を含む俺の自由世界では、他の意識が望まないことは絶対に強制できないようにした。



何でも自由なら、何をしてもいいというわけにはいかないのだ。自由には危険も、責任も付随してくる。


うかつにホイホイ世界の創造主になろうとすることは、自傷行為だと俺は理解した。



世界とは、いろいろな魂が体験する場であり、その舞台装置だ。



そこに残酷拷問強制システムだとか……食い合いシステム+生存本能システムだとか、悪夢強制システムだとか……を設置するなど、とんでもないことだ。



そうしたことは、もはや自殺行為を通り越して、自分を拷問するような行為になってしまう。



他の意識に拷問体験を強制してしまえば、もはや、自殺するだけじゃあ、済まない。



死ねば終わりではないのだ。死後に、拷問体験を強制されねばならなくなるのだ。



そんなのは嫌だ!!! と俺は思った。



おそらく、この世界のおびただしい世界群は、まだ混沌状態であり、めちゃくちゃなのだろう。



俺は、「知性」や「精神」とは、そこにあらゆる意識たちの最高の楽園を生み出すために存在しているのだと思った。


意識たちの井戸端会議では、「世界やその創造主は、進化できなければ、退化し、滅ぶ。もしくは、半永久的に苦しみ続けることになる……」と言われていた。



「そんなのは嫌だ!!!」 と、俺の中の分身体の俺たちが叫んだ。

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