第3話 環境学者の予想を超えたアイソスタシー
丘に向かう坂道の中腹でボートをつなぐ。あと少し海面が低ければジャ●コは無事だったのだが、潮が満ちると一階が浸かるらしい。
田舎の拠点がこれで死んだ。
そんな悲痛な廃墟を背に、坂を歩いて登ると昔とは全然違う田舎の高台の姿があった。
入口に立ち並ぶコンビニとドラッグストア。その裏手には原野だった場所を切り開いておびただしい数のプレハブ住宅が立ち並んでいた。
これらは市街地から避難してきた人たちが住む仮設住宅なのだと言う。
その数、八千棟。
避難所に商店街が出来たような光景だが、これだけの人口が集まれば立派に経済は廻るだろう。
「立地の良いところは場所取りが熾烈でね。コンビニとドラッグストアが競争だよ」
そう言いながら、繁華街を抜けた少し奥の方のアパートの一室にツヨシ君の店はあった。
「ほら。ここが新しいウチの店」
そこには西洋菓子店らしい、かわいくも綺麗な内装のお店があった。
「ケーキだ!」
ケンタが目を輝かせて言う。
おしゃれな外観の店の中にはショートケーキから大分で開発された甘いサツマイモをつかったパイ、桃をまるごと一個使ったクリームケーキなどカラフルでおいしそうなケーキがならんでいる。
水没村のスーパーにはケーキなんて洒落たものは無い。あるのはせんべいと干菓子、砂糖をまぶしたゼリーなどの老人が好む菓子だけである。
そして海に囲まれて流通が途絶えると菓子などのぜいたく品は後廻し、主食のコメや野菜の確保が第一だった。
「せっかくだから、一つ食べていくか」
そういうとケンタは顔を輝かせて
「うん!」
と言った。
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桃のケーキは中にカスタードクリームが入っていて、少しすっぱい果実と一緒に食べると丁度良い甘さとなった。
瑞々しい桃の果汁が非常に美味しい。
「この熊のケーキはチョコレートとマロンなんだね」
マロンを鼻に例えた動物ケーキを食べて御満悦のケンタは甘い、美味しいと言いながらよく味わって食べていた。
戦中の子供か何かだろうか?
そんな様子を横眼で見て、俺はツヨシ君と水没時の状況を語り合った。
「あの日は大変だったよ。うちは店中の機材を慌てて車に積み込んで高台に逃げられたから良かったけど」
ツヨシくんは、学校を卒業した後家業を手伝っていたのだという。
客商売なので平地の大通りにお店を構えており、少し前に水没したらしい。
その日はいつもと変わりない、普通の日だったという。
ニュースで市街地が浸水していたのは聞いたが、こちらは海から10km離れた山間部の麓である。ただ、大雨が降ると、水はけが悪くて道路に雨水がたまる事がある事だけがネックな普通の平地だった。
「このあたりは20年前に大分川が反乱して床下浸水する家もあったから、オーブンとかの機材は少し高い位置に置いてたんだ。」
「あの辺りは元々河の底だったもんな」
エノクマには尼ヶ瀬という地名がある。
平安時代には大分川が流れていた場所なのだが、工事で川の流れを変えて陸地になった場所だ。
それ故に他の場所よりも2m位低い位置にあり、浸水時には真っ先に水がたまっていったという。
「3週間前くらいから市街地の方は海が地面まで来てるってニュースでやってたけど、まさかここまでくるとは思わなかったんだよ」
お客さんのラッシュも途切れて、一息入れていた時、何気なく外を見ると大慌てで逃げ去る車が有ったと言う。
何事かと外に出てみれば、雨でもないのに道路に水があふれ出していた。
「慌ててテレビをつけたら、水位が上がっているって実況がされててね、それから少し遅れて自治会から海水が迫ってきてるって連絡があったんだ」
いざという時の準備をしていたツヨシ君は店を閉め、大事な機械を車に積んで、この医大ヶ丘の高台に避難したらしい。
「最初は大げさだと思ったよ。でも、三十分たっても海水は引かない。それどころかどんどん水位を増していったんだねぇ…」
ツヨシ君はかつての店を思いだすかのようにしみじみと言った。
「ああ、アイソスタシーっていうのが原因だったらしいな」
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陸地や海底などの地殻の下には、液体ではないのだが柔らかい固体であるマグマが沈むマントルがある。
この『マントルから見ると軽い地殻が、重く流動性のあるマントルに浮かんでおり、地殻の荷重と地殻に働く浮力がつりあっている』とする説。それがアイソシスターだ。
地殻均衡(説)とも言うらしい。
つまり、陸地が軽くなる…例えば南極の氷が200億tくらい溶けて無くなったりすると、重しが無くなって軽くなった地殻は上に浮かびあがって来るというわけである。
研究者も愚かではない。
南極が軽くなって浮かび上がった分、他の海が重くなり地殻が沈んで全体的にバランスは取れると考えていた。
「ところが、予定通りに進まないのが現実だったんだよなぁ」
万年氷という非常に重たい重しが無くなった南極大陸は10mほど隆起した。
ところが、世界中の海底はほとんど沈まなかったのである。
理由は分からない。
例えるなら、理論上は順調に流れるはずの河が一本の流木が橋に引っかかって流れが滞るように、地殻のどこかが引っかかったのかもしれない。
本来なら雨になるはずの雨雲レーダーが何故か消えて晴れになったり、逆に土砂降りになるようなものだろう。
理論上は正しくても予期しない要素で、人間にとって最悪の結果をはじき出すのが地球と言うクソったれな存在だ。
その予想外のせいで各地の都市は大被害を蒙る事になったわけだが…
南極とグリーンランドの氷が溶けて海面が5m上昇していたとき、ここ荏隈はまだ平気だった。
海抜3~4mの大分市街地は道路がすべて海となり、満潮時には床上にまで波が来ても、海抜11mの荏隈地区ではそこまで騒ぐ必要は無かった。
おまけにテレビも、
「この海面上昇は年に5m増えると予想され、二酸化炭素排出のさらなる規制が課題となってます。」
などと話していた。
さらには、国会中継で野党は「海面上昇対策が大変な事は十分承知してます。しかし総理の政治献金問題を追及させていただきます」などと、与党への攻撃に執心する程度には楽観的で余裕があった。
それが、一変したのは12月11日のことだった。
南極の氷が、また一つ溶けだし、海に落ちた。
その重さたったの約2000t。
すごい量に聞こえるが、氷壁が落ちては新しい氷壁ができる南極ではいつも通りの光景である。
観測所もそこまで驚かなかった。
しかし、その日一つだけ違ったことがある。
南極の大陸が持ち上がったのだ。
先ほど説明したアイソスタシーである。
「あの時の専門家たちの慌てようは凄かったな」
これにより上昇した海面は南極大陸が持ちあがった分、さらに5m上昇した。
そしてその動きで、互いに圧縮と伸縮が起こった氷の壁に亀裂が入り、大量の氷が割れて斜面を転がり、海に流入した。
海中の氷が溶けても海面は上昇しないが、地上の氷が海に落ちれば海面は上昇する。そして、軽くなった南極大陸はさらにマントルから浮かび上がる。
人類にとって最悪の循環だ。
このため、世界各国は一日で15mの海面上昇を経験した。
海岸沿いの主要都市は全て水没し、住民は命だけは助かったが財産は置いて行く人が殆ど。
高値が付いていた土地は海底となり資産価値は0となった。
『この1日で全世界の財産が2澗(英語で言うとUndecillion。2兆の1兆倍の1兆倍)が失われた』という。
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「あの日、念のため機材とかを丘に持って逃げといて正解だったよぉ」
とツヨシくんは言う。
丘に逃げ出した時、周囲の人は「大げさ」とか「考えすぎ」と笑っていたのだという。ツヨシくんも
「やっぱり大した事無かったですねw」
と笑っていた。
一時間もしたら帰る予定だったという。
ところが
「ねえ、この海、いったいいつ引いていくの?」
2時間たっても海面は減少しなかった。それどころか
「なあ、だんだんと海が上がってきてないか?」
今まで頭が見えていたコンビニ(高さ4m)が見えなくなり、4階建てのアパート(高さ約12m)ですら半分が水に浸かっていく。
こうして大分市の平野は全て…いや世界中の主要な平野は一日で海水に浸かり、560の小島、3600の都市、2億戸の住宅が海の藻屑となったという。
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