第120話 ノイズ


 少女はゆっくりと俺の方へ近づいて来る。兎の仮面が張り付けられているせいでその表情はうかがえないが、少女からは不気味な雰囲気が漂っている。だが仮面は抜きにしても俺の警戒度は依然としてマックスに近い。



(雪花……ではないな)



 女子の制服を着ているが雪花よりもやや身長が高い。加えて彼女がこのようなプレッシャーを発することは不可能だ。その少女は俺と5メートルほどの距離で止まり、じっくりとこちらのことを見つめてくる。



「「……」」



 どちらから行動を起こすということはなく、ただただ見つめ合うのみ。普段は相手がどのような人物かを推し量る俺だが、この人物が何を考えているのかなどの心理的な面は何一つ読み取れない。それどころか、彼女のことを見つめていると次第に視界がノイズに包まれていくような感覚に陥ってしまう。



『……て』



 ——ピキッ



 くそ、こんな時にまた頭痛だ。脳を駆け巡る不快感と痛みに俺は思わず目を細めてしまう。最近はこういう風に頭が痛むことはなかったため油断していた。一瞬だけ意識が朦朧とする中、ゆっくりとした足取りでこちらへ近づいて来る少女が見えた。そして……





『ほら、ちゃんと向き合って』


(っ!?)



 その言葉にハッとし、俺は少女が既に1メートルほどの距離に近づきこちらへ手を伸ばしているのに気が付いた。後ろは安全用の柵があるため下がることはできない。だから俺は咄嗟にできる動作をした。



「……っ!」



 俺は少女が伸ばしてきた手を左手で素早く弾き、そのままサイドステップの要領で右へ体をずらす。俺に手を弾かれた少女も反射的にバックステップで俺から距離を取った。どうやら俺のことを強く警戒しているらしい。



(今の身のこなし……)



 一瞬の些細の動き。そして改めて見る彼女の油断のなさに反射速度。並のスポーツ選手ではまず為せない動作に俺は警戒度をさらに引き上げる。



(七瀬? いや、あいつとは明らかに違う)



 動けるという意味では七瀬の運動神経にも目を見張るものがあるが目の前の彼女はそれとは異質だ。俺の動作にすかさず反応しほぼ最適な動作をノータイムで行った。恐らく純粋な実力では七瀬以上。もしかしたら俺に迫るかもしれない。



「……」



 兎面の少女は依然として何一つ言葉を発さないままだ。仮面の目元も黒くなっているので瞳などを伺うことすらできない。あの時は何気なくつけていた仮面だったが、まさかここまで情報をシャットアウトできるとは。となると彼女の身分を特定しうるのは純粋な体格や髪形、あるいは声や息遣いのみになる。



「……ふっ!」



 俺の振り払いで向こうも火がついたのか、先程よりも鋭くこちらに踏み込んでくる。そのスピードは先ほどまでとは比べ物にならないほど早く、たった2歩でこちらとの距離を詰めて来た。



(……こいつ)



 踏み寄られたのを皮切りに俺も意識を切り替えた。すぐにその場から離脱し少女とすれ違うような形で身をかわす。その際彼女の背中に軽く衝撃を与えそのままよろけさせ、それを合図に先ほどよりも一気に距離を取ろうとした。だが



「う……っと」



 少女は地面に手を付きつつそのまま体を回転して受け身を取った。しかもそれだけではない。受け身の途中でこちらに足払いをしかけてきたのだ。ギョッとした俺はすかさずジャンプして彼女の足を躱す。だが無駄な動作が入ってしまってせいで距離を取るのに失敗した。



(こいつ……強い)



 比較対象として良いのかわからないが、恐らく七瀬以上、翡翠と同程度に格闘のセンスを持っている。いや、センスだけではない。今の動きは場数を踏んでいなければ不可能な動作だ。



『ねぇ、なんで目を逸らすの?』


(さっきから、うるさい!)



 脳内に響き渡るノイズを振り払い、俺は改めて自分の状況を確認する。


 俺の背後には下へと続く階段がある。だが先ほどの音から恐らく内側から鍵を掛けられている。つまり、目の前の少女とは別で第三者が扉の向こうにいる可能性がある。そして俺の目の前にいる少女は目的が一切不明。なにも喋らず、ただ俺に近づいて来ようとする。そしてその実力は俺に迫る。



(お前の差し金か……雪花)



 俺をこの場に誘い出した張本人、雪花の顔が脳裏によぎる。恐らくこの正体不明の少女をこの場に招いたのは雪花だ。目の前の少女もそうだが、雪花もいったいどういう目的があってこんな訳の分からないことを?



『もう、気づいているくせ(黙れ)』



 仮に彼女を行動不能にしても鍵がなければ俺はこの屋上からでることができない。内側から鍵がかけられている以上、必ず誰かの助けが必要だ。だが、目の前にいる少女が俺に自由を与えない。



「はぁっ!」



 地面を大きく蹴り、再び俺に手を伸ばしてきた。だがモーションが大きすぎる。恐らく上半身に注目を集め、本命として先ほど同様足払いのようなことを行おうとしているのだろう。どうやら向こうは俺に攻撃というよりも拘束・怯み系のようなアクションを行いたいのだろう。そうわかれば対処は簡単だ。



『多分その次は、一度距離を取って目潰しみたいなことを(うるさい)』



 俺は思考を無にして彼女の腕を振り払い、そのまま先ほどと同じようにすれ違うように躱す。そして予想通り足払いをしかけて来た。しかも、先程とは違いやや高い位置に足を浮かべている。ならこちらも、先程より高く跳べばいいだけのこと。



「……っと」



 そうして俺は跳躍をしたのちに、すぐさま少女の方へ向き直る。すると今度は俺の顔面目掛けて五指を伸ばしてくる。やはり目潰しのようなことをすると見せかけて、その先に何かを狙っているらしい。



(いいかげん、鬱陶しくなってきたな)



 俺は伸ばされた腕を下に弾く。すると少女は下に向かって僅かによろける。だが体勢は立て直させない。俺はそのまま少女の肩に手を伸ばし、下に向かって一気に力を掛けた。



「なっ!?」



 彼女も想定外の切り返しだったのか、思わず声を漏らしそのまま地面に手をついてしまう。俺はそれを見た後に屋上の下へ続く扉へと一気に駆けた。ドアノブを捻ってみるも、やはり扉は開かない。やはり内側から誰かが鍵をかけているようだ。というかこういうのは普通、鍵穴は外側ではなく内側にあるべきだと思うのだが。



(そんなこと気にしてても、状況は何も変わらないか)



「はぁぁぁ!!」



 先ほどの少女が立て直し、こちらに向かってくる音が聞こえた。先ほどと違うのは、荒ぶるような声を上げているという点だろうか。そして今度は打って変わり、本当の意味で敵意をむき出しに攻撃を仕掛けようとしている。



『この声、もっとよく聞いてあげ(消えろ)』



 俺の数歩手前でもう一度踏み込む少女。だが彼女は何の小細工もなくただ俺に殴りかかるような真似をしてきた。先ほどは場数を踏んでいると思ったのだが、一気にそのような素振りが無くなった気がする。力を持っているのに振るい慣れていない。俺にはそんな印象に感じた。



『……くら』



 そうして俺は、俺の顔面に軌道が向けられた拳を受け止めた。










——あとがき——


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