第114話 橘彼方→椎名彼方④

 僕はしばらく学校を休んだ。


 先生に促されたというのもあるが自分でもあれ以上教室に留まり続けるのは困難だと判断したのだ。とりあえず一か月ほど登校を控え、噂が消えた頃合いにもう一度顔を出してみるつもりではある。効果があるかどうかはわからないが、ほとぼりが冷めるのを願うしかない。

 それに、どうしても答えが知りたいのだ。どうして僕がこんな目にあっているのかを。何者かの悪意が伺えるのだが、その動機と人物像が全く見えてこない。こんな複雑な心境になるのは生れてはじめてだ。実の母親に拒絶された時でさえこんな風にはならなかったというのに。



「……そろそろ出掛けよ」



 学校は休んでいるのだが、このままでは夜勤帰りの母親と鉢合わせてしまうため僕は荷物をまとめて出かける。だが中学生がこの時間から出歩くと確実に補導の対象となってしまうため場所は慎重に選んだ。入館手続きのいらない図書館や人が少ない公園など様々な場所に足を運んでただただ時間を浪費していた。



「そういえば、こんな風に一人になるの久しぶりかも」



 一年前は毎日のように桜と一緒にいたし、桜と別のクラスになってからは新しいクラスメイト達と新たに親交を深めていた……はずだった。


 あんな目で見られるとは思わなかったし、誰も庇ってくれないという窮地を思い出し胸がギュッとなる。僕は一体、どこで間違えたのだろう。



(あの時、家族のことで嘘をつくべきだったのかな?)



 いやそれ以前に、祖母の教えにずっと従っていたことだろうか。それとも、父から受け継いだ技術を惜しみなく披露していたことだろうか。だが僕はそれらすべてが間違っているとは思えないのだ。そう、僕はきっと間違っていないはず。



「……うん、もう一回みんなと話してみよ」



 僕は、どんどんずれた方向へと狂っていった。


 だが、それを指摘してくれる人は誰もいない。


 いたとしても、きっと彼の心には響かない。


 だって橘彼方は、僕以外の他人というものを一切信用していないし、他人に心を開いたこともなければ、そんな人が周りにいないのだから。



 そしてちょうど一か月後、僕は何事もなかったかのように起床して制服に身を通す。ずっと制服を着ていなかったため少し違和感があるが、いつも通りだと自分に言い聞かせる。


 この一か月は割と苦しい生活を送ることになってしまった。何せ母さんが帰ってきていないのか、お金が置かれることが無くなってしまったのだから。僕は少ない貯金を切り崩し、何とか生活を繋いでいた。まさかこのご時世に野草を摘んだりする経験をするとは思わなかった。こういう時に何か国から保証を受けられないかと調べてみたのだが、そういった便利な制度はないらしい。



「なんか、助けてばっかりだなぁ」



 僕は人を助けることを信条に生きているが、誰かに助けられたことはたぶん一度もない。こちらから手を伸ばした数はもう数えることができないが、逆に手を向けてもらった数はゼロ。


 ずっとそれでいいと思っていた。それが当たり前だと自分に言い聞かせて来た。だがあの時受けたストレスで、どうしても今まで目を逸らし続けてきたことを意識してしまう。もしかして僕、ちょっとだけ変わってきてる?



「……あっ」



 そんなことを考えていると、あっという間に学校に着いてしまった。もしかしたら何かが変わっているかもしれないという謎の期待を抱いて、僕は自分の教室を目指す。覗き込んでみると一か月前と変わらぬいつもの風景。だが僕が足を一歩踏み入れることで、その光景はガラリと変貌した。



「うっわ、あいつ来やがったよ」


「せっかく忘れてたのに」


「また何か企んでるんじゃね?」


「うん、あの人って頭おかしいみたいだし」



 容赦のない言葉と数々の痛々しい視線が一気に僕を突き刺した。普通の人間、ましてや中学生ならこの瞬間に吐き気を催したり泣きたくなったりするかもしれない。だが僕は、そんな感情をとうの昔に捨ててしまっている。いや、もしかしたら最初からその手の感情が欠如して生まれてきたのかもしれない。



「おはよう、みんな!」



 僕はいつものように笑顔で、いつも通りみんなに挨拶をした。

















 僕の中学校生活は、その瞬間から一気に変わったと思う。机の中にはぐしゃぐしゃに破り捨てられたプリント。いつも鞄を置いているロッカーは既に別の生徒が占領。そして一番変だと思ったのは、机があるのに椅子がどこにも見当たらなかったことだ。教室内はもちろん、廊下や立ち入り禁止のベランダ部分にすらない。



 隣の席に座る信也君は、一瞬だけこちらをちらりと見るもそれ以降はずっと無視をするかの如く本の虫になっていた。いや、よく見ればあまり本を読んでおらずぼーっと空を眺めているだけだ。



「……ごめん、僕の席だからどいてくれるかな?」


「ああ?」


「どいてくれるかな?」



 僕は笑顔でそう言った。その笑顔が不気味かつ威圧的だったからか、僕の机の上に座っていた生徒は素直に降りてこちらを睨みつけながら別の友達の元へと行ってしまった。信也くんに僕の椅子は何処かと尋ねようとしたところで、ちょうど一カ月ぶりに担任が顔を出す。そして担任は僕のことを見て多少の驚きを顔に表しつつ、何事もなかったかのようにそのまま教卓へと着いた。



「さて、それじゃ席につけ!」


「先生、僕の椅子がないんですけどどこでしょうか!」


「出欠を取るから、早くしろー」


「あれ、先生?」



 だが先生は僕の質問に答えず、そのまま進行しようとした。いや、それどころから僕と目が合ってからまるで僕がこの空間にいないかのように扱っている。もはや、あからさまな嫌がらせだ。



「……」



 仕方ないので僕は机に腕を突っ伏すように中腰になってそのまま先生の話を聞いた。だが出席の際に僕の名前が呼ばれることはなかった。なんとなくだが、欠席扱いになっていると思う。



(……先生まで、どうしたんだろう?)



 こうなってしまえば明らかな異常だ。クラスメイトをはじめとする生徒同士でこういったやり取りがあるならまだしも、それに担任が加わるのはあり得ない。それにあの先生は基本的に真面目でこういった行為を最も嫌う人種のはず。まさか先生にまでこの謎の現象の余波が及んでいるとは思わず、さすがの僕も驚いてしまう。



「……」



 そうしてそのまま始まってしまった一時間目の英語。教科担当でやって来た先生も我関せずといった感じで僕の存在を無視している。対する生徒たちは露骨に僕のことを意識しているようで隙あれば陰口ばかりを展開する。どこからか「死ねばいいのに」といった、心無い言葉さえ聞こえてきた。



(さすがに、居心地悪いな)



 そうして僕は一時間目が終わる頃には教室を離れた。次の時間は体育なので体育館に移動することになっているのだが、荷物を置いてきたら何をされるかわからないと思ったので今日持ってきた教科書なども一緒に持ち歩く。とりあえず一人になりたいと思った僕は学校の屋上を目指した。かつて桜と共に長い時間を過ごした場所。だがしばらく訪れていなかったためこの場所が懐かしく思える。



「いったい、なにが……」



 ふと、僕の頬が濡れていることに気が付いた。くすぐったい感触に慌てて頬を拭うと湿った感触が僕の指を撫でた。



「あれ、涙?」



 僕は気が付かなかった。自分がこの短期間でどれだけ心を傷つけていたのかを。誰にも助けてもらえず、恩をあだで返されるのがどれだけ虚しいことなのか。家族も親友と呼べる存在もない僕は、皆のことを友達だと思い込むことで寂しさを紛らわせてきた。だが、それが今日になってとうとう崩壊したのだった。



「はぁ……」



 そうして僕はフェンスに肘をかけてぼーっと空を眺める。思えば涙を流した記憶はほとんどない。父さんがいなくなった時も、母に拒絶された時も、おばあちゃんが亡くなった時も、あらゆる感傷的な場面で僕の心が揺れ動くことはなかった。


 もしかして感情というものが存在しないのではないかと思っていたが、どこか安心している自分がいた。僕にもちゃんと感情と呼べるものがあったのだと。けど、良かったことなんて今のところそれくらいだ。現状が何か変わるわけでもないし、感情的になって暴れるなんて真似は僕にできない。


 一年前は桜と長い時間を過ごしていたから勘違いしていた。桜だけではない、今まで関わり助けた人たちもそうだ。僕から声を掛けることはあれど、向こうから声を掛けてもらったことが今まであっただろうか。



 結局、やっぱり僕は一人ぼっちで……



「なんか、黄昏れてるねぇ橘くん」


「……え?」



 涙が乾ききった頃合いだろうか。誰も寄り付かないはずの屋上で聞き慣れた声が僕の背に掛けられる。彼の声を聞いたのはいつぶりだろうか。そういえばずっと長いこと彼の声を聞いていなかった気がする。



「……信也、くん?」



 僕は振り返り信也くんのことを見る。だが、今の信也くんはいつもと雰囲気が違った。だって普段の彼は落ち着いているし小動物みたいだと女子の間で言われていたのも聞いたことがある。


 なのになぜ今の信也くんは、こんなにも眩しい笑顔を輝かせているのだろうか。


 そして僕にはその笑顔が果てしないほど不気味に映った。



「何かあったの、橘くん?」


「いや、何かあったって……」


「ぷっ、くくっ……アハハハ、そうだよね!」



 いきなり突拍子もない質問をしてきた信也くん。何かあったのと聞かれどう答えればいいのかわからず戸惑っていると、急に信也くんが堪えきれないと言った様子で腹を抱えて笑い出していた。どういう訳か、信也くんはとても楽しそうだった。



「えっと、何か面白いことがあったのかな?」


「うん、俺にとってはとっても面白いよ」


「うーん?」


「ははっ、やっぱ分かんない? だとしたら相当頭イッてるよ橘くん」



 信也くんは僕のことを直球で罵倒する。こんな信也くんを見るのは初めてだったのでどう声を掛けていいのかわからない。あと、先程の言葉は今の信也くんにも適用されるのではと心の奥底で思ったのは秘密だ。



「僕の頭がイッてるって、どういう意味かな?」


「その言葉のとおりだよ。まさかこんなにうまくいくとは思わなかったからさ。橘くんって、完璧に見えてたんだけど意外と隙が多いよね。特に自分の身の回りに対しては」


「……まさか」



 ここまで言われればさすがの僕も気づく。どうして信也くんがここにいるのか。なぜ僕に関するありもしない噂がここまで蔓延する羽目になったのか。目の前で邪悪な笑みを浮かべる信也くんがその答えだ。



「……君がやったの?」


「うん、そうだね」


「……なぜ?」



 気が付けば僕の声は今までで一番といっていいほどか細いものとなっていた。それほどまでに動揺していたし、信也くんにこんなことをされるとは思っていなかったのでショックが大きいのだ。


 そして僕の質問を聞いて、信也くんは肩を震わせながら喋りだした。



「なんでって……そんなの、そんなの……」


「……」


「橘くんが気持ち悪かったからに決まってるじゃん」


「…………は?」



 僕が気持ち悪い。


 平然とさも当たり前のようにそう言ってのけた信也くん。その言葉は、かつて母から投げかけられた言葉と似通っていて、僕の心の錨が無理やり引き上げられたような感覚に陥る。


 そもそも、たったそれだけの理由でこんな回りくどいことを?


 いや、今は別に聞くことがある。



「どういう、意味かな?」


「うん? 言葉のとおりだよ。だって気持ち悪すぎだろ。なんでもできるし誰でも助けるって才能。まるで天から与えられてみたいでさ。何の対価も求めず笑顔を振りまく男って、考えただけでもぞっとする」


「それなら、そう言ってくれれば」


「はぁ? そんなこと言ってもお前の心にはどうせ響かねぇだろうがよ。それに前々からムカついてたし。俺はお前のことを友達とも何とも思っていないのに、さも当然のように友達ずらして俺の敷居に入って来る。そんなの害虫と一緒だろうが」


「……」


「ほら、害虫って気持ち悪いだろ? 思わず駆除したくなるじゃんか。あいつらって病原菌たくさん持ってるんだぜ?」



 話しているとヒートアップしてきたのか、徐々に口調が荒っぽく変化してきた信也くん。きっとこっちが彼の本性なのだろう。すると彼は、今度はヘラヘラとして思い出したかのように言って来た。



「そういや特にムカついたのは、新海の件かなー」


「……桜?」


「あいつは知らねーだろうけど、実は俺とあいつって同じ小学校なんだよね。ずっと別のクラスだったから直接は一回も喋ってねーが」



 桜の話をされるとは思っていなかったので、思わず目を見開いてしまった。というか、信也くんと桜が同じ小学校出身だったというのも初耳だ。


 桜は小学校から中学校初期にかけて壮絶ないじめを受けていた。それなら、同じ小学校である信也君は当然そのことを……



「あの小学校って親同士のつながりが強くてさ。割と子供同士で仲が良い奴が多かったんだよ。当然、俺も新海と同じクラスの男子と知り合いだった。それがどういう意味か分かるか?」


「……まさか」



 そう言えば桜にそれとなく尋ねてみたことがあった。いじめの原因は結局何だったのかと。だがその理由は桜にもわからなかったようで気が付けばいじめが常態化していたらしい。



「あいつ、昔俺が落としたハンカチを踏んづけたんだよね。謝り倒してきたけど、あれって父さんからもらった大事なやつでさ。だからあいつと同じクラスの男子にお願いして、嫌がらせをしてもらったんだ」


「……信也、くん」


「ま、それがあそこまで長続きするとは俺も思わなかったけどさ。あいつら、気が付けば俺が命令したことなんて忘れて自分勝手に楽しみやがってんの。苦労したぜ? さすがに外部にバレるとまずいから父さんに頼んで担任とか校長を買収してもらってさぁ。あっ、特に面白かったのは……」


「……ぃ」


「あ?」


「もう、いい」



 いい加減黙れと僕は眼力だけで信也くんを睨む。するとその気迫に圧倒されたのか信也くんは僅かながらに顔をしかめてたじろいだ。初めてだよ、友達をこんな風に睨むのは。いや、僕がそう思っていただけで最初から友達ではなかったのか。



「ぺちゃくちゃ喋ってくれてたけど、僕がそれを誰かにばらすとは思わなかったの?」


「お前の言葉をまともに聞いてくれる奴がこの学校にもう残ってると思うなよ?」


「……っ!」


「そもそも、どうしてうちの担任が今回の騒動を黙認してると思う?」


「……そんな」


「ああ、意外とわからないものだよな。あんないかにもお堅い性格をしてそうな女も、金を握らせて地位を約束すればあっさり折れるんだぜ?」



 どうやらこの学校で、僕の味方はもう残っていないらしい。



(いや、まだ桜がいる!)



 一年の付き合いがある彼女なら、僕のことを良くも悪くも良く知っている。だからこそ、こんな噂が出回っている時点で調査を始めていてもおかしくはない。もしかしたら桜も、何か異変に気が付いて……



「そうそう、誰かに頼ろうなんて思わない方がいいと思うよ」



 僕に睨まれたことで落ち着いたのか、若干落ち着いた口調になった信也くんが僕の考えをまるで呼んでいるかのようにそう言い放ってきた。



「気づかない? 噂に踊らされたクラス。そして買収された担任を含む関係者たち。まるで、僕や新海が通ってた小学校と同じ状況だってこと」


「……お前!」


「そうだ、あの時の再現なんて容易に起こせる。あの女、落ち着いたように見えてめちゃくちゃトラウマ背負ってんだろ? それを突っついてあの時の記憶を呼び起こしてやんよ」



 もはや状況は完全に劣勢だ。いや、かつて僕は信也くんが何か抱えているのではと思って一度調べてみたことがある。そしてその時は何も引っかかるものはなかったので見過ごしてしまった。その時点で、僕は負けていたのだろう。



「ふぅ、あーすっきりした。橘くんのその顔が見れてよかったよ」


「……相当趣味を究めてるな」


「うっせえよ……あーそうそう、そう言えばいい忘れてた」



 そして思い出したかのように、信也くんは最後の置き土産と言わんばかりにとんでもないことを言ってくる。



「ここに来る前なんだけど、橘くんの机にプレゼントを入れといたんだよね」


「プレゼント?」


「下着」


「……は?」


「女の子の下着。この学校も結構腐ってるんだよね。変態的な行為に手を染める奴が、生徒どころか教師を問わずぞろぞろ湧いてんだよ。で、そこら辺の筋から手頃な下着をもらって、君の机に入れといた」


「なっ!?」



 もし発覚すれば、間違いなく問題になるだろう。ただでさえマイナスのイメージが付いている僕がどれだけ無実を証明したところで、ここまで酷い状況ではどうあがいても僕のせいになってしまう。いや、教師を買収されている時点で僕の勝ちはあり得ない。


 それなら、外部ならどうだろうか?



「教育委員会にでも相談してみようかな。友達に女の子の下着を盗むやつがいて、学校内で村八分みたいなことがおこってるって」


「別にいいけど、たぶん無駄だよ。なにせ受付の人間がもう腐ってる」


「……そっか」



 認めよう。この一連の騒動は完膚なきまでに僕の負けだ。もはやどうあがいても僕の全能力でできる範疇を大きく超えてしまっている。つまり、完全に詰みだ。



「ねぇ橘くん、俺と取引しない?」



 僕が父親以外に負けたことを受け入れるのに時間がかかっているとはつゆ知らず、信也くんはあっけからんに話をさらに飛躍させてきた。



「今はまだ噂に過ぎないけどさ、認めてくれない? 全部本当のことですって」


「……何を、言って」


「あれ、いいのかな? さっき言ったよね、小学校の頃と同じことはいつでもできるって。どこかの新海ちゃんは大変なんじゃないかなぁ?」


「お前っ!?」



 ようやく平穏が戻ったと安心している桜。彼女を再び地獄のような環境に解き放ってしまうことになる。それだけは何としてでも避けたか……



(あれ、そういえば、どうして僕は桜のことを助けたんだっけ?)



 いやそれ以前に、そう言えば僕は何のために必死に手を差し伸べていたんだっけ。おばあちゃんにそう教わったから? それとも僕が人より多くの才能を持って生まれて来たから?


 生まれてから一度でも、自分のために生きたことはあったっけ?



 ——ズキッ!



 僕の頭に鈍い衝撃が走った。そしてさらに追い打ちをかけるように、信也くんは更なる要求を重ねてくる。いや、それは要求というよりもあからさまな扇動だった。



「ねぇねぇ、助けてよヒーローくん? このままじゃ俺、悪者になっちゃうよー。俺だってこんな悪いことしたくないんだよ。ほら、俺のことを……助けてよ」


「あっ……」


「じゃあ、俺は橘くんがここにいるって新海に教えとくね。あいつの為にも、今のうちに縁を切っておくことをお勧めするよー」



 そうして信也くんは屋上へ来た時と同じくらいの笑顔で去っていった。残ったのはまだ現状が整理できていない僕。ここにきて、自分の存在意義が分からなくなってしまった。僕は一体何のために、こんなことをしてきたのだろうか。



「僕は……僕は……」



 正義の味方になりたかったから? 人が傷つくのを見たくなかったから? 世界の平和を願ったから? 他人の負担を背負いたかったから? 誰かの悲鳴が聞こえたから? 争いが醜くて嫌だったから? 偽善を張るのが好きだったから? 他人の笑顔を見るのが好きだったから? 誰かに好かれたかったから? 友達を作りたかったから? 家族に飢えていたから? 暇をつぶしたかったから? 面白かったから? 誰かが憎かったから? 持て余す才能を発揮できると思ったから? ここが自分の居場所だと思ったから? これが自分の生き方だと思ったから? そう生きろと教わったから?



 なぜ……なぜ……なぜなぜなぜ???



「はっ、はああっ、あははっ、あはははははははははっ!!!」



 僕は左手で顔を抑え盛大に嗤っていた。どれだけ考えても答えは堂々巡りになる。教えてくれる人もいなければ、自分の過去を遡っても永遠に答えをもたらす何かはない。



 つまり……意味なんて何もなかったのだ。



 ずっと目を背け続きて来た真実に気が付いてしまった。僕は誰からも愛されていない。誰からも必要とされていない。もし死んだって悼んでくれる人は一人もいない。残っているのは、意味のなかった人生と嘲笑う他人だけ。



 ガチャリ……



 そうして僕が自分自身の残酷さに気が付くと同時に、屋上の扉が再び開かれた。目の端で捉えるその姿、そして慌てたようにこちらへ駆け寄ってくる足音。間違いない、桜だ。思えば、彼女にも数々の無理難題を強いてしまった。きっと彼女は僕と関わってしまった自分の人生を心のどこかで嘆いているだろう。だって、僕はこんなにも酷い人間なのだから。



(……悪かったな、桜)



 そうして僕は、新海桜と強引に縁を切った。暴力じみた手段を取ってしまったのは申し訳なかったけど、これでもう彼女、ひいては他人と関わらなくていいと思うと不思議と心が楽になった。僕はもう、誰とも関わりたくない。


 だが、これからは何のために生きれば良いのだろう。自分自身のために生きる……いや、もう疲れてしまった。何も考えないで、ただただ暗闇に身を落としたい。そう思いながら僕はふらついた足取りで家に帰った。


 橘彼方は自分の意志で孤独という悲しき末路を選ぶのだった。

































——その1か月後、音信不通になった橘家を心配し訪ねてきた叔母によって、衰弱死寸前の少年が発見されたという。2週間近く絶食して部屋の隅で静かに蹲っていたらしい。


 少年はすぐさま救急搬送されそのまま緊急入院し一命をとりとめた。あと数刻遅かったら完全に手遅れだったそうだ。母親とは連絡がつかず、着信拒否をしているのかその足取りは完全に途絶えてしまった。


 少年はその後、一切連絡がつかなくなった母に代わり一人暮らしの叔母よってに引き取られるのだった。












——あとがき——


次回で過去編は終わりです!

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