第113話 橘彼方→椎名彼方③


『いい彼方? あんたは……二度と私に喋りかけないで』


『なんで?』



 まだ幼かったあの日、母に言われた言葉を思い出す。義母の葬式や夫との離婚調停を終えたばかりで心身ともに疲れ切った母は僕に無表情でそう告げたのだ。理由はまだ幼かった僕には推し量ることはできないし、成長した今でも実はよくわかっていない。



『アンタの顔、見たくないの。あの男そっくりだから』


『そっくりだと、だめなの?』


『うるさいっ! わかったら、二度と私にその顔を見せようとしないで。気持ち悪いの』



 そうして僕はあの日以降母親とまともに会話をしていない。小中への入学手続きや教科書購入など必要最低限のことはメモ越しで母親に伝えているが、逆にそれ以外の交流は一切ない。時折同じタイミングで家にいることもあるが、基本的に家の中は静寂に包まれている。


 最後の繋がりは、毎朝テーブルの上においてくれる百円玉一枚くらい。だがそれも、不定期になってきている。




『……なんか、変なの』



 幼いながらに、僕はそう思った。













「彼方くんの家が犯罪者の家系って、本当なの?」



 そう質問された時、特に感情が揺れ動くことはなかった。だがふと、その問いに関する答えを探しているときに祖母に教わったことを思い出した。



 『嘘』というものは最も嫌悪されるもの。僕は祖母にそう教わった。世の中には優しい嘘というものも存在するが、結局は偽善で何の解決にもならない現実逃避に過ぎない。だからこそ、世の中は常に理不尽で溢れているのだと。


 祖母の自説を聞いていると、なぜだか胸にすとんと落ちる気がした。幼い故に判断力がないというのもあるが、僕には幻想的な夢の世界より面倒な現実世界の方が魅力的に感じたのだ。自分でも理由はわからない。けど、祖母が僕に対して洗脳教育的なものをしていないのは確かだ。もしかしたら僕は、家族のだれよりも祖母に似ているのかもしれない。


 だから、目の前の彼らに対する質問の答えは……



「うん、そうだけど?」



 何も迷うことなく、ただ一言で肯定する。真実を語ったところで別に心がざわついたりもしないし、自己嫌悪に苛まれることもない。だって、僕にとってはそれが普通なのだから。

 だが、僕の周りは違ったらしい。



「えっ、やっぱり本当なの!?」


「へ、へぇ……」


「……」



 聞き耳を立てていたのだろう、周りにいたクラスメイト達が一気にざわつき始めた。ある者は僕のことを指さしていつも以上に険しい顔でひそひそとこちらを睨みながら小声で友人と話す。またある者はほかのクラスにいる友人を訪ねるためか一目散に教室を出ていった。



(え……なにこの状況?)



 さすがの僕にも理解できなかった。なにせついこの前まで友人だったクラスメイト達が、僕のことをまるで害虫を見るようなに遠目で観察しているのだから。視線がこんなにも痛いと感じたのは生まれて初めてかもしれない。僕はこの時、生まれて初めて不快感というものを知った。


 隣の席にいる信也君の方を見るが、既に部活に行ったようで姿がなかった。とりあえず僕は逃げるように教室を後にした。視線に耐えかねたという理由もあるが、このままここに留まるのは危険だと僕の勘がそう告げていたのだ。



(明日、なにが起こっているのか調べないと)



 そう思いながら僕は家まで走り抜けるように帰っていった。決して心が弱いがゆえに逃げたわけではない。決して……






















 そしていつも通り学校に行った。いつもと違うのは僕の心持ちだろう。一体学校で何が起きているのか。僕を中心としている出来事であることは間違いないのに、肝心の僕は何もわかっていない。だからこそ、いつもよりあえて遅めに学校に向かったのだが……



「彼方、ちょっといいか」


「え、はい」



 靴を履き替えて教室に向かおうとしたところで教師に呼び止められた。彼は体育の授業を受け持っている先生で、僕とも何度か話したことがある。だが、こんな冷たい表情をする人ではなかったと思うのだが。



「朝から悪いが、職員室に向かってくれ。担任がお前のことを呼んでる」



 そう言って体育教師は玄関を出て校門の方へと向かっていった。彼は毎朝校門の前に立って登校してくる生徒に挨拶をしているので今日もそれを行うのだろうと推察する。だが、僕は彼の態度に少しだけ違和感を覚えた。



「でも、呼ばれたからには向かわなきゃか」



 とりあえず彼の言う通り僕は職員室の担任の元へと向かった。僕の担任は2年生のクラス替えを機に代わっており、貫禄のある女性の先生になっていた。見た目は少し怖いが、生徒想いの先生だと評判だとかなんとか。



「失礼します」



 そうして僕は職員室に入り奥の席に座る担任の元へと言った。すると担任はやっと来たかと言わんばかりの表情を向け、とっととこちらに来いと手招きしている。


 そして僕はそれに従い彼女の元へと向かった。すると先生は不機嫌そうに、手元の書類を一瞬だけちらりと見て僕のことを見つめてくる。



「橘。どうして呼ばれたか心当たりはあるか」


「えっと、わかりません」


「……そうか」



 そうして担任は書類を机の上に放り投げるように置き、頬に手を当てて確認をするように僕に尋ねてくる。



「お前が不法就労をしていると学校に苦情が入った」


「……はい?」


「半信半疑だったが、今朝疑惑が掛かっている新聞の販売店に確認したところ、向こうの社長が事実だと認めたよ。今頃警察から事情聴取を受けてるんじゃないか?」



 僕はこの時、自分の行動の軽率さを知った。誰にも見られていないと思ったが、見られていたのだ。それも僕が中学生だと分かる何者かに。


 担任は呆れたように僕のことを見つめて来た。



「お前も知っているかもしれないが、実は中学生でも例外的に許されるバイトがある。知ってるか?」


「えっと、芸能関係とかです」


「それもある。あとは早朝に行う牛乳配達や……新聞配達だ」



 そう、実は新聞配達は例外的に中学生でも行うことができる。労働基準法で基本的に中学生はバイトができないと記載されているが、いくつかの条件を満たせば特例として金銭を稼ぐことができるのだ。


 だが……



「だが、お前は学校に許可を取っていないよな? それと保護者の同意も必要になるはずだが、それはどうした?」


「……」



 そう、僕は学校に許可をもらっていなかった。中学生が例外的に労働を行う条件の中に、学校の証明書や役所の許可が必要となるのだ。さらに各所で親の同意書なども必要になって来る。


 僕は親と話すことができず必然的に無許可で働かざるを得なかったのだ。



「橘の家庭事情は理解している。けど、それとこれとは話が別だ。わかるな?」


「……はい」



 そうして僕は素直に先生の次の言葉を待った。恐らく、僕の処分が今ここで下される。きっと彼女だけで決めたのではない、昨日あたりに職員会議のようなものが開かれたのだろう。処分内容は、良くて数日間の出席停止と言ったところだろうか。



「本来なら停学処分を下すところだ。だがお前の日々の言動と特殊な家庭事情を考慮して、今回は不問にすることとなった」


「え……」


「教師の中にも、お前のことを信頼している人物がいるということだ」



 どうやら僕の普段の行いもあり庇ってくれる先生が何人かいたようだ。それが分かっただけでも大きな収穫だ。とりあえず、これ以上変に誤魔化さなくても良くなってきたらしい。



「もう一度言うが、今回は不問にするというだけだ。もし働きたいのなら今度は正式な手続きを通した上でやれ。わかったな?」



 僕はその言葉に頷くも、その提案が実現しないことをこの瞬間に察していた。母さんから許可をもらうだけでも苦労するだろうし、今まで働いていた新聞販売店は今回の件でどんな影響を受けるかわからない。少なくともあの場所では二度と働くことはできないだろう。



「……まぁ、なんとかなるさ」



 僕は自分にそう言い聞かせて少し遅れながらも教室へと向かった。この時の僕は昨日の件が既に頭からすっぽ抜けており、明日からどう生活を維持するかということのみを考えていた。


 そうして教室に足を踏み入れた瞬間、友人と話したり読書などをして朝の時間を過ごしていたクラスメイトの視線が突き刺さった時、ようやく昨日のことを思い出す。クラスの人たちは一瞬だけこっちに目を向けるも次の瞬間には僕のことを無視して友人との会話を再開したり、読んでいた本にもう一度目を落とす。しかし、チラチラと僕のことを見ているのは明らかだった。



(……本当に、どうなってるんだ?)



 僕の知っている教室は、こんなに居心地の悪い場所ではなかった。そうして僕はいつも通り席に座り、隣で昨日出された宿題をこなしている信也君の方を見た。もしかしたら今朝まで忘れていたのかもしれない。とりあえず、彼に小声で聞いてみることにする。



「ね、ねぇ信也くん……」


「……」



 だが彼は僕の方を一切見ず、黙々と宿題を進めていた。意図的に無視をしているのか、それとも僕の声が小さすぎて聞こえていないのか。その答えを知りたいと思いつつも彼にそれを尋ねるのが怖かった。聞いてしまえば、何かが崩壊してしまうような気がしたのだ。



「おーい、それじゃ出席とるから席につけー」



 そうして先ほどまで僕のことを指導していた担任が教室にやって来て、いつも通り出席を取り始める。少なくともここまではいつも通りの朝だ。だが、ようやく朝礼が終わろうとした瞬間、クラスの誰かが先生に尋ねた。



「先生、この学校ってアルバイトをしてもいいんですかぁ?」


「……どうした岸本?」



 岸本君、普段はお調子者でクラスのムードメーカーになってくれる存在なのだが、彼がニヤニヤしながら先生にそう尋ねていた。彼の質問の意図は分からないが、僕と先生にとっては非常にタイムリーな話題である。



「いや、なんかこのクラスの誰かが悪いバイトをして稼いでるって噂が出てるんすよ。なんか学校もそれを認めてるみたいなことを聞いたんで」


「なんだその要領を得ない話は。そんな事実、あるわけないだろう」


「でも、なんかこのクラスで目撃してる奴がいるって……」


(っ!?)



 チラリと、岸本君は僕のことを見た。あのバイトの話は、少なくともこの学校の先生と僕しか知らないはず。それがどういう訳には今朝の時点でこのクラス……いや、学校中で噂になっている?



(い、いや待って。そもそもおかしい)



 どうしてこの数日で僕に関するうわさがこの学校で蔓延している? しかもどれもこれも事実無根とは否定しずらい噂ばかり。僕の家族のこともそうだし、僕自身のことがなぜかよからぬ形で尾びれを付けて伝播している。



(一体、誰がこんな噂を……)



 僕は自分の事を滅多に話さないし、誰かが調べて話したとしか思えない。だがそんなことをする人物に僕は心当たりがなかった。



(母さん、桜、先生……でも、こんな悪戯をする意味はないし)



 頭の中で疑問が渦巻いて、浮かんでは消えてを繰り返す。この意味の分からない騒動の真実に至るピースが圧倒的に欠けている。だがそれでもわかるのは、ここから先の展開だ。


 僕は知っている。この学校の生徒が誰かを傷つけることに慣れているのを。つい一年前まで、桜という格好のターゲットがいたことを。そして、彼らが誰かを見下し傷つける快楽に飢えているのを。


 そしてそれは、僕が想定していたよりもすぐに訪れた。



「一体、お前たちはなんのことを……」


「じゃあもう言っちゃいますけど、橘のことですよ! 何かあいつが万引きや痴漢を繰り返して、そしてそれを悪びれもせず認めたって!」


「なっ!?」



 驚いた声を上げたのは他でもない僕だ。まさか名指しでそんなことを言われるとは思わなかった。というか万引きや痴漢ってなんだ? そんな行為身に覚えがないし認めた記憶もない!


(まさか、昨日のあれ?)



 そう、昨日僕は問われた。橘彼方は犯罪者の家系の者なのかと。否定できなかったため僕はその問いを肯定したのだが、まさかそこまで誇張されているとは思わなかった。僕は一度心を落ち着け、その言葉に反論をしようとする。



「そんなこと、したことがないけど?」


「嘘つけよ! 昨日みんなの前で言ってただろうが!」


「そうだ! よく考えりゃおかしかったんだよ。テストで毎回満点を取るとか、絶対不正してんだろ!」


「そういえば橘くんって、スポーツが凄い出来るけど、もしかしてあれも?」


「えっ、ドーピングとかなにか?」


「クスリってこと!?」



 大きな声で否定しようとも、クラスメイトたちはあることないことを騒ぎ立てて僕の話を全く聞こうともしない。普段は威圧感のある先生もこの時ばかりは事態を把握できず呆気に取られていた。だがこのままではいけないと僕はすぐに行動をする。思えば、これも間違いだったのかもしれない。



 バァン!!



 僕は立ち上がって思いっきり自分の机を叩き乾いた音を教室中に響かせる。すると先ほどまで騒がしかったクラスのみんなは急に静かになり、先生を含むみんなが僕に注目した。ようやく静かになったところで僕はもう一度話し出す。



「さっきから僕のことをいろいろ言ってるけど、まずは具体的な証拠を出したら? そう言う風に言ってると、いつか名誉棄損とかで訴えられるよ?」


「なっ、証拠も何も昨日お前が……」


「あれは僕の親のこと。僕自身のことじゃない。犯罪者の子供は犯罪者なの? 天才の息子は天才になれる? オリンピック選手の娘は同じくらいの運動神経を有しているの?」



 僕がそう言うと教室の中が一気に静まり返った。だが共通しているのは、みんなが今の言葉で僕のことを敵意にも似た視線で見つめてきたことだ。だが別にそういう視線で見られても針で刺されているわけではないので僕は痛くもかゆくも……



「別のクラスに、お前に無理やり迫られたって言ってた奴がいたんだぞ!」


「……は?」



 想定していなかった言葉が投げかけられ、僕は思わずフリーズしてしまう。確かに証拠を出せとは言った。だが、そんなことをした事実は一切ない。しかしその言葉が新たな火種になったのか、再びみんながヒートアップする。



「やっぱり、悪いことをしてるんじゃ……」


「そういえば、あいつが女の子を泣かせたみたいなこと聞いたことがある!」


「人は見かけによらないよねぇ」


「どうしよ、橘くんにシャー芯もらっちゃった。変なことされないかな?」



 もはや言いたい放題だった。僕も呆気に取られてしまい、言葉を紡ぐことができず呆然としてしまう。そこでようやく先生がハッとしたのか、すぐにみんなを怒鳴って黙らせる。さすがの先生の怒声にみんなが押し黙ってそのまま大人しくなる。



「とりあえず橘、もういちど職員室に来い。色々と話を聞く」


「……はい」



 このまま教室に残っても先ほどの地獄のような見せしめが待っているだけだと判断したのか、先生は僕にそう言った。そうして僕はそのまま先生に促されるまま教室を出て、しばらく話をしたあと保健室で時間を潰すことになる。



 この日、僕は初めて誰かから悪意や敵意を向けられる恐怖を知った。











——あとがき——


あと2話くらいで過去編終わります(思ったより多くなっちゃった)

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