第98話 飛び交う憶測


 一年生の女子が停学になったという噂は誰かが油を注ぐことなく瞬く間に学校中の噂として広まった。しかも停学の理由まで公表されているため、好奇心旺盛な思春期の高校生たちは教師の目が届かない場所でこぞって自分の考えを話し合う。そしてそれは、俺のクラスも例外ではなかった。



「淫らな行為って、マジかよ」


「この学校でそんなことが起きるなんてね」


「いやー羨ましいわ。そんなシチュエーションに巻き込まれてみてー」


「私は普通に引くな。え? それ学校の中でやったの?」


「しかもそれで停学って。淫乱を究めすぎじゃね?」



 普通であればあり得ないであろう憶測なども飛び交い、中には心無い言葉まで聞こえて来た。停学になった女子生徒が在籍しているクラスの状況は見ていないのでわからないが、きっと違和感を覚えている生徒がいることだろう。だがそんな感情なんて大衆である生徒には無視をされ、きっとすぐにクラスや名前を特定されてしまうだろう。



「み、みんなー。先生も騒ぐなって言ってたしもやめよ? ほら、もう次の授業が始まるわ!」



 学級委員長である如月がちょくちょく火消しをしているがそれでも全く効果はない。学級委員長としての素質はあるが、こういうことには無力なようだ。ふと隣の雪花を見ると、朝からずっと目を伏せて傍から見れば居眠りをしているように見える。



(しかし、えぐい真似をするな)



 すでにこの噂は学校中で噂になっている。仮に女子生徒の停学処分が明けたとして、再びこの学校に通う頃にはあらぬ噂がその女子生徒の周りで飛び交っていることになっている。どんなに心の強い生徒であれ、不登校どころか自主退学という文字が脳裏に浮かび上がることだろう。噂が噂だけに、自ら命を絶ってもおかしくない悲惨さだ。



「……ん?」



 鞄の中に入れていたスマホが震えたので、取り出して確認する。するとチャットアプリからメッセージが届いていた。送り主は……



(七瀬?)



 翡翠と連絡先を交換する過程で、彼女のアカウントも何かに使えるかもしれないとついでに登録しておいたのだ。しかし、まさかこんなタイミングでメッセージが飛んでくるとは思ってもいなかった。


 俺は誰にも見られていないことを確認しつつトークルームを開く。



『助けてください。クラスがヤバいです』



 チャットには、その一言。



「……」



 どうやら今回の出来事は、思っていた以上にこの学校へ大きな影響を及ぼしているようだった。















 時は少し遡り、朝のホームルーム。1年2組の面々はいつもと変わらない朝を過ごしていた。だがそこへ衝撃が走る。



「橋本が、停学!?」



 叫ぶようにそう言ったのが誰だったのかわからない。なにせクラスにいた全員が担任が何を言ったのか理解するのに数秒の時間を要したからだ。しかも、理由が理由だけにとても信じられなかった。



「先生、何かの間違いじゃないんですか!?」


「そうですよ! 道子ちゃんがそんなこと、するはずがありません!」


「俺たちに勉強を教えてくれたり、凄い親切な奴だったんですよ? そんなことあり得ないじゃないですか!」



 多くの生徒が担任に抗議するが、その事実と決定が覆されることはなかった。停学処分は職員会議ですでに決定事項になっており、当事者ですらないクラスメイト達が介入できるはずもなかったからだ。



「嘘っスよね?」



 そして動揺して頭が真っ白になったのは七瀬も例外ではなかった。隣の席に座っている翡翠はまだ冷静な方だが、それでも表情が崩れて驚きをまったく隠せていなかった。



「みんなの気持ちはわかる。だが、すでにこの処分は決定されてしまった。もし、もしもだ。この中に当日の橋本について何か知っている奴がいたらすぐに出てきてくれ。それで何かが変わるかもしれん。私も、みんなと同じ気持ちだ」



 担任も今回の件に関して違和感を拭えないでいた。橋本道子がそんなことをするはずがないとわかっているのは、担任である彼も同じだったからだ。



「ひ、翡翠! なんとかならないんスか!?」


「……なんで、俺に聞くんだよ」


「……そうでした。翡翠に聞いた自分がバカでした」


「てめぇの顔面を陥没させてやろうか、え“ぇ”?」



 二人はいつもの会話をすることでなんとか自身の心を落ち着ける。だが周りの生徒はそうもいかなかったらしくざわざわと騒がしく抗議や話し合いを続けていた。これでは授業にすらならないだろう。



「……そうだ、センパイなら」



 ふと、七瀬は先日連絡先を交換した人物のことを思い出す。彼ならこの状況を打開する何かを自分に授けてくれるかもしれないと。



「やめとけやめとけ。あんなのに相談しても意味ねー」


「それは分からないっスよ。あの人が凄いの、翡翠だって知ってるじゃないっスか」


「……」



 翡翠が言い返さなかった様子を見届け、七瀬はチャットを開き最低限の要求を伝える。どうやらこの話はすべてのクラスで注意喚起として行われているらしいし、すぐに察してくれるだろう。問題は今の教室内だ。



「これ、収拾つかなくないっスか?」


「……知るか」



 教室で担任に根掘り葉掘り事情を聴く生徒が後を絶たない。それだけ橋本道子という生徒がみんなから信頼されていたという証拠だ。しかし翡翠は我関せずといった感じで机に突っ伏して眠り始めた。どうやらこの騒ぎに関わるつもりはないらしい。内心思うところはあるだろうが、今は何もしないことが賢明だと判断したのだろうと七瀬は判断する。



「うーん、自分にもどうすることもできないっスね」



 七瀬ナツメと雪花翡翠。この二人のクラスにおけるカーストは決して高くない。むしろ最初の頃なんて翡翠は家の事情もありクラス内からは疎まれていたくらいだ。そして七瀬は主に女子からいい顔をされていなかった。この前の体育祭でそれも多少は解消されたが、二人がクラスを主導することは難しいのだ。



「とりあえず、先ほども言ったように何か知ってる奴がいたら申し出てくれ。休み時間でも放課後でも構わない。私は授業があるから行く。お前たちも一時間目の授業の準備はしておけよ」



 結局担任がクラス内を何とか宥め、一度クラスは落ち着いた。だがそれも一時的なもので、特に橋本と仲が良かった女子たちが不満を抱え込んでいるようだ。とりあえず、七瀬は自分もそれに合流して声を上げてみようかと検討を始める。だが……



「あっ」



 先ほどの騒ぎでスマホを握り締めていることを忘れていた七瀬だが、一回のバイブレーションでふとそれを思い出す。そしてタイミング的にこの通知は……



(やっぱりセンパイからだ)



 七瀬は人に見られていないかを確認し一時間目の先生が来る前に目を通しておこうと人知れずスマホに目を通す。そして送られてきたメッセージは……



『何もするな』


「えっ」



 今から行動を起こそうとしていた矢先のその一言。もしかして、今このクラスがどうなっているかすべてを読み切ったうえでの一言? それとも……



(自分が、下手に行動を起こさないように釘を刺した?)



 だとしたら、あのセンパイには何がどこまで見えているのか。たった一つのメッセージで大げさかもしれないが、七瀬は椎名彼方という人物が底の知れない人物であるということを知っている。下手したら、翡翠なんかよりも強い……



「……ふぅー」



 わかりました。七瀬は心の中でそう呟いた。あのセンパイの一言だからこそ、今はその指示に従ってみるべきだと判断した。確かに、ここで変に動いて教師に目をつけられたら何が起こるかわからない。ただでさえ、自分は目立つのだから。



「……」



 そしてその様子を横目で見る翡翠。人より落ち着いていた翡翠にも、今自分たちの身の回りで何が起こっているのかわからなかった。

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