第88話 翡翠の実力


 雪花翡翠と二人きりになるのはこれが初めてだ。以前は体育祭で隣り合うことがあったがあんなものは例外。まともに話してもいなければ顔をさらして腹を割って話していたわけでもない。そもそも、雪花翡翠が俺の元をわざわざ訪ねてくる理由なんて本来ないはずなのだ。



「体育祭ではしてやられたぜ。かけっこであんなに大差をつけられたのは記憶にねえからな」


「何のことだか」


「惚けやがって。もうあのふざけた兎面野郎がお前だってことは割れてんだよ。今更見苦しいだけだろ」



 どうやら翡翠は俺があの時の男だと確信しているらしい。なぜ正体がバレているのかは正直不明だが、こいつの姉が何かぼやいたのかもしれない。リレーで走り終えた後に合流した雪花は兎面が俺だと確信している節があったし、案外俺の知らないところでボロが出ているのかもな。どうやらあのリレーの代償は思ったより大きいものだったのかもしれない。



「それとも、別の方法で証明してやろうか?」


「別の方法?」


「てめぇがあの時の男だっていう、確固たる証拠だよ」



 どうやら翡翠は何がどうあってもあの時の男を俺だと決めつけたいようだ。実際その通りなのだが、どうやって証明しようとしているのかには純粋に興味がある。だから俺は素直に黙って見ていることにした。



「オラァッ!!」


「っ!?」



 だが俺が様子見をしようと決め込んだ瞬間、翡翠の肩が一瞬だけブレた。否、俺への攻撃である。超高速で俺の顔面に目掛けて左拳を振りかぶろうとしているのだ。まともに食らえば良くて顔面骨折。悪くて失明や脳への障害が残る一撃であろう。だが……



 ピタッ……



 その振りかぶられた拳は俺の鼻先スレスレで止まる。とてつもない集中力が必要になる寸止め。しかも鼻先に当たる直線に逆方向に力を込めるのは、物理法則的に腕にかなりの負担が掛かるはずなのである。だが目の前の小柄な男は、それを簡単にやってのけた。それだけで力のほどを測るのは充分。

雪花翡翠は、七瀬や新海どころか俺に迫る実力を秘めている。状況次第では、俺を凌ぐ実力すら持っているかもしれない。


俺がそう分析すると、翡翠は真剣な表情をして俺の方を見つめていた。どうやら翡翠の方でも何か思うことが今のやり取りであったらしい。



「お前、今反応してたな?」


「ビビって何もできなかっただけだ」


「いや違う。てめぇは反応できたうえで避けなかったんだ。あの一瞬で、避ける必要がないと判断したんだ」



 確かにあの一瞬でいきなり攻撃されたのには驚いたが、確かに俺はわざと避けずに何も行動を起こさなかった。あのときの翡翠が行った振りかぶりはまさに全力だったが、殺意や敵意がぐんと消え失せたのだ。


 攻撃しようとしているのに敵意が消える。そこから導き出される結論はすなわち、俺に対する拳の寸止めかみねうち。なら、わざわざ避ける必要がないと判断したのだ。ここで変にアクションを起こせばいらぬことまで勘繰られてしまう。だが、向こうの方が一枚上手だったと言えるだろう。

 なにせ俺が反応したうえで避けなかったと、本能で理解しているのだから。



「解せねぇな。なんで類稀なる身体能力と才能をもってそれを振るおうとしねぇ」


「俺にそんなものはない」


「嘘つけよ。殴られそうだったのにそんな飄々としてるやつを、俺は人生で二度くらいしか見たことない」


「結構いるじゃないか」



 なんやかんやでこの雪花翡翠も修羅場をくぐってきているようだ。喧嘩とか体を使う経験は、恐れく俺なんかより上。こいつがその気になって本気を出せばこの学校を掌握するのは簡単だろう。今の新海のレベルではこいつを止めることはできない。



「てめぇ、余裕そうだな」


「まぁ……」



 確かに傍から見れば俺は余裕そうに見えるだろう。何せ一切目の前の男のことを警戒していないし、誰がどう見ても隙だらけと答える状態。だが、事実俺は余裕だったしこれ以上ないほど心が落ち着いていた。


 この一瞬で分かってしまった、見えてしまったのだ。雪花翡翠の才能とこれまで築き上げてきた努力。そして現在の総合的な実力といずれ至るであろう到達点。そしてそのすべてを予測し分析し、俺の脳内に帰結するただ一つの事実。こいつにとっては残酷で、俺にとっては至極当然の結論。



——この程度の奴に、わざわざ本気を出すまでもない



 口では間違いなく俺が圧勝できるだろうし、仮に拳を出されても予測して避けられるうえに少々骨は折れるだろうが押さえつけることなど容易。少し引き出しを開ければこいつを弄する策などいくらでも湧いてくる。


 慢心と言われればそれまでだが、今のこの状態で負けるシチュエーションが思い浮かばない。実力では限りなく俺に迫っているし、それこそ新海程度なぞ相手にならないだろう。だが、それでも俺とあまりにかけ離れている要素がある。


 雪花翡翠の喧嘩や暴力の才能は……



「てめぇ、何笑ってやがる」



 どうやら気づかぬうちに笑みを浮かべていたらしい。だがそれも仕方がないことだ。努力だけでそこまでの領域に到達することができるとは思っていなかったからだ。


 ある種の芸術。俺は雪花翡翠のことをそう評価した。


 さて、少しは俺が話の主導権を握ってもいいだろう。いい加減聞かれるだけなのも飽きて来た。



「それで、俺に何の用だ?」



 俺はここにきてようやく本題を話せと迫る。わざわざ本来立ち入り禁止の屋上に来たということは、人に見られたり聞かせたくないことをしようとしているのだろう。正直心当たりがないと言ったらうそになるが、それでもあえて俺は質問をした。



「チッ! この前のこれ、どういうことだよコラッ!」



 そう言ってキレ気味に翡翠は俺に紙きれを投げつけてくる。それは俺が体育祭で翡翠の隣に座った時、彼にこっそりと手渡したもの。内容としてはこうだ。



——校舎前でカメラを持ってグレー帽をかぶった男に姉が盗撮されている。



 断片的にではあるが、俺はこの体育祭で盗撮行為が行われていたことを翡翠に伝えた。間接的にではあったが、実際その男は明後日の方向を向いていたりと挙動不審だった。だがそれだけでは行動を起こすには足りないと思い、リレーで圧倒的な走りを見せることで俺とメッセージのことを印象付けることにしたのだ。義姉さんの想いというのもあったが、あそこで本気を出したのは成功だったと言えるだろう。


さらに被害者の中に姉がいるかもしれないと思わせることでより焦燥感に駆られたはずだ。その結果、他人任せではあったがあの盗撮事件に関しては収集をつけることができたわけだ。



「なんだろうな」


「てめぇふざけんなよ! あの男のことシバいて、カメラ奪ったら女子どもの写真がわんさか出てきやがったんだよ! しかもどうやって撮ったのか知んねぇが、更衣室の写真も入ってんぞ! あぁ!?」


「更衣室?」



 てっきり盗撮されていたのはグラウンドだけだと思っていた。だが学校内にも侵入していたとはな。いや、違う。もしかしたら学校内部に協力者がいるのかもしれない。どちらにしろ悪質なことに極まりないか。



「お前、一体何をどこまで知ってやがるんだ?」


「わからないな」


「そうかよ」



 すると、再び翡翠が動いた。先ほどは腕だけだったが、今度は体全体がぶれて見えるほどの踏み込み。そして全身の力を込め、俺の腹目掛けてフックを放ってきた。今度は先程とは違い寸止めではない、正真正銘の攻撃。腹を狙っているのは外部から目立たないところに攻撃するという考えからだろう。



(これは、さすがにまずいな)



 まともに食らえば体が壊れる。絶望感に溢れるような攻撃が俺に迫っていた。


 正直避けたり逃げたりしても構わないのだが、目的を果たすためにはそれではいけないだろう。だから俺はその拳を受け止めることにした。ただし腹でではない、合わせるように振り出される拳に向かって差し出した手のひらでだ。



 パァン!!!



 肉同士がぶつかる乾いた音が屋上に響いた。



「……マジかよ」



 翡翠は目の前の光景を見て唖然としていた。攻撃した本人でもまさか受け止められるとは思っていなかったのだろう。せいぜい避けるか逃げるか。あるいはそのまま食らうかの限られた選択肢のなか俺は防御を選択。それ自体はおかしいことではないが、それにしてもあまりにも異質。


 なにせ翡翠の拳は押し出すどころか俺の手にがっしり掴まれてピクリとも動かないのだから。



「テメッ、離しやがれ!」


「……そうか」



 俺はゆっくりと翡翠の拳を離し、本人に実力の差を思い知らせる。今のやり取りで翡翠も痛感しただろう。俺とやり合うには、決死の覚悟で差し違える必要があるということを。だがさすがに喧嘩をしに来たわけではない翡翠は一度落ち着き、改めて俺に問い直す。



「なんなんだよ、お前。何が目的だ。俺たちの事、どこまで知ってやがる?」



 先ほど質問したのは俺だというのに、早速質問を返されてしまった。そしてしばらく続き沈黙。勘違いしているかもしれないが、少なくともここで俺が翡翠に何かアクションを起こすということはない。ここで貫くのは、ただただ沈黙すること。それだけで十分なのだ。



「……チッ!」



 俺が何も話さないことに露骨にイラつき始める翡翠。だが強硬手段に出てしまえばそれこそ意味がないのでお互いにできることがない。そうして翡翠は諦めたように踵を返し



「てめぇ、余計なことに首突っ込むなよ。あと……姉貴に何かしてみろ。ぶち殺してやんよ」



 そうセリフを吐き捨て屋上を後にした。俺から得られる情報は何もないと判断したのだろう。明らかに何かを知っているが聞き出すことが困難。だが敵意はなさそうなので放置していても問題はナシ。翡翠はそう判断したはずだ。そうでなければ、今ここで俺と刺し違えていただろう。ほぼ無抵抗で受け身の姿勢だったのが功を奏したというところだろうか。


 対して、俺が翡翠に求めることも特に何もない。何せ彼は今、大きな役割を果たしてくれたからだ。これでシチュエーションは整った。あとは……



「……お前がどうしたいのか、答えを出しておけよ」



 そうして俺はスマホを胸ポケットから取り出し、そう言い残して通話を切った。

 プツリと切れるその瞬間に、電話越しに戸惑い気味な少女の声が聞こえた気がした。










——あとがき——


まだ未公開設定ですが新作のストックを書き溜めている為、もしかしたらこちらの更新に影響が及ぶかもです。できる限り更新は続けますのでどちらもお楽しみに!

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