第55話 渦巻く感情


「いやー、今日はお付き合いいただき感謝するっス!」



 クレープを食べ終えしばらくモールの中をぐるぐるした後、俺と七瀬は帰路へと着いた。学校終わりに来たこともあり、俺たちが外に出ることにはすっかり日が暮れかけていた。ビルの向こうに見える僅かな夕焼けが、徐々に沈んでゆく。



「最後の方は完全に蛇足だったな。飼うわけでもないのに動物を見るなんて」


「そうっスか? 自分は飼えずとも見ているだけで癒されるっスよ」


「アクリル板や檻がなければ、あいつらはすぐに愛玩動物から野生動物に変貌するぞ?」


「……それは、偏見が強すぎないっスか?」



 そうだろうか? その点に関しては人間だって同じだと思う。ルールや束縛がなくなれば人は完全に何をするかわからない獣へと変貌する。男や女も関係ないし、相手が子供だったら余計に質が悪いだろう。人間はいかにルールの外側に行けるかを模索してしまう生き物なのだ。



「それはそうと、今日は楽しんでいただけましたか?」


「さあな」


「ま、センパイの顔に楽しかったって書いてあるっスけどね」



 そんなことを言われても、どんな顔をすればいいのかわからない。というか、今日一日通して俺が七瀬とゲーム対決をしても、心から楽しめた時間は一秒たりとも存在しなかった。それなのに、七瀬は俺が楽しんでいたと断言している。


 とりあえず七瀬の言葉に



「そう見えたんなら、眼科の受診をお勧めしておくよ」



 とびっきりの皮肉を込めてそう返しておいた。七瀬は頬を膨らませて不服そうにしているが、俺だってどう反応すればいいのかわからないのだ。


 だって俺たちの背後には、いつの間にか張り付いている番犬がいるのだから。



(……とりあえず、話題を変えるか)



 せっかくだし、昨日の事でも聞いてみようか。こいつがもし雪花と仲良くなったとしたらいろいろと厄介なことになりそうだから。



「そういえば、雪花とは仲がいいのか?」


「雪は……え、翡翠?」


「いや、なんで宝石の名前を返してくるんだよ。昨日一緒に家に行っただろうが」


「え……ああ。あっちの」



 一体何と勘違いしたのだろうか。雪花なんて名前、そうそういるとは思わないのだが。というか、昨日の件でだいぶ印象づいているはずなのに。もしかしたら雪花という苗字の知り合いが七瀬の身近にいるのかもしれない。



(雪花……そういえばあいつのことも何も知らんな)



 知る必要はないと思っていたが、なんだかややこしいことになってきている気がする。関わるべきではない人間と関わってしまったとでもいうべきか。そしてそれは今見られているこの視線とも関係があるのだろうか。



「あの人とは、あれ以降は特に何も。仲良くなれそうとは思ったっスけど」


「へぇ」


「むっ、その変な顔はなんなんっスか?」



 仲良くなれそう、か。まあ昨日の時点でだいぶ打ち解けていたみたいだし、こいつが本気になれば案外時間の問題なのかもしれない。どこかの誰かは初手で手を間違えてとことん嫌われていたはずなのにな。



「とりあえず、今日は世話になった。お金は返した方がいいか?」


「いえ、連れまわしたのは自分なので。それに、こう見えて結構稼いでるっスよ」


「そうか。それならよかった」



 とりあえず七瀬と貸し借りの関係になるのは避けたい。こんな奴と頻繁にやり取りをするようになってしまったら目立つことこの上ないからだ。それはつまり、今までの一年間をどぶに捨てる行為に等しい。



「それではセンパイ、自分はこの辺で」


「ああ。まっすぐ帰れよ」


「はいっス!」



 そして七瀬は俺と反対の方向へ歩いて行った。俺は一度も振り返ることなく、少し速足で家へと帰宅する。だが、俺の頭の中は七瀬に先ほど言われた言葉で埋め尽くされていた。



(俺が笑っていた? 楽しそうだった? 義姉さんにそっくり? まさか、そんなことあり得るわけがない。あり得るわけが……)



 だが、一人で問答しても答えは一向に出てこない。俺はもやもやした気持ちを抱えたまま完全に日が暮れ切った道を一人駆け足で進む。その足取りは何かに縛られているように見えた。




   ※





「ずいぶん楽しそうだったな?」



 七瀬はふと聞き馴染みのある声を耳に入れすかさず振り返る。するとそこには、小学校の頃から嫌というほど見てきた青年が真顔で鎮座している。誰あろう雪花翡翠その人だ。



「とうとうお前みたいな唐変木も恋愛事に興味を持つようになったか?」


「翡翠、こんなところでどうしたんスか?」



 いきなり現れた翡翠に驚き後をつけられていたのかと思ってしまったが、彼は自分のように誰かの後を付け回すタイプではないと七瀬はすぐに気づく。理由がどうあれ彼のいきなりの登場に七瀬は困惑していた。そんな様子を見て、翡翠が相変わらずの無表情で口を開く。



「たまたまお前がモールの中から出てくるところが目に入ったんだよ。しかも、男と歩いているときた。事務所が知ったらカンカンだろうな」


「自分とセンパイはそういう関係じゃないし、事務所も私のプライベートには入り込んでねーっスよ」


「だといいな」



 そう言って翡翠は私の後ろをのぞき込む。しかし、そこにはもう誰の姿もなかった。翡翠は残念そうにため息をつきながら七瀬の方に向き直る。変わらず無表情なところがどこか怖いが、七瀬にはもう慣れたものだ。



「それで、ありゃ誰だ?」


「この前言った学校のセンパイっスよ。多分、私よりかは凄い人っス」


「そんな人この世にゴロゴロいるだろ。てめぇは自分の事を贔屓しすぎなんだよ」


「酷くねぇっスか!?」



 そう言いつつも翡翠はどこか腑に落ちない様子でもう彼が一度いなくなった道を見つめる。僅かに差し込む夕日で七瀬は一瞬顔を閉じてしまうが、翡翠の顔に変化はない。だが、翡翠がぼそりと呟く。



「あれが姉貴の言ってた頭を悩ませてる存在って奴……か」


「翡翠?」


「いや、何でもねぇ。とりあえずオレは帰る。お前もとっとと家に帰りな」


「言われなくてもわかってるっスよバカ翡翠」



 翡翠がつぶやいたことを聞き取れなかったが、七瀬は呆れるよう言い返しながら翡翠の横を通り過ぎた。だが翡翠の横顔は、少しだけ無表情が崩れていたように見える。もしかしたら、あのセンパイに対して何か思うところがあったのかもしれない。


 そして七瀬は今度こそまっすぐ帰宅するのだった。そしてそれを見た翡翠も自分の家がある駅の方角へとゆっくり帰宅する。


星が見えるわけでもないが、なんとなく空を見上げてみる翡翠。わかりきったことだが、そこに輝きは存在しない。空にあるのは、どこまでも続く闇夜だ。そして薄っすらと口を開き



「……確かに、似てるな」



 完全に暗くなった街の真ん中で、寂しげな青年の声が木霊した。










——あとがき——

次回で一回区切ります

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