第51話 七瀬ナツメ②

 

 あの子と話しちゃいけないよ。



 私が彼のことを聞いた時、当時のクラスメイト達は口を揃えてそう言った。当時は理由がわからなかったが、彼はクラスメイトのほとんどから嫌われていたのだ。それも、小学生とは思えないほど陰湿な嫌がらせをされるほどに。



『あの子の家はね、ボーリョクダンなんだよ』


『しかも、悪いことたくさんしてるんだって』


『危ないから、喋ったらダメだよ』



 クラスメイトの口から飛び出すのは根も葉もない噂をもとにした決めつけ。今でこそ全力で否定し翡翠のことを擁護できるが、当時の私にそんなことが分かるはずもなかった。


 まだ精神的にも幼かった私はそれがこのクラスのルールなどだと思い込み、こちらから彼に話しかけることはなかった。それに、そもそも話す話題もきっかけもない。そして何よりこの時期の私はクラスの人気者で、休み時間などはよく拘束されたものだ。



『ナツメちゃんってすごいよね。英語分かるし』


『スポーツだってすごいよ。昨日のマラソンで一位だったし』


『うんうん。綺麗だしお姫様みたい!』



 やはり他とは違う顔立ちが目立つのか、男女を問わずに質問攻めに。というか、褒め殺し状態が続いていた。当時はすべての日本語を理解していたわけではないので聞き流せていたが、今でこそ卒倒してしまう。



 そんな日々が続いていた時、とうとうその瞬間が訪れる。



『『『『……くすくす』』』』



 翡翠が席を離れた瞬間を狙って、彼らは翡翠の机の中を漁り始めた。そして物を隠したり、教科書に落書きしたり、筆記用具などをごみ箱へと捨て始めた。しかも、それをした人たちや周りの人も静かに笑っているのである。


 私には意味の分からない光景だった。どうして人に嫌なことをして笑っているのだろう。というか、そもそも人のものを勝手に捨てたりしたら先生に怒られるはず。だが、みんなは先ほどの行為を当たり前のように黙認している。



(……)



 だが、転校してきたばかりの私にできることはなかった。それに下手に手を出してしまえば、次は自分が標的になってしまう。



『……』



 机に戻ってきた翡翠は、何も言わずに席へと座る。無くなった物や増えた落書きについての言及は一切せず黙って窓の外を眺めている。きっとその姿勢がクラスメイト達にゆとりを与えているのだろう。


 そして運が悪いことに、私たちの担任の先生はまだ新人だ。彼自身に余裕がなく、教室内でこのような嫌がらせが行われていると気付いていない。それどころか、翡翠のことを諭すように叱っている。

 今日の授業の直前でもその光景が見られた。



『翡翠君、これで何回目? どうすれば翡翠君は教科書を持って来てくれるのかな?』



 わざわざ立たせて、教科書がない理由を問いただす先生。幸いだったのは、担任の先生が心の穏やかな人だったことだろう。もしこれで体罰などがあったら目も当てられない。


 本来なら怒ってもいい雪花君。けど、彼は



『すいませんでした』



 そう言ってずっと黙っている。周りの様子を伺ってみると、ほとんどの生徒の口の端が吊り上がっていた。まるで、狂気的なサーカスに来ている気分だ。



(……この人たち、怖いっ)



 私は転校してから間もなく、学校に行くのが億劫になってきた。あの光景が脳裏に焼き付いて離れない。相談しようかと職員室をのぞき込むが、担任の先生は先輩たちにほぼ毎日しごかれている。


 日本語が上達すればするほど、彼らの悪意を明確に感じ取れるようになる。気持ちが悪くなることだってあったし、酷い目に遭っている雪花君の無表情な顔がフラッシュバックする。


 しかし、私の心が折れなかったのは



(雪花くんは、あんなことされても毎日学校に行ってる。なら、私が逃げちゃダメだ!)



 実際のところ、私はまだ何の被害も受けていない。それなのに自分だけが学校を休むのは、彼のことを完全に見捨て、自分だけが楽になるということだ。

結局のところ私は彼のことを助けてあげたかったのだ。


 だがそんなこともできないまま、時間だけが過ぎていく。とうとう嫌がらせは物に留まらず、雪花君に直接降りかかり始めた。



『ププッ、おら食らえ!』


『!?』


 雪花君の頭上に大量の消しカスが降りかけられたり、椅子に画鋲が仕掛けられたりした。画鋲の方は雪花君が事前に察知し取り外していたが、それでも彼らには関係ない。

 ひとしきり嫌がらせが終わった後、彼らのリーダー格が雪花君の方に腕を置き、静かに言い放つ。



『お前もう学校来んなよ、社会のゴミ』



 そうして彼らは静かに自分の席へと座っていく。大量の消しカスを振り払った翡翠は、何事もなかったかのように破れかけた教科書を開いて授業を受ける。



 そんな日々が、三年ほど続いた。クラス替えが行われてもその猛威は収まることがない。担任の先生が同じ人だったこともあり、余計にイジメは加速した。私も吐き気を覚えながら、その長い日々を過ごし抜いた。



 だがここで初めて、私は彼について疑問に思う。



(どうして雪花君はやり返したり、告げ口したりしないんだろう?)



 そう、雪花翡翠はこの数年間ずっと行動をしていない。何もやっていないのだ。そのせいで嫌がらせがエスカレートし、イジメへと発展しているのである。


 証拠なら教科書や机など集めれば大量にある。つまり、彼が先生に言ってしまえばいつでも彼らのことを追い詰めることは可能なのだ。その時は、私だって味方したいと思っている。



(もう少し、雪花君のことを知らないと)



 私は興味を持った人を尾行するという癖がある。ストーキングといわれてしまえばそれまでだが、この時の私(というか今も)は興味百パーセントで動いていたのだ。


 そして放課後クラスメイト達の遊びの誘いを断り、ひっそりと彼の後を気付かれないようにつけた。


 どうやら彼は駅の方に住んでいるようで、自分とは違う通学路の景色に少しドキドキする。そしてそのまま、数十分ほど歩いただろうか。


彼は小さな公園へと一人で入っていった。



(何してるんだろ?)



 彼はブランコに乗り一人で黄昏ていた。だが、すぐに異変に気が付く。



(雪花君、泣いてる)



 泣き喚くわけでもなく、モノに当たるわけでもなく、静かに無表情で涙をこぼしている。その光景は、日本の文化をまだ完全に理解していない私でさえ痛々しいと思ってしまうものだった。憎らしいほど綺麗に輝く夕日が、彼の涙を照らしている。



(辛くないわけ、ないよね)



 きっと彼は多くのストレスを抱えているのだろう。教室ではもちろんの事、家の事情で苦しんでいることもきっと多いはず。もしかしたら、私が知らないだけで他にも何か抱えているのかもしれない。

 

 それに気が付いた私は、気が付けば胸の前でギュッと拳を握っていた。この行動に特に意味はない。だが、なぜか時間が経つにつれ拳を握る強さが徐々に強くなっていく。



(私が……)



 何ができる?


 まだ会話さえおぼつかない部外者の私に、いったい何ができる?


 ただ、彼の姿が昔の自分に重なる。

 悪意のぶつかり合いを見て、何もできない自分の無力さに嘆き絶望する。そして、気が付けばそれが負のスパイラルに陥り最悪の結末を迎えるのだ。


 しかし、前に進む勇気がない。意味もない。なにより本人に拒絶されるかもしれない。だって、私も彼らと同じで雰囲気に流されたクラスメイトの一人なのだから。



 なぜか私まで泣いてしまいそうになった、その時だった。



『あれ、どうしたの?』



 一人の男の子が、翡翠の方へと歩み寄っていた。服装からして、恐らく中学生だろうか。私と雪花君は同時にその人物へと目を向ける。



『男の子が泣いてちゃダメだよ。ほら、これあげるからその涙を拭いて』



 そうして中学生はポケットティッシュと小さな飴玉を取り出した。雪花君は受け取るのを一瞬拒否するも、中学生の彼に押し切られてしまう。



『あ、イチゴ味が嫌いだったら返してくれていいよ。僕のお気に入りの味だから気に入ってくれると個人的に嬉しいのだけれど』


『あ、大丈夫……です』



 弱弱しく、涙を拭きながらそう答える雪花君。



(そういえば)



 彼が自分から話す姿を、今初めて見たかもしれない。彼が喋るのは先生に何かを尋ねられた時だけで、大抵の会話をはいといいえで終わらせてしまう。



『お兄さんでよければいろいろお話聞くよ?』


 そしてお兄さんはいとも容易く彼のパーソナルスペースへと入り込んでいく。もしあのようなことが自分にできていたら、どれだけ良かったのだろう。



『で、でも……』


『大丈夫。だって僕と君は無関係の他人でしょ? それなら、別に躊躇うことはないさ。どうしても嫌ならいいけど、そうやって下を向いている間はきっと何も変わらない……と、お兄さんは思うけどなぁ』



 無関係だからこそ切り込める時もある。きっとお兄さんはそう言っているのだ。歳が近いこともあり、カウンセリングの先生よりも相談しやすい印象だ。



『えっと、その』


『うん』


『お姉ちゃ……姉と喧嘩しちゃって』



(……あれ?)



 私はてっきりクラスでの現状を話すのだと思っていた。しかし彼の口から飛び出してきたのは予想外な身内の問題。というか、雪花君に姉がいたことに私は地味に驚く。



『姉は中学生なんですけど、ずっと一緒にお風呂に入ろうとしてくるんです。そろそろ弟離れしてほしいと思ってお風呂に入るのを拒否したんですけど、そしたら口を利いてくれなくなって』


『な、なるほど』


『しかも、隙あらば部屋に入り込んで漫画やゲームを持ち出したりしてきて……この前なんて、頑張ってクリアしたポ〇モンのセーブデータを消されて……』



(あ、あれぇ???)



 なんというか、予想外の方向に話が飛躍していった。私はもちろんの事、中学生のお兄さんも困惑している様子だ。というか、この年でまだ一緒にお風呂って……



『それって、君のランドセルがボロボロなことと関係あったりする?』



 少し時間が過ぎた頃、どう切り出していいのかわからなかったらしいお兄さんはずっと疑問に思っていたのだろうことを口にした。というか、最初に目に着いたのはランドセルだったのだろう。



『ああ、これは、クラスの人にやられました』


『ムムム、そっちの方が深刻そうな気配がするのだけれど』


『別にいいんです。あんな人たちに何されようと、ボクには家族さえいれば十分なので。それに、ボクにヘイトが向けられることで、姉に向けられる悪意が今のところ存在しないと部下た……知り合いに聞いたので』



 嘘だ。



 なんとなくだが私には彼の言葉に嘘が混ざっていると確信できた。彼の表情や言葉に、どこか違和感があったのだ。そしてそれは、目の前のお兄さんも一緒だったらしい。


 お兄さんは立つのをやめ雪花君の隣のブランコに静かに腰を下ろした。



『まあ、君は自分の信念を通しているんだ。それには敬意を表するよ。けれど』


『けれど?』



嘘をついちゃダメだよ』



 お兄さんの口から出たのはそんな言葉。雪花君はお兄さんの方を見て目を丸くし、お兄さんはまっすぐ夕日を眺めている。



『だって、家族のことをそんなに辛そうな声で喋る人はいないよ。家族とか姉とか以前に、君には悩みがあるんだろ? だったら、まずはそれを解決しないと。そうしなきゃ君のお姉ちゃんのことも手がつかなくなるよ?』


『で、でも……』



 雪花君は戸惑っていた。まあ、あのクラスの問題をどう解決すればいいのかという話だ。少なくとも今の雪花君や隠れて話を盗み聞いている私ではどうにもできない。



『それじゃ、こういうのはどうかな。優先順位を作るんだ』


『優先順位?』



 そしてお兄さんは雪花君へまるでメッセージのようなアドバイスを始める。



『君の中で守るべきもののラインを決めるんだ。そしてそれを守るためなら、どんな手段を使ってでも守る。それくらいの心意気は欲しいものだね』


『ま、守るって……』


『僕には兄弟姉妹がいないからわからないけど、本当に大切な人がいるならその人の前でくらい胸を張ってたいじゃん。だから、それを実現させるために必要なものを補っていくんだ』


『補っていく……』


『例えば友達を作るとかね。もしかしたら案外近くに、君のことを案じている人がいるかもしれないよ』



(!?!?)



 気づかれた? そう思ったが彼がこちらへ視線を向けてくる気配はない。もしかしたら偶然だったのかもしれないが、少し怖いのでもう少しだけ木の陰に隠れることにする。



『ま、友達じゃなくてもいいよ。純粋に君が力をつければいいんだ。勉強でも、スポーツでも何でもいい。自信を持てる何かを、一つだけ持っていればいいさ。そしてそれをとっかかりに、自分に不足しているものを補っていく。それが、人間というものだよ?』


『……』


『それができれば、君のお姉ちゃんとももう少し対等な場所でお話ができるようになるんじゃないかな。まあ話を聞いてる限り、君のお姉ちゃんは君のことが大好きなんだろうけどね』



 彼は黙り込んでお兄さんの話を聞き入っていた。そしてそれは、私も同じだ。



(私に足りないもの。それって……なんだろう?)



 そしてそのまま時間が過ぎていく。気が付けば雪花君は泣くのをやめて真剣に考えこんでいた。もらった飴玉は舐めずに強く握りしめている。



 だがそうしていると、お兄さんが慌てたようにブランコから飛び降りる。



『ってヤバい……桜との約束を忘れてたぁ! ごめんだけど、僕はここらへんで行くよ。あとは頑張ってね!!』


『え』


なら大丈夫だ!』



 そう言って、彼は猛スピードで走りどこかへと消えていった。まるで嵐のような人だったが、最後の言葉はどういう意味だったのだろう。



(私も、変われるのかな?)



 それは分からない。だが私たちにとってこの公園の夕焼けの景色は、一生胸に焼き付くものとなったのだった。










——あとがき——

次で七瀬の過去回ラスト!

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