第50話 七瀬ナツメ①


 私はもともとイギリスで暮らしており、イギリス人の父と日本人の母を両親に持つハーフだ。父はイギリスの陸軍、母は衣装コーディネーター。


 母は向こうで暮らしていたころ常に英語で喋っており、日本を関連付けるものは特に身の回りになかった。それこそ日本語なんて一度も聞いたことがなく、英語もだいぶ上達していた時期だ。


 ほとんど不自由のない暮らしの中、一つだけストレスが溜まることがあった。それは、父と母が頻繁にケンカすることだ。


 お互いに暴力に訴えることはなかったのだが、顔を合わせればほとんど愚痴の言い合いで一日が終わる。少なくとも子供の前で話すようなことじゃないようなことだって平気で叫ぶし、家の中は常に父が愛飲する酒とたばこの臭いが充満している。


 言い合いが激しいときは祖父母の家に避難したり、万が一食事を忘れられたときのため食料を確保するためのお小遣いを多めに貰っていた。すんなりとお金をくれていた当たり、今にして思えば我が家はそこそこのお金持ちだったのだと思う。



 そんな私に転機が訪れたのは六歳の頃。父と母の離婚がきっかけだ。さすがに馬が合わなかったのだろう、裁判なども行われず離婚の手続きはすんなりと終了し、私と母はすぐに日本へと行くことになった。


 父はアルコール依存症だったり、タバコがやめられない喫煙中毒者だったので、誰が私を引き取るかはすんなりと決まったようだ。祖父母は悲しんでいたが、当時の私にはどうすることもできなかった。母も、父方の祖父母には申し訳なさそうにしていた。



『ごめんねナツメ。今まで心配させて』



 その時、私は初めて母が日本語を発したのを聞いた。最初に聞いた日本語はまるで宇宙人が喋る言語だと錯覚してしまい、少しだけ日本に行くのが怖くなった。



 そして私は日本という未知の土地に降り立った。私の年齢は、本来小学校に入学する年齢だったのだが、さすがに日本語が全く喋れない外国人をそのまま小学校に行かせるわけにはいかなかった。


 日本での定住先が決まって数日後、私が不便を感じないために母による猛特訓が始まった。最初は日本語でのあいさつ、次に箸の使い方。そして信号での渡り方やお店でのマナーなどなど、多くのことを叩きこまれた。


 もちろん挫折しそうにもなった。だがその甲斐あって一年後には最低限の日本語が話せるほどには日本語を上達させることができた。しかし、それとは裏腹にトラブルが発生する。


 本来なら二年生から他の生徒と合流する予定だったのだが、なかなか転校先の学校が見つからなかった。母は仕事をしていなかったのでお金は大丈夫なのかと心配することもあった。だがそのたびに母は笑って



『お金の心配なら大丈夫よ。実家からの支援もあるし、昔稼いだお金がいっぱい残ってるから』



 そんなこともあって、私は母と一緒に日本の小学校で習うことを自主的に学習することになった。いろいろと不思議に思うことはあったが、当時の私にはその辺の事情がよくわからなかった。そしてさらに一年ほどが過ぎ去り、何とか三年生で転校先の学校が定まった。


 ようやく行ける学校が決まったので、私も母もそろって安堵する。不安はあったものの、やはり学校という場所が私には楽しみで仕方なかったのだ。私が喜んで舞い上がっていると、母は落ち着いた目で私に諭した。



『いいナツメ? 学校に行く前に教えておくわ。あなたは他の人とは少し違うの』


『?』


『髪は綺麗な金色だし、目の色だって薄いけど他の人とは違う。けどね、それを引け目に思うことはないわ。日本語だってこの二年で上達したし、箸だって使えるようになった。今では納豆を抵抗なく食べられ……というか、食べすぎだけどね』



 少し脱線してしまったが、母は私に力強く伝える。



『せっかくの小学校、全力で楽しんできなさい。あなたは頭も悪くないし、何より可愛い!きっと素敵なお友達が見つかるわ。青春というものは意外とあっという間なの。つまり、全力でナツメの本気を見せつけてきなさいってこと!』


『ウン、ワカッタ!』



 今にして思えば母は昔から教育熱心な人だったが、所々の細かい部分が適当でガサツだった。どうして日本語があやふやな女の子に少年漫画や青年漫画ばかりを勧めてきたのだろう。勉強にはなったものの、そのおかげで知識が偏ってしまった。挙句の果てに、本人がそれに気づくのに中学校までかかることとなった。



 そしてついに新たな四月、七瀬ナツメは日本の小学校に足を踏み入れた。

 

 桜が舞い散り綺麗な青空が自分を照らしているようで、時々吹く風が心地よい。そんな恵まれた登校の直後に向かったのは、新しい学校の職員室だ。よくわからないのだが、転校初日は職員室に行くルールがあるのだとか。


 だが私は自分でも長所ととらえられるくらいにフットワークが軽かった。だから弾み足で廊下を歩き、リズミカルに職員室のドアをノックした。そして職員室の扉を開けた瞬間に、一人の若い先生が駆け寄ってきてくれる。



『お、キミが七瀬ナツメちゃんかな?』


『ハ、ハイ! ハジメマシテ、オヤカタサマ!』


『御屋形様って、色々間違えてるよ!? 僕新人だし、今日から君の担任になる先生だからね、先生。えっと、アイアムティーチャー。オーケー?』


『ハイ、オヤブン!』


『……僕まだ二十代なのに、そんなに貫禄があるのかなぁ?』



 幸いハーフということが幸いしたのか、先生たちに怒られることはなかった。それどころか、新人教師と私のやり取りに、どこかほっこりしている先生が大多数だった。


 ちなみにその時のやり取りを親に報告され、案の定家に帰って母にブチギレられることになるのだが、やはりそれはちょっと理不尽だと思う。どうして母は日本語教育の教材に少年漫画や青年漫画をわざわざ選んだのだろう。まぁ、間違いなく本人の趣味なのだろうが。



 そして鐘が鳴るまで職員室まで待機し、そこからは教室まで先生と一緒に行くことになった。どうやら私のことをあらかじめ紹介してくれるらしい。



『じゃ、七瀬さん。僕が先に入って君を呼ぶから、その時になったら入ってきて自己紹介してね。あ、キミが入ってくるのと同時に僕が黒板に君の名前を書くけど、気にしないでね』


『ハイ!』


『おっ、返事がいいね。じゃあ、僕が先に行くよ』



 そうして、先生は教室に入りすぐにドアを閉めた。一瞬だけ教室の喧騒が聞こえたが、そんなことも気にならないくらい私の心臓はバクバクしていた。そして永遠にも感じる時間が過ぎ、とうとうその時がやってくる。



『それじゃ七瀬さん、入ってきて!』


『ハ、ハイ!』



 そして私は勇気を振り絞って教室のドアを開け、大きく一歩を踏み出す。その一歩は今までで一番の重さを伴ったことだろう。



 私が教室に入るのと同時に、教室にわずかに漂っていた喧騒が一瞬で静まった。そして三十人近くの同年代の子が自分の事を見つめてくる。特に注目が集まったのは、やはり私の髪の毛だっただろう。



『それじゃ七瀬さん、自己紹介を』


『ハ、ハイ。ナナセナツメ、デス。ヨロシク……オネゲェシマス!』



 今思い返せば黒歴史確定の挨拶。というかお風呂に浸かっているときに思い出して溺れそうになったことがあるくらいだ。


 だが、その時の口調が当時の子供たちにはウケたのだろう。みんなでクスクスと静かに笑い出し、それが徐々に拍手へと変わっていく。その時ばかりは、さすがに顔を赤めてしまったものだ。



『よろしくねナツメちゃん!』


『綺麗だなその髪』


『もしかして英語話せるの?』



 朝の挨拶が終わるころには、たぶんクラス一の人気者になっていたと思う。いろいろな人の名前を頑張って覚え、たくさんの握手を交わした。だからこそ私はこのクラスが世界で一番優しい場所だと、そう思ってしまったのだ。



(……あれ?)



 クラスの端っこ、窓に面する席で一人寂しく本を読んでいる男の子を見つけた。男の子なのにサラサラの髪の毛は肩まで届いているし、肌も綺麗で真っ白。下手をしたら、自分より綺麗な肌をしていたかもしれない。


 だが



(どうして、机にいっぱいお絵かきしてあるんだろう?)



 正確には文字だったのだが、当時の私にはまだ漢字交じりの文字が読めなかった。それに、先生に見えない位置でたくさん書かれている。一番違和感を覚えたのは、綺麗な服を着ているのに使っているであろう筆箱や靴袋がボロボロだったことだ。



(あとでお話してみよう)



 それが私、七瀬ナツメと雪花翡翠の邂逅だった。

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