幕間 橘彼方②
―これは、橘彼方の破滅へ繫がる序章―
最近までは猛暑が続いたのに、ここ数日ですっかり秋を感じる冷たい風が吹き始めていた。しかし、そんな環境の変化を気にせず中学校の屋上で訓練に励む二人がいた。
「ここは、解の公式を使ってそれぞれ対応する数字を代入すれば……ほら、簡単に解ける」
「なるほど。でも、これを習うのってもう少し先なんじゃ……」
「ふっ、こんなの僕は小学生の時に極めたわ!」
「本当に、彼方は規格外ですぅ……」
二人がやっているのは中学三年生の問題集だ。というより、受験対策の参考書と言った方がいいだろう。
なぜこんなものを解いているかというと、桜の学力不足を彼方が危惧したからだ。この学校の授業はそこまで難しくないが、それでも進行はそこそこ早い。ならいっそ中学校教育のゴール地点である高校受験の範囲まで、この半年で桜に教え込んでしまおうという彼方のアイデアだ。
ちなみにこの参考書は小学校の頃に彼方が使用していたもので、普通の中学一年生が手を付けてもチンプンカンプンで終わってしまう内容だ。だが彼方はどのページを引いても瞬時に答えを導き出せるほどにはこの参考書を使い込んでいる。
「あの、アンペアの計算とかフレミングの法則とか……あと、なんですかこのイオン式って。今私たちが理科の授業でやってるのは植物の観察とかですよね!?」
「大丈夫。僕は物理基礎とか化学基礎にも手を伸ばしてるから」
「何の自慢ですかそれ!?」
そんなこんなで地味にマウントをとっていく彼方。最初は桜の肉体づくりに重点を置いていたが、最近は学力の向上を図るため勉強が中心になっている。もちろん彼女に勉強を教える彼方も、日々新しいことを学習中だ。
「Ich möchte Erdbeerfrappuccino trinken」
「なんですそれ? 三年生で習う英語か何かですか?」
「ううん、ドイツ語」
「本当にどこに向かってるんですかあなたは!?」
「ちなみにいちごフラペチーノが飲みたいって意味」
「いや、そんなこと言われても」
ドイツ語をマスターしたら、次はフランス語を勉強する予定だ。言語は覚えて損しないし、現地に行って観光名所を巡ってみたいと彼方は思っている。来年の夏休みになったら世界旅行に出かけているかもしれない。
そんなことを思いながらも特に代わり映えのしなかったある日。彼方は遠くを見つめていた。
「うーん」
「? どうしたんです彼方?」
いつもは悩む素振りなど見せない彼方が腕を組んで考え込んでいるのを見て桜は戸惑う。彼方が考え込むことなどほとんどない。彼は常に正解の選択肢を即決し、誰よりも早く判断する力を持っているのだ。
「いや、ちょっと気になってることがあってね」
「気になること、ですか?」
「この学校のこと」
私立一ノ瀬中学校は小中一貫校で、彼方のように本当に優秀な生徒でないと中学校には入学できないようになっている。小学校から一ノ瀬に通っていた桜はエスカレーター式の進級制度でかなり楽だったが、中学校験した人は苦しい思いをしたことだろう。だがそれでも教育のレベルが高いことで有名で、それに相当する多くの金が動いているらしい。
だが、ふと彼方は口に溢す。
「全体的に見て、生徒のレベル低くない?」
これは彼方が卓越して頭がいいというわけではない。クラスメイト達を見ていても、小学校で習ったことが身についていない人が数名ほどいた。なんなら授業中は堂々と眠っているし、テストで一桁の点数を出す生徒がざらにいる。自分のクラスでさえ、半分以上の生徒が勉強についてこれているのか怪しい。これなら下手な公立校の方がよっぽどマシな環境だ。
「それは、さすがに言いすぎじゃ?」
「僕がこの学校に入ったのは近所という理由もあるけど、すごく頭がいい人たちがいっぱいいるって聞いたからなんだよね。でも、さすがにおかしくない?」
「うーん……」
桜はピンと来ていない様子。だが、外部には名門中学校と宣伝されているのだ。期待して入学してきた彼方にとって、この落差には驚かされた。
(もしかして……嘘をついている?)
だが市の資料に目を通しても、予算の流れにおかしなところは見つからなかった。一応中学校の偏差値的なものも出ているが、この学校にはあまりにも似つかわしくない数値。まるで……
(先生たちが、この学校の学力を偽造している?)
そう思うと、少しだけ腑に落ちる点がある。この学校の進路先を見たのだが、あまりにもばらつきがひどかった。誰でも入れるようなボーダーライン不設置の高校に進学したり、中にはそのままフリーターの道を歩むものも。
近くにある同系列の進学校、一ノ瀬高校への入学者なんて年に一人か二人いるか程度だった。おそらく、純粋な学力試験で落ちているのだと思う。
この考えを桜に話した彼方だが、さすがに現実味がなかったのか苦笑いで返される。
「教師が成績を偽造って、そんなことして何の意味があるんです?」
「それは調べてみないことには何とも言えないけど……」
「それに、そんな漫画みたいな展開があるわけないじゃないですか」
そんなことを言われればそれまでだが、彼方は自分の推論が外れている気がしなかった。直感、というやつだろうか。
彼方が迷っていると、自身の祖母の言葉が脳裏をよぎる。
『自分の直感を、決して切り捨ててはいけないよ。自分がおかしいと思ったってことは、必ずどこかに綻びがある。それを、探して見なさい』
(……)
彼方が直感のみで動くことは少ないが、それでもおかしいと思ったことはとことん追求するようにしている。そして実際、今回のことについて周りの環境がおかしいと思った。
ならば、桜には黙って調べてみるべきだろう。
「まあ、そうだね。桜はとりあえず忘れていいよ」
「はあ……それならいいんですが」
桜はまだ成長途中だ。これから僕がやろうとしていることに巻き込むべきではないだろうと判断する。
そして、その日から彼方は行動を開始した。
※
「ははは……」
誰もいない昼の屋上で、彼方は空を見上げながらひとり苦笑いをする。
覚悟を決めて一週間、あっという間だったがそれでも善悪の判断ができるくらいにはこの学校のことを知れた。
結論から言おう。この学校、かなりヤバい。
保護者からお金をもらって特定生徒の通知表における成績を偽造したり、明らかに違法な労働内容を職員に黙って押し付けている。これでは下手なブラック企業を上回っているだろう。
そしてまだ確定していないが、教育委員会の役員も関わっている可能性が浮上していた。これだけの不祥事を抱えた学校に、教育委員会が介入していない方がおかしい。
(桜のイジメも、教育委員会まで通っていなかったのかも)
桜のイジメはこの学校に大きな影響を及ぼしたが、それ以前におかしな点が多すぎた。
まず、誰一人として教育委員会への報告をしていなかったことだ。
小学校時代、桜のクラスの中にも正義感に溢れた人がいたかもしれないし、見て見ぬふりをできなかった教員がいたかもしれない。だが、それでも桜はイジメられ続けた。
この事件が話題に上がり問題視されたのは、どこからかイジメの件が周辺住民に漏れ、あっという間に拡散してしまったからだ。
つまり、学校や教育委員会の協力者に不祥事をもみ消されていた?
「だとしたら、桜は……」
あんなに苦しむ必要はなかったのかもしれない。感情を失いかけ、敬語でしか喋ることができなくなった桜。あのまま状況が何も変わらなかったら、彼女は自殺していてもおかしくない状態だった。
(……なおさら力を入れて調べてみないと)
僕は一週間の間に色々なことをやった。学校のイントラネット内にあるパソコンに遠隔操作アプリが入ったUSBメモリを挿入して履歴を調べたり、職員室の清掃をする生徒と交代し時間が許す限り勝手に室内を物色。多くの証拠がすでに出揃っているが、それをどう生かすかは僕次第だ。それに、もう少しだけ根拠のある情報が欲しい。
(証拠が出揃ったら、直接校長に聞き出さないと)
この学校の校長とは一度も喋ったことはないが、何かしら事情を知っているはずだ。それに向こうだって下手に情報を知ってしまった生徒を放置したりはしないだろう。だが、もちろんリスクが大きいことにも注意しなければいけない。
(桜には……やっぱり協力してもらおうかな)
最初は一人でやろうと思っていたが、やはり人手が欲しくなった。それに、大人の闇を桜に教えるいい機会かもしれない。
今の桜はまだ心の傷が完治していない不安定な状態だ。そこに悪い大人が言葉巧みに付け込んだら、桜はどんな目に遭うかわからない。だからこそ、今回の出来事は桜にとっては実力を試す絶好のタイミングであり、なぜ自分が余計に苦しむ羽目になったのかを知れる機会になるだろう。できれば、僕も協力するので乗り越えてほしい。
「よし……」
僕が桜を守る覚悟を決めると同時に、屋上に桜が現れた。手には二冊ほどの参考書を持っており、僕と勉強する気だったのが目に見て取れる。
「ああ彼方、私より先にいたんですね。それで、今回は公民を……」
「えっと桜、少し予定を変更するよ?」
「……?」
これからの予定を少し考える。話し合うにしても学校の中ではどこに人の目や耳があるかわからない。ひとまず放課後話し合うとして、場所は考えた方がいいだろう。こういう時、二人して帰宅部だということが役に立つ。
「そうだな、お茶でもしに行こうか」
「……お茶?」
「まあ、デート(みたいな作戦会議)だよ」
「……ふぇ?」
そして、僕たちは大人の闇に触れる。
——あとがき——
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