極夜

流水

極夜

 一、悔恨


 一歩、一歩、踏み出す足は鉛のように重い。俯いた目線の先には終わることのないトンネルのような暗く長い影が、通り過ぎていく車のヘッドライトに合わせて激しく動く。雨上がりのジメジメとした空気が身を蝕む。


 今まで逃げてきた、目をそらしてしまった罰なのだろうか。そんなことを考えながら、未だに現実逃避しかできない自分に嫌気がさす。

 大通りに出てみるも、タクシーを捕まえるための手を上げることすらおっくうで。体を反転させて先ほど歩いた道を戻り、目的地である病院を目指す。重い足取りが、自分はあそこに行きたくないと思っていることを知らせる。

 今から帰宅すれば、あの暖かい家庭が待っているのではないか、笑顔で妻が出迎えてくれるのではないか。泡う願望を抱くも、そんなことはあり得ないと携帯電話の通知履歴に教えられる。








 妻が飛び降りた。

 その連絡が、いつか来てしまうことをわかっていたはずなのに。妻の精神は限界で、誰かが支えてやらなければいけないとわかっていたのに。その役目は自分なのだとわかっていたのに。俺は今も逃げ続けている。

 


 ただの一般家庭だった我が家が壊れていくきっかけは間違いなく、一週間前のあの日だろう。妻のあの、すべてを決心したような顔は忘れられない。瞼に焼き付いて離れない。




「私、妊娠、してた」


 一単語ずつ、かみしめるようにされた報告は、世間一般では大変喜ばしいものだったのかもしれない。祝われるべきものだったのだろう。

 しかし、この家庭でこの言葉は違う意味をはらんでいた。


「………誰の子だ?」


 俺が無精子だというのはお互い分かっていたことだった。

 俺は激昂することはなかった。できなかった。呆然としていたというのが正しいのかもしれない。ただただ血の気が引いていくのがわかった。体が冷えていき、脳も回らなくなっていくのが鮮明に伝わる。

 問いへの返答はなく、妻は少し俯くだけだった。よく見ると、膝に置いた手はぎゅっと握りしめており、話すという決意が見て取れる。

 そして、徐々に震える口を開き始めた。


 上司に犯されたこと。嫌われてしまう、捨てられてしまうかもという不安から話せなかったこと。子供には罪はないから産んでやりたいが、愛せるのかわからないといった不安まで。ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返しながら。

 突然の辞職すると伝えられた時、もっと話を聞いていれば。何も察してやれなかった悔しさと、一人で背負わせてしまった後悔と、唇をかみしめながら話を聞いた。眠れない、長い、長い夜だった。


 俺自身問題を軽視していたわけではない。家庭にとってものすごく重要で、目をそらせない話だと分かっていた。しかし、妻のあの決心したような表情から、妻の中ではひと段落していることなのだろうと決めつけてしまったのが良くなかった。

 年末に向けて忙しくなっていく仕事で、妻のことをないがしろにしてしまったことは否定できない。どうして最近帰りが遅いのか、やっぱりあの件で私の事を嫌いになったのかと、ヒステリック気味に泣き叫ぶ妻を、面倒くさいと思ってしまった。




 「ああ、やっぱり一番悪いの俺だわ」


 自嘲気味にこぼした言葉は闇に消えていった。


 


 


「おや、四月一日さんじゃないですか。どうしたんですか、暗い顔して」


 声をかけられ、重く曲がってしまっていた首を持ち上げると、そこには妻と上司の件を担当してくれている刑事さんが車の窓から顔をのぞかせていた。初老を少し超えたあたりだろう、優しそうに目を細める笑顔には心を落ち着かせる何かがあった。

 署に被害届を出そうと訪れたときがかなり忙しい時だったらしく、異例の対応ではあるが、一課の警部であるこの方が話を聞いてくれたのだ。事件を思い出してしまったのか、おびえたように動けなくなってしまった妻に代わり俺が話したのだが、真剣な顔でよく聞いてくれる、いい人なのだ。


 だからこそ現状を話すのは申し訳ないと思いながらも、すべてぶっちゃけられるのはこの人しかいないとも思った。


「ふむ、話が長くなりそうかな? ドライブしながら話そうか」

「お願いします」


 これで少しでもすっきりできたのなら、そんな思いで車に乗り込む。刑事さんは少しうれしそうに口の端を持ち上げ、俺の顔を一瞥する。水たまりの水を弾き、車は滑るように闇夜へと潜っていった。

 

 自分自身、言葉として発することで何か整理しようとしているのか、支離滅裂で時系列もぐちゃぐちゃで、それでも頷きながらしっかりと耳を傾けてくれる刑事さんのおかげで、現状のすべてを話し終える。

 ここ一、二週間で目まぐるしく変わっていった環境で混ざり合ってしまっていた感情が整理されたようで、途中からは涙が止まらなかった。

 気付いた時にはすでに瞼は閉じかかっており、そのまま身をゆだねるように意識を奥底へと沈ませる。



「つらいことばかりだったろう。ゆっくり休むといいよ。私が君を、この地獄から救い上げてやろう」







 二、煉獄



「さっさと起きろ!このカスが!!」


 冷水を浴びせられたかのようにハッと目が覚める。耳を裂くような甲高い奇声にびくっと体を震わせる。あまりの明るさに目を細め、目を見開くと目の前には全裸に長い赤髪の瘦身の男が立っていた。目はぎらついており、口はニヤリと口角を上げている。目が合うと体が委縮してしまいそうになる。


「お、目が覚めたか。危なかったな、あと少しで冷水ぶちまけるとこだったぜ!ヒヒヒヒ。………ん、でもこの水どうしようか。もういいやかけちゃえ」


 水の入った金属製のバケツは俺の頭に当たり、大きな音を出して転がる。全身から滴る水滴、寒さのあまり震えだす体。突然そんなことをする男を糾弾するのは何らおかしいことではない。しかし、叫ぼうとしても声は出ず、それどころか身動き一つとれなかった。

 目に入ったのは体につけられた拘束具、そしてその体は椅子に縛り付けられていた。映画やそういう系のビデオでしか見たお目にかかることのないような代物に、心臓がバクバクと音を立てる。


「実は最近溜まっててさ、ちょ~っと荒っぽくなるかもしれないけど、安心してね?殺しはしないからさ!それは俺のポリシーに反する」


 七色に敷き詰められたタイルの上を、はだしでペタペタと鳴らしながらこちらに向かってくる。これから彼に何をされるのか、何がしたいのか、まったくわからない。わからない恐怖に飲み込まれていきそうになる中、彼はその一つに答えを示した。


「今までつらかったんだよね。あいつが楽しそうに話すもんだから、キミの近況は一応知ってるんだけどさ。で、自分が悪かったんだと思ってるんだよね。

 うん、素晴らしい!自分で自分の悪行に気づけるなんて本当にすごいことなんだよ!!……だから、そんな君に贖罪の機会をあげようと思ってね」


 少しずつ二人の距離が縮まっていき、目の前で立ち止まる。スッと彼は左手を伸ばし俺の顎をつかむと、そのまま俺の顔を天に向ける。天井まで七色のこの空間に狂気を感じた俺と反対に、彼はまだ意気揚々と話し続ける。


「これは昔にヨーロッパで行われていた贖罪をアレンジしたものでね。だから信頼してもらっていい。あっちのは鞭打ちらしいんだけど、ボクは鞭の扱いが下手でね」


 彼の顔が心底楽しそうに、顔をゆがめる。それはまるで地獄に導く悪魔のようで、ここから先に救いはないのだと、そういっているような気がした。

 


 彼の手が、まるで獲物を見つけた鷹のように視界に飛び込んでいく。顔を動かすことなどできなかった。反射的に閉じた瞼の上から、指が差し込まれていく。右眼と骨との間に指をぐりぐりと押し込まれる。あまりの痛みに悶えるが、つけられた拘束具が逃亡を許さない。よけることも、反撃することもできず、ただただなすがままになる。俺の口からは声にならない獣のようなうめき声が漏れる。


「ん~、瞼の上からじゃちょっときついな」


 一瞬眼球から彼の手が離れ、ほっと息をついたのもつかの間だった。口元を歪ませたかと思うと、視界が突然ブラックアウトする。

近くで音がした。頭の中から音がした。ぐちゅぐちゅと頭の中がかき回されていると錯覚するほどの痛みが脳を駆け巡る。体の内側からぐちゅぐちゅ、ぐちゅぐちゅと。彼の甲高い笑い声が室内に響き渡る。俺のもだえる声が耳に届かないのか、腹を抱えるほどの笑い声をあげる。目を守ろうと必死に閉じる瞼も、既に指の侵入を受けてしまっては意味もなく。プチっと視神経が切れたような音とともに右眼は、もう俺の体の一部ではなくなっていた。

 空気に触れるたび痛みを増す右目は、熱く、熱した鉄球を代わりに入れられたのかと思うほど、脳が焼け溶けていくかに思われた。


「どんどん行こう!」


 反射的に左眼を閉じる。両目を奪われてしまえばもう何も見えなくなり、彼の行動への対策すらできない。そう思い、必死に左の瞼に力を籠める。ここを抜かれてはもう先の見えない闇だ。一生抜け出せないのだと。

 ほんの一秒ほど、静寂の時間が訪れた。固く結ばれた左眼にどうしようかと思案しているのか、まだほかに何かあるのか。不安に思ったのもつかの間、痛みは頭皮に現れた。髪の毛が引っ張られ、操り人形のように胴がぴんと伸びる。痛いなんて言葉では片づけられなかった。椅子が少し宙に浮くほど引っ張られ、ついに耐え切れなくなったのか、ブチブチと耳元で音が鳴る。

 痛みに耐えきれずに目を見開くと、目の前には彼が待ってましたとばかりに手を伸ばしてきた。その時の彼の凶悪な、それでいて愉しんでいることが伝わてくる笑顔は、頭から離れることはないのだろう。


 ブチっという音とともに、俺の意識も途切れた気がした。脳がこれ以上の痛みは受け付けないと、そう言っているような気がした。





   *






 心臓が飛び上がるほどの衝撃で目が覚める。肌を冷たい水が流れているのがわかった。ぴちゃぴちゃと髪から腿へと水が滴り落ちていく。

 ああ、また水をぶっかけられたか。

 何も見えなくなってからどれぐらい経ったのかわからない。痛みにより気を失い、冷水で目が覚める毎日。いや、もしかしたらまだ一日もたっていないのかもしれない。

 目には義眼が入れられたようで、異物感が否めない。だが、なぜか治療も施されたようで、目から感じる痛みはもうほとんどない。感染症で死ぬことを避けるためだろうかと思うが、近くで未だ楽しそうに笑う彼からは何も教えられない。


 食事は時々彼から与えられた。

 

 最初は自分の眼だった。


 


 彼は俺の体から切り取ったものを、食事として差し出してきた。とてつもなく不味かった。体が拒否反応を起こしているのがはっきりとわかる。はじめは絶対に食べないと耐えていたが、体が限界を迎えるのは早く、だんだん自分の体を食べることに抵抗がなくなっていくのが怖い。


 おそらく今日は、前に削ぎ落とした鼻か、耳か。


 そんなことを考えていると、削がれているときのことを思い出して狂いそうになる。直前に感じる鉄のひんやりとした、冷たさに怯える。ボタボタと垂れる血に、自分が何をされているのかを教えられる。


 鼻骨が邪魔で切れなかったのか、しばらく宙づりになった鼻は次の瞬間、骨ごと抜かれた。叫ぶこともできず、脳の神経が焼き切れたようで、口から途切れ途切れに獣のような声が漏れ出るだけだった。

 

 耳を切られるのだと気づいたときは、すこし嬉しかった。これでもう彼の狂気に満ちた声を、笑い声を、自分の口から出るうめき声を聞かずに済むと。どれだけ痛くても、これで少し楽になると思えば耐えられた。

 耳をそがれても頭の中に響く彼の声に絶望を覚えずにはいられなかった。


 傷口にはすぐさま熱い何かを押し付けられた。出血で死なせないためなのか、それすら俺には苦痛だった。早く意識が彼方へ飛んでくれるようにと何度も願った。

 眼も耳も鼻も失った。次は、今日は何をされるとされるのだろうとふと考える。冷静にこんなことを考えられるのはこの時だけだ。ジリジリと焼けるような痛みはあるが、彼に何もされていないこの時だけが、唯一の安らぎとなっていた。


 愛する妻も、やりがいのあった仕事も、同僚も友人も全て忘れ去っていく。現実を受け入れることが出来ず、向き合うことも出来ず、逃げて逃げて。俺は痛みに身を任せた。



 ペタペタと裸足がタイルを踏む音が聞こえてくる。愉悦にふける顔が目に浮かぶようだ。見えなくてもわかるほどには目に焼き付いてしまったあの顔に冷汗が出る。楽しくて楽しくて仕方がないんだといわんばかりの声が耳に刺さる。


「今日は~何をしようかな~?何が良い?何が良い!?」


 疑問形であっても俺は答えることはできないし、何もしないという選択肢がない以上俺には何もできない。あきらめたように脱力して待つ俺に彼は、未だじりじりと焼けるような痛みのある耳に息を吹きかける。

 歯を食いしばって痛みに耐える俺を見て、より一層甲高い声を上げて喜ぶ。反応をしてはだめだと思っても、どこに痛みが走るのかわからない状況では心の準備もできず、思わず体を震わせる。


 暗闇の中、時折走る激痛。どこに来るかわからない不規則な痛みに気が狂いそうになる。息を荒げて次の痛みを待ち構える。痛みが止み、終わったかと気を抜いた瞬間に現れる痛み。金属バットのような金属の棒に体が叩かれる。目は見えなくとも、目の前で火花が散るような錯覚を抱く。

 

「今日は贖罪の本番だぜ?ゆっくりと自分の罪を見つめていくんだな!」


 肘置きに固定されている腕に、血が通っているのかわからないほどひんやりとした彼の手が添えられる。ねっとりと纏わりつく指に背筋が凍る。

 コンと指に金属の冷たさを感じる。


 バキ


 指に冷たいものが添えられ、第一関節からあらぬ方向に曲げられる。あまりに一瞬のことで叫び声をあげることもできず、体をくの字に曲げて痛みを耐える。猿轡からは荒い息が漏れ出る。


「チッ深爪ってどうやってめくるんだよ…!!」


 彼は細かい作業を嫌ったのか、やけくそで次々と俺の指をあり得ない方向に曲げていく。止まらない痛みに体をこわばらせる。凶行は止まることはなく、波は次から次へと大きくなる。脂汗が滝のように流れていく。

 視覚による情報を絶たれているからか、指に添えられる冷たさに恐怖を感じる。徐々に力が籠められ、曲がるはずのない方向に曲がっていく。骨が限界を迎えてミシミシと響く。10回の波に耐え、息も絶え絶えになる。呼吸を整えようとする俺をあざ笑うかのように、足にまでひんやりとした金属が押し付けられる。止まらない波に脳が悲鳴を上げる。

 笑い声が、うめき声が、頭の中に響き渡る。時折響く骨の折れる音がするようで、意識が飛びそうになる度に、現実に引き戻される。


 また10回音が鳴り終えるころには、呼吸もままならなくなっていた。時折口元からかすれた息遣いが不規則に聞こえてくる。


 


「おいおい、死にかけみたいな息すんじゃね~よ❤次でいったん休ませてあげるからさ!あ~頑張ったやつに休みを上げる俺、マジ良いやつ!そう思うよね?」



 次で終わり、耐えればもう何もない、解放される。

人間というものは、出口が見えると急にやる気が出てくるものだ。なんでも耐えてやる。そんな思いが彼の頭に浮かぶ。


 そしてそれは、一瞬で、泡のように弾ける。



 焼ける。


 熱い、痛い。下腹部から湧き上がる熱に叫び声ですらない、遠吠えのような声が溢れ出す。尿道が熱い、熱いなんてもんじゃない。焦がすような熱源に身を悶えさせる。


「失禁とか血を吹き出したりすると面倒なんでね。まあ今までしてこなかったのは本当にすごいよ!僕も初めて見たよ。僕もついつい忘れていてね、ごめんね」


 棒状のものが尿道から引き出されていく。身をよじるが、捩れば捩るほど今までの傷口が開くようで痛みは増すばかり。脳が焼き切れるようだった。

 気を失いたい、切実な願いは届くことはなく。


 彼は一つ一つの動作に間をおいていた。少しでも痛みに慣れ、息を落ち着かせると次の動作に入る。しかし今の彼は、ご褒美を待ちきれない子供のように、餌を目の前に放り出された腹ペコの獣のようだった。休む間はなく、何かの金属がぶつかりカチャカチャと音が鳴る。


「さ、メインディッシュだぜェ!!」



 キュルキュルとねじが巻かれる音が聞こえる。抵抗することを許されない体はこわばるばかり。いつどこ来るのかと身構える体。汗が体を伝い、涙があふれる。

 先ほどの、最後だという言葉を信じる。今までさんざんに弄んできたやつの言うことを信じることのどれほど愚かなことか。それでも縋り付くことしかできない。


  ペキッ


 

 破裂音のような何かが鳴る。猛烈な嘔吐感がこみ上げてきた。少ない胃の内容物と酸っぱい胃液が上がってくる。口から溢れ出そうとしたとき、脳の処理が追いついたように突然痛みが脳を貫く。

 吐き出すものはなくなっても止まらない嘔吐感に身を震わせる。


「まだ一個目だよ?そんな調子じゃダメだよ!頑張ろう!」


 励ますように声をかけられるが耳には届かない。

 再度キュルキュルとねじの音が鳴る。絶え間なく襲い掛かる痛みと吐き気。全身の毛穴から何かが溢れ出す。次の痛みに備えることもできず、細い糸のようにつながれた意識が、もうだめだと叫ぶ。

 

  ペキッ


 

 鳴り響いた音は、俺の魂を握りつぶしたようだった。終わることのない嘔吐感。涙も汗も止まらず、耳にはうめき声と笑い声が混ざり合っていて。この世のものとは思えない痛みに、意識の糸はぷつりと途切れた。


 

 あまりの衝撃に意識が覚醒する。


「寝てる人には何しても贖罪にならないからね、起きてないと。逃げることは絶対にしちゃいけない、これは君が受けるべき、受け止めるべきものだ」


 諭すような言葉とは裏腹に、楽しそうに話す彼は耳元で、チャキチャキと音を鳴らす。見えなくとも鋏だとわかるその音に身を震わせる。いつかに指を切ろうとしていたそれは、切れ味が良いわけではないため身をえぐるような痛みを受けていた。

 あの日の痛みを思い出し、荒くなる息。


 鋏の音が遠ざかったかと思うと、性器に何かが当たる。それだけでもさきほどの睾丸の痛みを思い出し、再び吐き気が襲う。

 

 自分の出血により、ベトベトと生暖かい鋏が肉に食い込んでいく。表面の薄皮は切れても肉を引き裂くことのないその凶器に血が止まり、感覚が失われていく。感覚は失われていくはずなのに、増していく痛み。喉を通る空気は声になることはなく、ただただかすれた息が漏れだす。


 ボトっと落ちる音とともに体から血の気が引く。体が冷えていく。

痛みが遠ざかる。ああ、やっと終わった。何か達成感に似た何かを感じ、そのまま俺は、意識を手放した。







 三、地獄


 目が覚める。いや、目はないのだからこの言葉はおかしいかもな。

そんなことを考えられる位には余裕があった。痛みは全く消えないし、依然視界は暗闇だが、終わったという解放感は何にも変え難い。


自然に意識が醒めたのは、ここに来てから初めてだと思う。

そして、ここに来て初めて俺は、あの男と俺以外の声を聞いた。


「起きたね、四月一日さん」


優しげに響くその声に俺は安心感を覚えた。あの男では無い、つまりは終わったのだと実感させてくれた。

 

「突然で申し訳ないんだけど、君の奥さんの事なんだ。本当に幸運にも一命を取り留めたそうだ」


その言葉にはっとさせられる。今の今まで、妻のことを忘れていたのだ。死んでしまっていてもおかしくない状況だったのだ。にも関わらず俺は自分のことしか考えず、解放されるなんて喜んでいたのだ。

しかし、その後ろに続いた言葉は、俺の心を締め付けた。


「でもまあ、ついでだし?君の奥さんも贖罪してもらおうかと思ってさ!夫婦のことなのに、片方しかしないのはおかしいよね」


まて、妻は関係ないだろう。彼女はただの被害者だ、何も、される筋合いはないだろう。


俺の言葉は届かない。


「君のは終わったみたいだけど、二人一緒に出たいだろうし、そこで見ててね」


ガチャりと扉が開く音がして、人が増える。

耳を引き裂くようなあの高い声が再び聞こえる。


「おっさん!この女もヤッていいんだよな!今すぐやっていいか!」

「早く終わらせてあげてね」


そう言い終わるが早いか、部屋にはうめき声と、殴打の音が響き渡る。金属音が響く。


俺にすればいいだろう!悪いのは俺だ。妻は違うだろう!


声を出そうと必死になるが、誰も俺には耳を貸さない。

彼女が何をされているのかは、見えない。もしかしたら、音だけで、おれを脅かそうとしているだけでは。別人では。そんな淡い考えが脳を巡る。


肉がぶつかり合う音が響く。時折くぐもった声が耳に届いた。何をされているのか、考えたくもなかった。

こんな状況に、助けに迎えない自分が嫌になった。


「なんで彼女が、そんな顔してるね」


優しい声が右から聞こえた。自分の思いを代弁したかのようなその声に頷こうとする。もうやめてやってくれ。そう伝えたい。しかしもう体力は残っていなかった。彼は続けた。


「彼女はね、不倫をしていたんだよ。上司と、知らなかった?それをネタに、また別の人とも関係を持った。襲われた?違う、合意だったんだよ」


動こう、助けに行こうと拘束具を解こう動いていた体が硬直する。知らなかった、1ミリも知らなかった事を突然告げられ、頭が動かない。


それは、そんなことは無い。今突然そんな事言われても、なにも信じる気にはなれない。俺たちにこんなことをするやつの言うことなんぞ信じることは出来ない。


一瞬よぎってしまった事は、どれだけ信じられなくても、心のどこかに引っかかってとれなかった。

助けなくては、その思いが薄れたのは事実だった。


「もう諦めな?彼女が終わったら、また君の番さ。僕も新しいおもちゃを持ってくるのが大変でね。そろそろ目をつけられてもおかしくない。つまり、あと1、2年は、君たち2人であの狂気の矛先になってもらうよ」


俺の顔は俯いたまま、顔を上げることは出来なかった。


この夜に終わりはないのかと、もう朝は来ないのかと。




それから、どれくらい経ったか。

投げられた大きな物体が、俺に当たる。衝撃で椅子ごと倒れ込み、下敷きになる。

冷たい、人の形を何とか保っているそれはなんなのか。


大切に思っていた人はもういない。目の前にあるはずの死に顔も拝めずに逝ってしまった。

真実が何かは分からない。誰を信じていいかも分からない。だから、だけどせめて、あの世では二人で一緒に過ごしたいなんて願望を抱いてしまう。











四、朝日


桜舞うこの季節、期待に胸を膨らませているであろう新入生たちが続々と門をくぐってやってくる。大学の1回生といえば、受験から解放され、新たに一人暮らしを始める者もいるだろう。大きく変化した環境への期待感が表情に映し出されている。

 さあ、そんな若人たちを前に俺がやることは一つ。


「大学と言ったらやっぱテニサーっしょ! 君入らない? ゆる~くやってるからさ、友達と軽く見に来るだけでも!」


 ひときわ大きく声を張っているが、なかなか集まらない。一人でも多く集めようと各サークルが成果を上げていくなか、俺はいまだ成果ゼロなのだ。相手の心底嫌そうな顔を見ると、やはりテニサーへの固定観念が強いのかもしれない。

 テニサー=チャラい、そんな方程式は誰が作ったのか。すべてのテニサーがそういうわけでは決してないが、俺のように金髪ピアスなど、絵にかいたようなチャラい見た目をしていると、「やっぱり」とでも言いたげな顔をされるのだ。なにがやっぱりだよ!こちとら大学デビューだよ!



 

夢をかなえるため、二度と童帝とよばせないために、俺は屈しない!!!





   





「「「「かんぱーーーい!!!!」」」」


 必死に駆けずり回り、何とか例年同様の人数を集めて開催にこぎつけた新歓は、あっちもこっちも話が盛り上がっているのが見える。やはりアルコールが入ると話が弾みやすいようだ。

 しかし! アイツらはわかってねえな…女の子は俺たちの自慢なんて聞きたくないんだよ。むしろこっちが聞き役になって楽しんでもらわないといけないのさ!




……………どうやって話しかけるの?


 数分間座席をうろちょろしているが、話しかけ方がわからないのだ。皆楽しそうに話してて会話には入れそうもなく、1人でいる人には睨まれ、すごすごと退散してきたのだ。


「うぇっへっへ、四月一日どした? さっきから気持ち悪い動きしてるけど。後輩ちゃんから、あの先輩怖いって言われてんで?」

「気持ち悪い!?」


 30分ほどしかたっていないにも関わらず既に泥酔気味の同期、かえで 夏樹に肩をつつかれて振り返る。関西出身なのもあってかノリが軽く、俺が唯一話せる女友達だ。酒類にはめっぽう強いやつなので、こういう酔い方は初めて見るのだが、うぇっへっへって何だよ。


「んで、お持つ帰りの女の子に目つけてきたん? めちゃめちゃ張り切ってたけど」

「い、いや~、今期の新入生はガードが固くて」

「さっき穂積が、入れ食い状態や~って言ってたけど?」

「イケメン許すまじ。夏樹はいいよな、彼氏持ち」


 痛いところを突いてくる夏樹の楽しそうな、へらへらした顔が俺の言葉で急に覚めたように一瞬真顔になる。俺は突然の変化に戸惑うも、またへらっとした顔に戻ったのを見て不思議に思う。


「今日のわたしの、前と違うとこ言ってみ? ………嫌な顔しすぎやろ」

「その質問は世界で一番嫌われる奴だぞ」


 どっちの服が良いと思う?と並ぶ、絶対聞かれたくないこと不動の1位の質問に言葉を窮する。しかし、俺は恋人ができた時に備えてこの手の質問には定型文があることを知っている!!


「1cm髪切ったよな、似合ってるぜ」

「切ってないし、そんなん気付くのあんたに期待せんわ」

「・・・ネイル綺麗だぜ、春っぽくて」

「つけてないんやけど」

「足とか?」

「見てたらキモイわ」


 答えるたびに、徐々におれのHPが削られてる気がするのだが。もう一度夏樹を頭のてっぺんからつま先までじっくり「ほんまにきもいで」見ませんとも。

 しかしもう何も思いうかばないのが現状、今までの備えが瓦解したことを知って、俺は悔しそうに答えを求めた。


「彼氏にな、フラれた…」

「お、おう。それはドンマイ。…いや目に見える奴にしろよ! 誰もわからんわ!

まあ、そんなこともあるさ。この新歓でいい男見つけて見返そうぜ」

「そう思って気合い入れてきたんよ「確かに化粧濃い」骨格変えよか?」


 こっちまで気分を落とさないように、努めて明るく軽口を返す。何とか励まそうと脳に言葉を巡らすが、どうしたらいいか見当もつかない。しかし夏樹のなかではひと段落している話なのか、明るい口調で返事が返ってくる。


「せっかく気合い入れたのにさ、なんで新入生全員女の子なん!? 勧誘担当誰?」

「ははは、とんだ災難だな。ははは」

「あんたのせいや、反省しい」

「すまんて…ご、合コン組んでやるから、な?」


 ふと浮かんだ提案に、夏樹の顔色がみるみるよくなる。もう背景に光源5,6個ありそうなくらいの表情の輝きっぷりに若干引きながら、目を背けるようにジョッキを傾ける。しかし困ったことに俺は幹事どころか、合コンに行ったことさえない。誰かに頼ろうと見渡すと、入れ食いだなんだとほざいたイケメンが目に留まる。

 来い来いと手招きすると、新入生に手を振りながらこっちに来る。イケメン許すまじ。


「どうしたんだ?」

「合コン組みたいから何人か人集めてくれないかなぁと」

「このあほが女の子しか勧誘せんかったからな」


 咎めるような目を向ける夏樹を無視して穂積の答えを待つ。急なお願いにも驚くことなく、誰が良いかな~なんて言っていた穂積だったが、ふと何か思いついたようなそぶりを見せると、急ににやけ出した。


「ん、OK。男女両方俺が声かけとくよ。店も任せて」

「イケメンを連れてきてね」「美人をよろしくな、穂積」

「…はは、了解」


「四月一日、これがモテ男や」

「俺だってモテてたわ! 下駄箱にラブレターいっぱいあったわ」

「付き合わんかったん?」

「…呼び出された校舎裏には誰もいなかったよ。今思えば、幽霊だったのかもね。幽霊にまでモテる自分が恐ろしいな!」


 無言で日本酒が注がれる。グイっと一気に飲んだ俺の記憶はそこで途絶えている。





   





 合コンを終え、ネオンに照らされながらとぼとぼと歩く二人に少し寒い風が吹きつける。春とはいえ、夜の寒さはまだ健在であるようだ。会話のない二人だったが、空気に耐えられなくなったか、夏樹が口を開く。


「なあ、イケメンいっぱいやったな」

「ああ、美人ばかりだった」

「「性格良し、話し上手、顔良くて」」

「そりゃ恋人いるわ…」


 先ほど終わりを迎えた合コンに、二次会なるものは存在しなかった。そりゃ恋人いる人が二次会まで参加するわけもないのだが。それよりも二人を苦しめたのは合コンでの会話だった。

 合コンと銘打った今回の飲みで行われたのは、延々と続く恋人の愚痴大会だったのだ。参加者の6/8が恋人持ちなのだから仕方ないのだが、これを合コンと呼んでいいのかさえわからない。


「俺ずっと苦笑いだったわ」

「…ねえ、バー行かない? 行きつけあるんやけど」

「…行こう、今はアルコールが欲しい」


 酔いたい。なぜなのかはうまく言葉にできないが、とにかく酔いたい。その一心で二人は少し路地に入り、戸を開く。こじんまりとしたその店は、外見からじゃわからないほど内装はしっかりとしたものであった。店主は渋いおじいさんとばかり思っていた俺は、20歳台であろうバーテンダーに驚きながら店に入る。


「すいません、スクリュードライバーを」

「最初にそれか? 度数高いのに」「ジョッキで」

「アタマぶっ飛んでんな!?」


 無言でうなずくバーテンに唖然とするが、ジョッキでステアしている様子は少しシュールで、俺も楽しんでいたのも事実だろう。

 酔いたいと思ってバーにきたのだが、俺は少し思い直してカシスオレンジを頼む。

 横で楽しそうにアルコールに吞まれていく夏樹を横目に、バーテンと会話する。年齢が近いからか、人柄なのか、話しやすくてついつい多く飲んでしまいそうになる。しかし楽しむ程度で止めておかなくてはならない。








ぐでーーーーーん




隣で死体ができることくらい、誰でもわかることだ。


「頼んだ分は全部残さず飲んでるのはさすがだわ」


 呆れながら言葉をこぼすが、これからが大変だぞと自分の体に鞭を打つ。夏樹の自宅は知っているが、電車を使うため駅まで行かなくてはならない。この店から駅というのが思いのほか遠いのだ。タクシーを使うべきか少し考えをめぐらせる。


「すいません、最寄り駅って北方向ですよね?」

「? ホテルならこの道を少し行って、左ですよ?」

「ホテルはいきませんよ!」

「休憩、したほうがいいのでは?」

「にっこにこで何言ってんすか。その手の動きをやめてください」




 楽しそうに笑うバーテンに見送られて店を出る。都会の夜独特の明るさは結構好きなのだが、満天の星は何物にも代えがたいなと故郷に思い出しながら夜道を歩く。背負っている生き物が、夜風が身に染みたのか、もぞもぞと動く。


「起きた?」「わたにゅき? ん、起きた」


 寝ぼけまなこで答える夏樹は俺の肩に作ったシミを見つけ、ハンカチでばれる前にとコソコソと染み抜きをしようとする。少し子供っぽいそのしぐさに頬が緩む。


「…直進するか、左折するか、どっちがいい?」


 答えをゆだねてしまう俺は甘すぎるのかもしれない。穂積あたりならもっとスマートに連れて行くのだろう。しかし、相手の意思を聞かないということはできない。


 すっと左を指し示す夏樹は、顔を赤くして俺の背に顔をうずめた。




    *




 寒さに身を震わせて目が覚める。布団を独占し、ぬくぬくと幸せそうに眠る夏樹には怒る気も失せてしまうものだ。



  彼女できたか?w


 性格が良いのは表面だけなのかもしれないイケメンからのメッセージ。いつもなら文句の一つでも言ってやるが、今はそんな気分にもなれない。

 筋肉痛に顔をゆがめながら窓辺に行き、カーテンを開ける。朝日を見つめながら四角い箱から一本取り出して咥える。ちょっとこの構図かっこよくない?



「春はあけぼのだなぁ」


「ココアシガレットやとかっこつかんなぁ」


 文学部らしく平安に思いをはせていると、いつの間にか隣に来て、呆れたように苦笑いを浮かべながら口を開く彼女は、誰より愛おしく、手放したくない人になっていた。


「おはよう」

「ん、おはよ」



 こんな朝を、いつまでも迎えることが出来たなら。それはどれだけ幸せなことだろう。

そのためなら俺は、どんな事でもできる気がする。




 







「昨夜未明、◯◯県の山間部に建造物が発見されました。警察による捜索の結果、中から男女合わせて20名を超える遺体が発見されたとのことです。

遺体の損傷が激しいため、DNAなどを用いて身元確認が進めていくそうです。

また、近くでは逃亡中の指名手配犯の身柄が昨日確保されており、関連について捜査中とのことです」





彼はスクランブル交差点のモニターに映ったニュースを見て、愉しそうに顔を歪めていた。

「いい暇つぶしになったかな?」






 

 

 


 

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極夜 流水 @OwL4869

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