取捨選択

「社会を生きる上で重要な事が五つある。」


そう彼は言った。


一つは最低限のマナーを守る事。

一つは想像力を持つ事。

一つは視野を広くする事。

一つは心に最低限余裕を残しておく事。

一つは自暴自棄という選択を選ばない事。


それを聞いた時、私は彼に対して尊敬と憧れを抱いた。その日から彼は私にとって生涯の友であり、師であり……そして、私の超えるべき目標になったのだ。

さて私はアラサーと呼ばれる年齢になっているが、未だに結婚はおろか恋人もいない。それでも私は焦りを感じていないし、特に困った事も起きてはいない。

それはひとえに、彼のおかげだと思っている。私の上を目指す意志は未だに衰えておらず、むしろ年々強くなっているくらいである。

彼と出会ってから、私はずっと彼に追いつく為に努力を続けて来た。だが、まだ足りないと感じている。


「先輩!!」


私に声を掛けてきたのは、昨年入社した後輩の男性社員だった。私が教育係として指導していた子で、今は営業部のエースとして活躍していた。


「どうしたの?」


笑顔を浮かべながら返事をする。すると後輩君は少しだけ恥ずかしそうな表情をしながら、手に持ったチケットを差し出してきた。

そこには有名な水族館の名前が書かれていた。日付は今週末となっている。


「(ああ成程、そういうことか……)」


察してしまった。恐らくこれはデートのお誘いなのだろう。

後輩君の事は嫌いではない。寧ろ好ましく思っている。だけど残念なことに恋愛感情を抱く事は無かった。

後輩君が悪い訳ではない。きっとこの子は良い人だと思う。でも私は仕事を優先したいと考えている。だから申し訳ないが断ろうと思ったのだが……

ふと彼の言葉を思い出した。“最低限のマナーを守る事”……か。そうだね。うん。せっかく誘ってくれたんだし、無下に断るのは良くないよね。

たまには息抜きするのも良いかもしれない。

私は笑顔を浮かべると、チケットを受け取った。

今週末、待ち合わせ場所に到着すると、既に後輩君は待っていた。彼は私の姿を見つけると嬉しそうに手を振りながら近づいて来た。

そのまま二人で電車に乗り込む。目的地に着くまでの間は他愛もない会話を楽しんだ。

到着してから建物に入るまでの間に、後輩君は色々な話題を提供してくれた。それに相槌を打ちつつ、私は楽しげに笑う。そんな感じで時間が過ぎていった。

館内に入ると、まず最初に目に入ったのは大きな水槽だった。その中にはナポレオンフィッシュと呼ばれる魚が入っている。

そのままゆっくりと歩いて行くと、次に目に映ったのはミズクラゲだった。ライトアップされた空間の中に浮かぶその姿はとても幻想的に見える。

その後も様々な種類の生き物を見て回った。どれも皆とても綺麗で可愛らしくて見ていて飽きる事が無かった。

後輩君は終始笑顔を絶やすことなく話しかけてきてくれる。罪悪感が無いと言えば嘘になるが、楽しいと思う気持ちも確かにあった。

そして日が落ちる頃に私達は水族館を出た。最後まで後輩君は私をエスコートしてくれた。こういう気遣いが出来る所は素直に凄いと思う。

それでもやはり、それ以上何かを感じることは無かったけど……

何事も無く私達は帰路についた。最寄り駅まで歩く道すがら、後輩君は今日の感想を聞いてきた。

とても良かったよと答えてあげると、彼は照れた様に笑みを浮かべる。

それからすぐに駅に到着した。改札を通り抜け、ホームへの階段へと向かう。

振り返るつもりは無かった。カツカツとヒールが駅の床を叩く音が響く。

まだまだ長い人生だもの。私以外に相応しい女性が現れる筈よね。

何処か虚しい気分になりながらも、自分に言い聞かせる様にして足を動かし続ける。

生きるという事は、選ぶ事と選ばない事の連続なのだ。きっとこれからも恋愛と仕事なら仕事を優先させるだろう。

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