最終幕 桜舞うあの場所で

「ほら、一緒に描こうよ。横で見ているより楽しいよ」


 雪斗は隣にいる奏にそう告げて筆を渡そうとしたが、彼女はそれを受け取らなかった。


「……わたしはいいよ。視えていてもわたしには触れられないよ……」


「何を言っているの、ほら!」


 雪斗は奏の手に触れた。彼女の冷たい手に驚きつつも、一緒に筆をはしらせた。


「あっ……」


「ほら! 触れられるだろ? 一緒に描こうよ」


「……うん!」




 もうあなたはいない。それはわかってる。


 桜の花びらを連れた穏やかな風が吹き、キャンバスと向き合う雪斗の背中を、耳を、頰を撫でながらすり抜けた。


 雪斗は筆を置くと静かに振り返り――小さく息を吐いた。今も付けている耳飾りが鳴ったと思ったのだが、ただ風で揺れただけだったのだ。


 もう聲も気配もしないのにな……。


 人は一人では生きられない。だから他者を求めて捜してしまう。だから、今を生きている人たちを大切にしようと、愛そうとする。死者を求めてはいけない。


 わかってる……それもわかってるけど……。


 捜そうとしてしまう自分の足を見下ろした雪斗は、歯を食いしばりながらその場で踏み留まった。すると、


「やっぱりここにいたか、捜す必要もなかったね」


 薄汚れた給水タンク、立ち並ぶ室外機、舞い散る桜吹雪、学校としては彩られた屋上に足を踏み入れた紡は、手摺の手前でキャンバスと向き合っている雪斗に声をかけたのだが、振り返った彼は彼女を一瞥してまたキャンバスに戻ってしまった。がっかりされたような気がした紡は、苛立ちを連れて彼の横へ向かい手摺に身体を預けた。 


「完成した? その絵」


「……ああ、ようやくね」


 返事は素っ気ない。 


 その態度は、旧校舎事件で紡が雪斗へぶつけたものと似ていた。意図した皮肉なのか紡にはわからなかったが、無視して頷くと旧校舎を見た。


 事件から四ヶ月が経ち、ついに旧朧小学校が解体される日を迎えた。今日がその初日だが、紡が見ている範囲にあるのは重機だけで、何故か作業員の姿は見当たらない。


「……いよいよね。うまくいくかな?」


「……いくんじゃないか? あれから何も起きていないし、怪談も聞かない」


「そうだよね……奏が言っていたし、心配はいらないか。肺は平気なの?」


 本題に入ろう。紡は雪斗を見た。


「奏は……一人で逝った。もう痛みはないよ」


「そう……。運命ってのはつくづく無駄がないのね。もしも、奏が七年前にあんたを殺していても一緒にはなれなかったし、まつろわぬものが封印されることもなかった。そして……私たちが助かることもなかった」 


 とはいえ、何か一つでも欠けていたら、タイミングが悪かったら、事件が起きなかったら、まつろわぬものが来なかったら、今の自分たちは会えなかった。奏も地球が終わるまで彷徨っていたかもしれない、高校もまつろわぬものの巣窟にされてしまったかもしれない。


「まだ引きずってんでしょ? 四ヶ月……まぁ、立ち直るのに四ヶ月が遅過ぎるか早過ぎるかわかんないけどさ……」


 大きく息を吐いた紡は、手摺から離れると雪斗と目を合わせた。


「……私たちからすれば、あんたと奏は命の恩人なの。溶かされた人たちや、うずまさにとっても、朧小学校にとっても……ね。それと……奏のことなんだけど、いい?」 


 訊いた紡だが、返事を待たずに話を続けた。


「氷海奏があれだけハッキリと存在し、自分を維持出来ていたのがずっと不思議だったの。だって幽霊っていうのは、現世に留まったりしたら他の霊体に取り込まれるか、自我をなくして生者に対する憎しみに支配されるか怨霊になるか、それしかないの。それなのに、奏はどれにも当てはまらない……それはどうしてか? 雪斗もわかってるでしょ?」


「……勾玉だろ?」


「正解。あの勾玉が護っていたから奏は悪い念を弾くし、寂しさや怒りを感じても怨霊化の兆しを見せただけで、自我を持っていた……」


 顔の爪痕を見た時に、紡はそれだけですんだ雪斗の運の良さに驚いたが、後で勾玉を触った時に気付いたのだ。


「それなら――悲しむあんたを見て、もしかしたらってわたしも思っていた……」


 紡は目を伏せた。


「〝もし〟があるなら……あんたの前に、現れるかもって思った……!」


 それに対して首を横に振る雪斗。


「もう聞こえない……耳飾りがあっても、聲も気配すらもしないんだ……」


「そう……。一人で逝ったんでしょ? 約束を破ってでも……! だったら、今の自分を見て……奏が可哀想って思わないの?」


 あの日からずっと、雪斗は虚無感を思わせる表情や態度が続き、それが皆の気がかりで安心出来なかった。今の雪斗は〝空蝉〟と言う言葉が当てはまる。


 そして、もしが消えた今、紡は言わずにはいられなかった。


「これは、私の想像……違うなら聞かなくていい」


 紡は自分の手を白くなるほど強く握った。 


「奏は――あんたのことが好きだから、残したんじゃないの? 勾玉があっても、死者と生者は一緒にいたら駄目だと思って……あんたに生きてほしくて。それなのにあんたは……!」




「雪……わたし、ずっと雪斗と一緒にいたい……」


「だけど一緒にはいられない……。雪斗は……わたしと一緒にいてくれる?」


「一つだけ……約束してくれる?」


 


「わたしと一緒に死んで」


 それが幼い頃の約束。


「紡が言うように……奏は言ったよ。生きてって……この約束も忘れていいって……忘れてくださいって……大好きって……」


「……だったら――」


「だけど……もう一つ、俺からの約束があるんだ。一緒に絵を描こうって……約束したんだよ。だから、もしがあるならって……今日まで……」


 震える口と手がゆっくりと動かなくなり、雪斗は溜め息ではない息を小さく吐いた。


「未練ばかりってことはわかってる……。それでも、もしを信じたかった……信じたかったんだよ……」


 雪斗はそう言うと、力なく天を仰ぎ、その先は言わなかった。


 紡は少しだけ俯き、残された側がするべきこと――そうすることしか出来ないことを呟いた。


「あんたが天寿を全うした時、胸を張って会えるような生き方をしてよ……」


 言いたいことはそれだけ。もう何も言わずに踵を返す。戻る途中、振り返って雪斗を見たが、彼はキャンバスの前に佇んだままだった。


 紡も五月にはまた転校する。もう後は雪斗の気力次第だと背中を向け――。


「ああ! 二人共、ここにいたのか」


 勢いよくドアが開き、新一が小走りで姿を現した。


「先生、どうしたんですか?」


「作業の人と学校側に無理言って、三十分だけ作業を止めてもらったんだ。みんなで旧校舎に行こう」


 綺麗なジャケット姿の新一は、妙に似合う花束を抱えていた。


「綺麗な花……先生が用意を?」


「そう。ストックって花だよ。助けてくれた……彼女への花だ。もう一つの花は亡くなった人たちへ手向ける花だよ」


「奏にですか……?」


「ああ。助けてもらったのに……俺は氷海さんにお礼を言えてないしさ。みんな下で待っているから、二人とも行こう」


「わかりました、雪斗も行くでしょ?」


「……ああ、行く」


 新一の横に行く紡。


「先生も変わりましたね……。いつもだらしなかったのに」


「あ〜……そうだね、あの事件で思うこともあったから。色々とね」


「ふふ、今の方が素敵ですよ……。ほら、雪斗も行くよ」


 それに頷いた雪斗はそっと絵に触れてから、二人と合流し、下で待つ三人のもとへ向かった。


「よかった。来てくれたんですね」


 雪斗の姿を見て胸を撫で下ろす志乃。


「ほら、もう二十五分しかないよ。行こう」


 新一に促され、彼を先頭に五人は旧校舎へ向かった。


 今までは荒れ果てていた桜並木。奏の母が愛し、小沢が手入れをしていた桜の木は今年になって満開となった。


 舞い散る桜を見上げながら、鳴は言った。


「今年は……咲いたんだね」


 それを円香が繋ぐ。


「六年間咲かなかったらしいな。本来の光景に戻った……紡、そう言っていいのか?」


「多分ね。そうだと私は思ってるよ」


「ねえ……まつろわぬものについては教えてもらったけど、氷海奏ってどんな女の子なの?」


「あ……」


 思わず呟いた志乃だが、雪斗は小さく笑った。


「氷海奏は……我侭で、嫉妬深くで寂しがり屋、家族想いで優しい子だよ」


 紡はそれを聞いて頷いた。確かに我侭そうには見えた。だけど、それは雪斗に対してだけだろう。好きな人に甘えたい気持ちはわかる。


 クスクスと笑う紡を見て、円香も雪斗に尋ねた。


「ジュリー、彼女はどんな容姿なんだ? わたしと鳴、先生も知らないままでいるのは恩人に対して失礼な気がする」 


 志乃の影響で雪斗をジュリーと呼ぶようになった円香に内心驚きつつ、新一は同意見だとして頷いた。


「えっと……髪は黒くて長い。目は切れ長、肌は色白で大人っぽい女の子だよ。見た目は……紡に似てるかな」


 そういえば……奏にも同じことを言ったな……最後以外は。


 桜並木を抜け、六人は重機たちに見送られながら昇降口に向かい――花が供えられていることに気付いた。


 駆け寄る新一。


「……ゼラニウム? 誰が置いたんだ?」


 新一は五人を見渡すが、誰も頷かない。


 雪斗も首を傾げた。花を旧校舎に手向ける人が想像出来ないからだ。


「まぁいいよ、時間ないんだから行くよ」


 紡に促されて全員は中庭に向かった。積もっていた雪はとっくに過去になったが、荒れ果てたままの中庭に変化はなく――雪斗は前を歩く円香と鳴の間をすり抜けて走った。崩れたうずまさの犬小屋に花が供えられていたからだ。


 誰が……?


 犬小屋に供えられた花は――ヒャクニチソウ。


 慰めに始まり、亡き友を偲ぶ、だ。ここで何が起きたのかを知っている人しかこんな花は選ばない。


 今度は雪斗がみんなを見たが、誰も頷かない。新一が持っているのはストックだけだ。


 俺たち以外で事件を知っているのは――。


 手に取ったヒャクニチソウを犬小屋に戻した雪斗は実習棟へ向かった。


 新しくした携帯電話のライトを頼りに、何もない廊下を走った。事件の時と同じように家庭科室、音楽室を巡り、図工室の前に辿り着いた。


 息を弾ませたまま、引き戸に手を伸ばし――躊躇った。


 あの時、奏はここにいた。


 どうして……奏がここにいると思う? あの花を供えたのが奏だと、どうして思う?


 雪斗はかぶりをふって、大きく息を吐いた。


 どうして。その答えは簡単だ。


 まだ――それを望んでいるからだ。


 それは、一人で逝った彼女に対する裏切りだ。


 もう奏はいない、だから――。


 引き戸を開けた。光の中を埃が舞い、蛻の殻となった図工室が姿を現した。置き去りにされていたキャンバスやイーゼルなどの画材道具は全て回収され、奏の絵も無くなっていた。


「雪斗?」 


 振り向くと――紡が立っていた。何か言いたげに口を開いたが、彼女は何も言わなかった。


 夢の終わり。夢はいつか終わる。


 そう悟った雪斗は、震える唇を強く噛み――ようやく引き戸を閉めた。


「ほら、二人とも、後十分しかないから……花を供えて校舎に戻るよ」


 実習棟から出て来た二人に声をかける新一。雪斗は少し俯いているが、皆と一緒に横一文字に並んだ。


 教室棟を背にし、中庭を見渡せる位置、新一が池の手前に花を供え、皆は手を合わせた。


 桜を運ぶ風の音が響く中庭。


 それぞれが手を下げるなか、雪斗は紡が最後まで手を合わせてくれていたことに気付いた。見ると少しだけ目が赤い。


 彼女の優しさに感謝した雪斗は自分の目を拭い、紡だけに聞こえる声で言った。


「みんなを想って泣いてくれたんだ……ありがとう」


 紡は何も言わずに頷いた。


「さあ……戻ろうか」


 新一の言葉に五人は頷き、中庭を去っていく。


 雪斗は最後に立ち止まり、中庭を振り返ると呟いた。


「さようなら、奏」


 立ち止まった五人に気付き、今行くからと告げて足を踏み出し――。

 

 ワン!!


 背後で犬が鳴いた。  


 聞き覚えがある鳴き声。呼び止めるような強い吠え方。


 雪斗は振り返り――。



 氷海奏がそこにいた。


 初めて出会った時のように、黒く長い髪を靡かせて。


「どうして……」


「また……わたしの名前を呼んでくれたね……」


 二人の耳飾りが鳴った。互いの聲が共鳴する耳飾り。


 雪斗は何も言えず、その場に佇むことしか出来なかった。


 すると、奏は雪斗の胸に飛び込んだ。存在を確かめるかのように、強く抱きしめる彼女を雪斗も強く抱きしめた。


 温もりの身体、冷たい躰、互いが確かに存在し合うことを感じ、二人は顔を見合わせた。


 奏の首には勾玉の首飾りがあり、日の光を浴びて輝いている。


「ごめん……奏。約束、忘れちゃったんだ……」


「わたしも……破ってごめんね……」


「……だから、今から別の約束をしよう」


「ううん、もう……約束なんていらないよ」


「いらない?」


「うん。こうして……また出逢えたんだから」


「そっか……そうだよね……」


 確かな奏を抱きしめ、雪斗は声をあげて泣いた。


 今度は堕ちていかない。 


 今度こそ、君の側にいたい。


 君が生きていてくれるだけで、わたしは何よりも幸せだから。 



                      了

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