第拾参幕 挽歌

「奏」


 雪斗は奏の隣に立った。


「雪、みんな行ったよ。雪も急がないと」


「ああ、奏も早く!」


 彼女の手を掴み――その手がすり抜けた。


「えっ……?」


 雪斗は目を疑った。一瞬、奏がテレビのノイズのように消えたのだ。かぶりをふって、もう一度奏の腕を掴んだ。冷たいが――確かに触れることが出来た。


「急ごう……!」


 雪斗は足の痛みなど無視して、トンネルに向かった。


 あと少し、あと数歩で……。 


 それなのに――奏の手が掴めなくなり、足を止めた。


 そんな……。


 振り返った先に奏はいるが、微笑むだけで何も言わない。


「奏……嘘だろ……?」


「……そろそろみたい」


 その言葉を発した奏の表情に悲しみはない。


「そんな……そんなことって……」


 奏はそれには答えず、冷たい手で雪斗の手を握り、そっと自分の頬に当てた。


「雪の手、あの時より大きいけど、あたたかいのは変わらないね」


 自分とは違う温もりがある手。あの時と同じ。頬に当てるだけで安心出来た。


 ずっと一緒、そう信じていた幼い自分。この温もりを奪おうとしていたことを思うと、胸が痛む。


「わたしは――一人で死ぬのが怖かった。生きていた時からそう思っていた……。お母様の死やお父様が悲しむのを見てね……わたしもいつか一人で死ぬ時が来るって思い知らされた。家族四人でずっと一緒にいられると思って……思いたかったの。今思えば人が死ぬのは当たり前なのにね。だけど……わたしはそれを否定したかった。怖くて認められなかった。自分が死んでもその想いは……」


 奏は勾玉を両手で包み、胸に押し当てた。


「誰でもいい……誰かわたしの聲を聞いて……わたしの想い、願いを聞いて。わたしの名前を呼んで……」


 ハッとした雪斗に奏は頷いた。


「その聲に答えてくれたのが……雪斗だよ。わたしの聲に答えてくれて、わたしを意識してくれたから、勾玉の力もあって……わたしになれたの……!」


 涙を流し、雪斗を見つめる奏。


「わたしは――わたしは雪斗にたくさんの思い出をもらった。わたしは雪斗との思い出があれば大丈夫……」


 躰が震える。一人じゃなきゃだめ……。引き止めないで……。


「……一人で逝けるよ? 一人で逝けるから……。雪――雪斗は生きて……」


 止めなくてはいけないのに、涙は止まろうとしない。


 心配させちゃいけない……断ち切らせなきゃいけないのに……。


「生きて……いつもと変わらない生活をして、好い人に出会って……」


 奏の手に触れようとして、すり抜けた。


「もう……触れることも出来ないのか……」


「わたし……幸せだったよ。雪斗と出会えて……ずっと一緒にいたいって思った」


「それは……俺だって、同じだよ。約束したじゃないか……俺たちは、ずっと……」


「だけど……わたしは雪斗を――雪斗の中に生きる人も、雪斗のことも失わせたくない……。……が……だから」


 声が出せない。


 待って……まだ。


「……わせに……きてね。雪斗の……れからに、わたしは必……ないの。だか……だから」


 待って……最後に……。


 奏は涙でぐしゃぐしゃになった顔を、笑顔でいっぱいにして言った。


「雪斗……わたしのこと……約束のこと――わすれてください」


「奏……俺は――」


「生きて――」


 雪斗に触れることが出来た。雪斗との思い出、この想いはわたしだけのもの。



 大好き、沢田雪斗――。



 耳飾りが鳴った――。






 視界がかすみ、気を失いそうになるのを堪え――。


 気付いた時には温水の中にいた。慌てて水面に顔を出した紡が見たのは、朧高校内の室内プールだった。急いでプールから上がろうとした時、近くで円香と志乃が顔を出し、円香の方は急いで鳴をプールサイドへ上げた。


「プールか……水は抜いてあったはずだがな……」


 円香は呟くと、プールから上がり鳴の頬に触れた。息はしている、外傷はない、顔色、脈も良し、後は目を覚ますのを待つだけだ。


「温水は……奏が入れてくれたんだよ、きっと……」


「へぇ……」 


 隣にいた志乃が肩をすくめた。


「……何よ」 


「恩霊はいたでしょ? 柊さん」


 ニヤリとする志乃だが、紡にはその表情がどこか寂しげに見えた。 


「……何よ、私があんたにそうですね、なんて言うと思ってんの?」


 わざと大げさに声をあげて、志乃を温水に沈めた紡は鳴の側に寄り、プールサイドへ上がろうとしたが、やめた。もう少し現世に帰って来たことを、生きていることを温水で実感していたかった。


 温水に身体を預け、巨大な窓ガラスから見える満天の星々を見つめた。


 どれくらい校舎にいたんだろう。浦島太郎のように何十年も、というのは遠慮したい……。


「それにしても……僕たち酷い臭いですね……」


 志乃に言われ、服に鼻を近付けた円香はかぶりをふった。あちらでは気付かなかった――麻痺していたが、改めて嗅いでみると酷い臭いだ。おそらくクリーニングに出しても無駄だろう。家の洗濯機に入れたら家族から大顰蹙を受ける。


 そう思うと気の毒なのは先生だ……。仕返しはしてやったが、生きてはいないだろう……。


「志乃、お前が言っていた怪談が本当だとは思いも――」


 ちらりと鳴を見た時、彼女の身体に微かな動きがあった。それに気付いた紡も反応し、プールから上がって鳴を抱き起こした。


 乱れたジャケットと衣類を正し、頬に触れると、鳴はゆっくりと目を開けた。


「鳴? 私が誰かわかる……?」 


「……紡」


 鳴は小さな声で答えた。目は虚ろで何が起きたのかわかっていないようだが、それでもしっかりと反応している。 


 その姿に紡は鳴の胸に顔をうずめて泣いた。


「どうしたの? それに……どうしてびしょ濡れなの?」


「何でもない……何でもないよ。悪い夢を見ていただけ……目を覚ましてくれただけで……生きていてくれただけで……私は幸せだから……」


 泣きじゃくる紡の横で、立ち上がった円香は鳴の頭にポンと手を置いた。


「円香……?」


「目が覚めてよかった。紡にはもう少し泣かせてやってくれ」


 そう言って円香は周囲を見渡した。十分ほど経ったが、雪斗の姿は見当たらない。一緒に果てたか、それとも不吉なことでもあったのか、答えがわからない円香はかぶりをふった。


「帰って来たのにこれか……どう説明すれば――」


「説明する必要はないよ。雪斗もきっと戻って来るからさ……」


 円香の声が遮られた。驚いた三人が見たのは、たくさんの毛布を抱えた――新一だ。


「先生……!」 


「おっと、幽霊じゃないぞ? ほら」


 新一はその場で一回転してみせた。


 それを見た紡は、鳴に抱きついたまま言った。


「よく……無事でしたね……」


「あ〜、その……よくわからないんだ。水の中に落ちたのは覚えているんだけど……その後はまったく。で、女の子の聲がして、大丈夫、みんな帰るからって言われて……目が覚めたらロッカールームだよ」


 新一は三人に毛布を渡した。


「根拠はないけど……あの聲を信じるよ」


 三人は顔を見合わせた。


「なら、待ちましょうか。一途な二人を――」



 バシャーン!!



 突然プールの中心で巨大な水飛沫が上がり、五人は驚いてプールから離れた。


 いやな予感がして身構えた紡だが、蒸気が消えたプールに現れたその姿を見て――真っ先にプールへ飛び込んだ。


 水の中から必死に顔を出した雪斗は、慌ててプールサイドへ向かい、迎えてくれた紡の力を借りて身体を乗り上げた。息を弾ませながら仰向けになり、空を彩る星々を見て現世に帰って来たこと、肺の痛みが消えていることにも気付いた。


「お帰り」


 それだけを告げた新一は、タオルを雪斗の頭に押し付けた。 


「遅いなぁ……主役は最後にってことですか?」


 志乃の声を聞き、雪斗はようやく円香たちを見た。全員が無事で、欠けた者は一人もいない。だが、その中に奏の姿はない。


 当然と言えば当然だ。彼女は一人で逝く道を選んだ。


 片手で頭を押さえたまま上半身を起こした雪斗は、皆を見て微笑んだ。みっともない姿を見せまいと、気丈に振る舞おうとしたが、紡に勢いよく抱きつかれたことで全てが崩れてしまった。


 皆が無事で戻れたこと、先生たち、うずまさ、残された自分、耳飾りが運んだ奏の最後の聲。全てが重なり、雪斗は泣いた。


「奏……かなでぇ……」


 落とされた時に奏が言った言葉が耳に残り、雪斗は幼い子供のように泣き続けた。


 志乃はその姿を見て俯き。


 円香は新一と一緒に目を閉じた。


 紡は雪斗を抱きしめたまま、何も言わなかった。


                 第拾参幕 完

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