破魔

 深紅の唇に邪悪な笑みを浮かべたまま、濡れた女はゆっくりと雪斗たちに近付いて来た。


サア……イッショニトケマショウ。


 濡れた女は迎え入れるように両手を広げた。嗤い声とは違い、子供をあやす母親のように優しい聲を纏っているが、顔の翳りから微かに覗いた濡れた女の目は、地球に生きる全ての生物に当てはめることが出来ない異形だった。


 雪斗にわかったのは、その瞳が自分をハッキリと見るために瞬きをしたということだ。そして、濡れた女が最初に抱きしめようとしている相手が自分だということも理解した。


 こいつにぶつけるだけでいいのか、奏……!


 首から下がる勾玉を指が真っ白になるほど握り締める雪斗。全ての痛みも、怒りも忘れるほどの恐怖、逃れられない〝死〟が目の前にあるのだ。


 もし、勾玉を躱されたら……。


 雪斗は怯むことしか出来ず、濡れた女はゆっくりだが確実に距離を詰めている。


「……雪斗!」


 すぐ目の前なら……!


 紡の叫びを合図に雪斗は紐を千切り、濡れた女に向かって勾玉を振り上げた――その瞬間、水の中から鞭のようにしなる髪の毛が大量に現れ、四人の身体を宙に磔にした。


 何が起きたのか理解出来ず、雪斗は自分の身体が宙にあるということをすぐには気付けなかった。隣では紡が必死に身体を動かしてもがいているが、四肢を挟み込むようにして伸びた髪はビクともしない。


 四人は完全に捕らえられてしまった。辛うじて勾玉を落とさなかった雪斗だが、結果は変わらない。溶かされる、以上終わり。


 冗談じゃない……!


 自己完結にかぶりをふった雪斗は、心の底から生じる恐怖を隠して濡れた女を睨みつけた。


 その反応を気に入った濡れた女は、雪斗の左足を挟む髪の毛の締め付けを強くした。顔を真っ赤にして苦しむ彼を観賞するように上から下までを舐め回した。


 こいつ……興奮してる……!


 苦しむ雪斗の声に合わせて息遣いが荒くなったことに気付いた紡は、彼が握り締めている勾玉を隠すために声をあげた。


「ちょっと……! そこの醜女! あたしの沢田から……離れなさいよ!!」


 安い挑発だが、濡れた女に煽り耐性はないようだ。視線をあっさりと紡へ向けると、じりじりと近付いて来た。だが、たったそれだけの行為でも、紡は濡れた女から発せられる妖力に圧倒されてしまい、めまいで視界がブレた。それに加え、濡れた女は彼女をチンピラのように凝視すると――その顔を鷲掴み、掌で紡の顔を焼いた。


 肉が焼かれる臭いと、外れそうになるほど開かされた口から吐き出される紡の悲鳴が時計台に響いた。


「やめろ! おい……!! 最初に狙ってたのは俺だろ!? 頼むからやめてくれ!!」


 雪斗からの必死の懇願に対し、濡れた女は優しい笑みを浮かべると、殴るように紡の顔から手を放した。 


 ガクン、と頽れた紡の顔からは煙を揺らす黒い水がドロリと滴り落ちた。だが、彼女は辛うじて生きていた。そのことに安堵した雪斗は、近付いて来た濡れた女を睨みつけた。


「よくも……先生たちを……うずまさを化け物にしてくれたな……」


 それに対して笑みを浮かべた濡れた女は雪斗に向かって手を伸ばし――彼が何かを握っていることに気付いた。それが何か確かめようとした濡れた女だが、足元の水面が吹き飛び――。


 グガァアアァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァアアアーーーー!!!


 時計台を壊しかねない咆哮を発しながら飛び出した化け犬は、雪斗を磔にする髪の毛を喰い千切ると水の中へ溶けていった。


 咄嗟の出来事に雪斗は受け身も何も出来ないまま落とされたが、その瞬間に水面からたくさんの手が伸び――雪斗を衝撃から守った。だが、当人はそれに気付かず、水面を割って現れた化け犬のことばかりに気を取られていた。


 あれは……うずまさ?


 一瞬だけ見えた首輪――汚れていたうえに、一瞬だったため色はわからなかったが、形状はうずまさに買った首輪と似ていたことに気付いた。


 そんな一瞬の気移りを見逃さなかった濡れた女は、雪斗を溶かそうと手を伸ばし――動きを止めた。人間の弱々しい手に、見覚えがある勾玉が握られていたからだ。それは忌まわしい神名の勾玉――それがどうしてここに……! その瞬間、濡れた女は悲鳴をあげて雪斗から離れた。


 それを見た雪斗はゆらりと立ち上がり、濡れた女に向かって踏み出した。


「……これが怖いか! 見覚えがあるよな、大昔に!!」


 雪斗が叫ぶ声には、怒りと嘲りの気持ちが滲み出るほどの意地悪さがあった。怪談、消えた氷海村伝説、うずまさに先生たち、一行を閉じ込め、新一を殺し、紡の顔を焼き、一生分の恐怖を与えたこいつはそれを楽しみ、あまつさえ自分たちを品定めすらした。


 身体中に信じられないほどの怒りが満ち溢れ、濡れた女を睨みつけた雪斗は勾玉を握り締め――濡れた女の背後に立つ奏と目が合った。


 彼女はゆっくりと頷き「大丈夫」と言った。


「俺からの礼だ! 受け取れ! この腐ったバケモノが!!」


 雪斗は叫び、渾身の力で勾玉を投げつけた。


 濡れた女は自分に迫る勾玉を躱すために水に溶けようとした。躱してしまえばなんてことはない。そう考えた時、躰が溶けなかった。驚愕し、足下を見ると――今までに溶かしてきた人間たちの霊が躰にしがみついている。あの犬と同じで、童の干渉によって支配を奪われたと理解するも、遅かった。


 勾玉は凄まじい光を発し、断末魔をあげる濡れた女を包み込むと、一筋の光となって旧校舎全体を駆け抜けた。


 その閃光は黒い水を吹き飛ばし、苦しみ続ける水島、日向、小沢、うずまさ、融かされた人々の躰にまとわりつく黒い水と髪を一掃し、苦しみから解放した。霊たちは光を見上げ、安堵の表情で溶けるように消えていった。


 光は静かにおさまっていき、やがて校舎はもとの静寂さを取り戻した。


 宙に浮いていた勾玉は落ち、奏がそれを受け止めた。


「奏……」


「……もう大丈夫、終わったよ、全部。この勾玉が壊れないかぎり、怪事件は起きない」


 勾玉を四人に振って見せる奏。


 それぞれがホッと胸を撫で下ろし、円香は紡に駆け寄った。


「火傷は……」


「もう……大丈夫みたい……」


 紡の顔はもう煙をあげていないが、黒い水を押し付けられた右目付近は痣として大きく残ってしまった。だが、幸いにも目に異常はなかった。


 そのことにも全員が胸を撫で下ろしたその時、校舎が揺れた。思わず身構えるが、もう咆哮も水の音も聞こえてこない。すると、奏が握り締めていた勾玉が一筋の光を発して大時計の歯車を貫き、光のトンネルを築いた。だが、それと入れ代わるようにして、今までの比じゃないほどに校舎が揺れた。


「そこが現世に通じる道。もうすぐこの空間は崩壊するから……行きな」 


「……それって、親玉倒したら城が崩れるってお約束ですよね?」


「……お約束なの? よくわからないけど維持させていた阿呆が消えたら崩壊するのは至極当然」


 奏と話した? 


 思わず志乃を見た。すると彼は肩をすくめた。


「視えますよ。おそらく写真を見て意識したからでしょうね」


 志乃は隣にいる円香を見た。


「現に円香さんには視えていないようですし」


 意識したから視える? だとしたら……どうして俺には奏が視えたんだろう……。


 長考しかけた思考を校舎の揺れが追い出し、雪斗は現実に戻された。気付くと志乃たちは光のトンネルの側にいて、紡が奏と話している。


「どうして助けてくれたの?」


「約束、だから……」


「私は約束を破ったわ……それでも?」


「……あなたたちは、雪斗が助けようとした人たち。だからわたしも、あなたたちを助ける……。大丈夫、みんな無事に帰れるから」


 雪斗を見つめる奏。その表情は倉庫で見せたものとは明らかに違っていたため、紡は唇を噛み、奏に向かって手を伸ばすと――優しく抱きしめた。


「……ごめんね。私には……私は、霊の気持ちを想うなんて出来ないの……。あなたと雪斗の気持ちを理解しようとすらしなかった……赦して……」


 奏を抱きしめたまま、泣きじゃくる紡。そんな彼女に対し、奏は雪斗がしてくれたように彼女を静かに受け入れた。


「ほら……もうすぐ崩壊するって言ったでしょ……? いつまでも泣いてないで、みんなを導きなさい」


 一生の呪いにされてしまった紡の痣に触れた奏は、勾玉を使って呪いだけを取り去った。


「あっ……」


「痣は消せないけど、もう痛みはないでしょう? ほら、行って」


 紡に微笑みかけ、奏は先を促した。


「……うん」


 怨霊ではなく、一人の人間だった氷海奏を最後に見つめた紡は、円香と鳴を連れてトンネルの手前に向かった。その際に、雪斗を一瞥した。この先は二人だけの世界、彼女たちがどうこう言えることではない。それがどんな結末でも。


「奏……ありがとう」


 もう二度と言えない言葉。志乃も円香も彼女に一礼し、鳴を連れてトンネルに入った。


 それでも、待ってるから……ふたりとも。


                 第拾弐幕 完

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