最終章 桜舞うあの場所で
第拾弐幕 波濤
図工室から飛び出した雪斗は、黒い水が二階を沈める前に皆と合流し、濡れた女を封印して現実に帰らなくてはいけない。そして、現実に帰ったら奏との約束を果たす。やることは多く、時間の余裕はない。
砕けた音楽室の引き戸を飛び越え、角を曲がり――。
何かに右肩を切り裂かれた。激痛が遅れて伝わり、雪斗は何が起きたのかわからないまま慌てて振り向いた。しかし、背後には誰もいない。
その危険さに気付いた雪斗は、急いでその場から離れようとした――その時、背中に何かがしがみつき、髪を引っ張られた雪斗は自分の首に湾曲した爪のようなものが迫ったことに気付き――咄嗟に背中を背後の壁に叩き付けた。その結果、背中にしがみついていた襲撃者をカシャリ、という脆い音と共に床へ落とした。
動かないそれを調べることも出来たが、雪斗は相手にせず教室棟を目指した。肩の傷も見たかったが、生温い液体、それだけ感じれば十分だった。
渡り廊下へ通じるドアを照らす。一本道で隠れられる場所はないが、見ておきたかった。松葉杖を強く握り、数回の深呼吸をして――。
背後の闇の中から飛び出した何かが、雪斗の頭上を飛び越えた。
「なっ……!」
光の中に降り立ったそれは――手があるべき場所に湾曲した鉤爪を持つぼろぼろの人体模型だ。関節には神経のように絡み付いた髪の毛があり、動きは歪だが確かに動いている。人の頭上を飛び越せるほどの身体能力を持っているようだか、雪斗の進路は限られている。
勢いよく息を吸い――走った。
人体模型は身構えると兇悪な鉤爪を振りかざし――松葉杖が躰に叩き付けられた。その衝撃であっさりと躰は砕け、臓器がビーズのように散らばると、髪の毛が解けて動けなくなった。
「リーチはこっちが上だ! さしでやろうなんざ――」
自身の勝利に酔いながら怒鳴る雪斗――その背後で音がした。振り向いた雪斗は迫る光景にギョッとし、急いでドアに向かった。人体模型と骨格標本が三体ずつ押せよせて来たのだ。
悲鳴をあげる足首などもうどうでもよく、両開きのドアに向かって突進した雪斗は渡り廊下に飛び出し――振り向いた紡と危うくぶつかるところだった。
飛び出すなと怒る間もなく、開かれたドアから見える光景に顔を真っ青にした紡はドアを叩き閉めた。すぐにドアは悲鳴をあげ、中から引っ掻くような音が騒ぐものの、雪斗はそれを無視して教室棟に入ると、ドアの把手に松葉杖を加えて補強した。
「なんなのあれ!」
「地元のやつ……理科室の」
かぶりをふりながら、雪斗は壁を使って身体を起こした。
「どうしてここに? みんなは?」
「シャッターの所為ではぐれたの。みんな時計台を目指してる。あんたがどう出るのかわからないから動けなくて……足も折れてるから様子を見に来てやったのに――」
「わかった、わかったから……! とにかくみんな時計台を目指してるんだ? ビンゴだ! ここからおさらばしよう」
おそらく、濡れた女も時計台にやってくるはず……その時は……。
不敵に微笑んだ雪斗を見、紡はどこか吹っ切れたように見える態度に安堵して肩を貸した。
「……話はついたの?」
「ああ、ついたよ」
新たに増えている雪斗の傷に気付いた紡は、自分の額にもある傷を思い出し、心の中でかぶりをふった。
生きて帰ったらみんな病院行きね……。
中庭に通じる渡り廊下へ向かおうとした時、背後から咆哮が響いた。
振り向いた瞬間――松葉杖で補強されたドアはあっさりと崩壊し、中から化け犬が姿を現した。そして、二人を慈悲の欠片もない目で凝視した化け犬は、口から黒い塊を吐き出した。ゲロのように吐き出された黒い液体には、腕や足が突き出ており、それは先ほど雪斗を追いかけていた人体模型たちの残骸だ。化け犬はそれを踏みつけ、二人に向かって破壊的な口をガバッと開き――校舎を震わすほどの咆哮をあげた。
グガァアアァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァアアアーーーー!!!
その咆哮は破壊的な口から吐き出されるだけで吹き飛ばされてしまいそうなほど凄まじく、紡は雪斗を支えたまま走り出した。
痛みに反応する雪斗のことなど無視してドアを蹴り開けて中庭の渡り廊下に出た紡は、両開きの重たいドアが一秒でも二秒でも持ちこたえてくれることを祈りながら渡り廊下を駆けた。しかし、背後でドアが悲鳴をあげ――紡の背中に片割れが叩き付けられた。
何が起きたのかもわからないまま、二人は床に叩き付けられた。紡は背後で何かが爆発したんだと本気で思ったが、自分の背中に覆い被さるドアを見て状況を理解出来た。
雪斗は……?!
痛む身体を起こすと、雪斗は隣に倒れており、声をかけるが反応はない。慌てて身体を向かい合わせて雪斗の頬を叩くが、それでも反応はない。
脳震盪を繰り返すと危険。
円香が言っていたことを思い出し、身体を起こそうとする紡だが、その焦りを増長させる破壊的な音が背後から迫る。
バキ……! バギィ!!
早く逃げなきゃ……。
崩壊したドアが踏み砕かれた音が迫り、起き上がった紡は雪斗を無理矢理引きずろうとしたが、叩き付けられた時の衝撃で傷付いた身体は悲鳴をあげた。背中を中心にして響いた激痛で紡はバランスを崩して片膝をついた。
その間も化け犬はドシン、ドシンと二人に迫り、破壊的な顎をガチガチと鳴らし、腐臭を撒き散らす黒い涎を垂らしている。
「なんでこのタイミングで気絶する……! 起きてってば!」
迫る死の恐怖が紡を半ばパニック状態に陥らせた。彼女の叫びに応えてくれる人はおらず、化け犬は最後の一歩を踏み出し、あの世へ通じるトンネルのように真っ暗な口を開けた――。
ごめん……二人とも……。
迫る死に紡は目を閉じ――化け犬は動きを止めた。ゆっくりと口を閉じ、骸骨のような顔を傾けると、ある一点を凝視した。紡もその視線を追い、あの首飾りがまだ雪斗の首にあったことに気付いた。
すると、化け犬は暗い空に向かって雄叫びをあげた。そして、雪斗に顔を近付けると犬のようにゆっくりと伏せ、大人しくなってしまった。
何……何なの……?
震える身体を押さえる紡。目の前の光景が信じられず、頭の中を様々な推測が駆け抜けた。勾玉の力……それとも別の何か……?
何しているのよ、そんなことはどうでもいいでしょ? さっさと逃げなさい!
紡は心の声にハッとした。逃げるチャンスが出来たのだ。逃げなくてはいけない。
それでも震える身体を起こすのは並大抵のことではなかった。自分はこんなに力がなかったのかと思うほどに両足は指示をすんなり聞き入れなかった。
その時、化け犬の耳がピクリと動き、目が開いた。必死の思いで両足と雪斗を起こしたにも関わらず、その化け犬と目が合ってしまった紡は竦み上がった。雪斗を掴み、逃げる為に力を入れ――。
今度は別の咆哮が中庭に響いた。化け犬とは違う、キーキーという咆哮は――。
包帯男が砕かれたドアの上に飛び出して来た。まっすぐに二人を見据え、走り出そうとした包帯男だが、化け犬が急に唸り声をあげて前屈みに――臨戦態勢をとり、包帯男に向かって飛びかかった。
包帯男はその襲撃に驚愕したような叫びをあげたが、すぐに応戦を始めた。
まつろわぬもの同士の共食いが始まり、足下に飛んで来た太刀を見た紡は西側廊下のドアに向かって走り、把手を掴もうとした瞬間――背後から飛びかかって来た包帯男に髪を掴まれた。その衝撃で仰向けに倒された紡だが、咄嗟に手摺を掴んだため引きずられることは防いだ。しかし、自分の髪の毛を掴まれたあげく、首が折れそうなほどの力で引っぱられている。
化け犬の攻撃を受けた包帯男はその巨大な口に噛み付かれ、手摺を巻き込んで化け犬と共に水の中に落ちたのだが、その口から脱出し、手摺越しから紡の髪を掴んだのだ。
その痛みに悲鳴をあげながらも、紡は足下の太刀を掴み――無理矢理自分の髪を切った。
それに対して憤怒の叫びをあげた包帯男は、水の中から顔を出した化け犬にさらに噛み付かれ――水の中に溶けていった。
その反動で雪斗の上に倒れた紡は太刀を投げ捨て、崩れ始めた渡り廊下から間一髪で逃げ出した。
息を切らせて西側廊下にへたり込んだ時、ようやく雪斗が目を覚ました。頭を押さえているため、脳震盪のようなものだったのだろう。
「……何があった?」
「…………」
危ないとわかっていたが、どうしても我慢ならず、紡は雪斗の頭を叩いた。
「えっ? 何……?」
「知らない……! この馬鹿!!」
そっぽ向いたまま無理矢理雪斗を立たせた紡は、膝まで迫って来た水に怯みつつ走り始めた。
「……うずまさの夢を見たよ」
「何……?」
「七年前にここで飼っていた犬の夢……」
「……そう」
あの化け犬か……。
今起きたことを言うべきかどうか、決めかねていた時、前方の曲がり角からチラチラと光が動いているのが見えた。二人が顔を見合わせた時、顔に不安を浮かべた新一が姿を現した。
「先生!」
紡が叫んだ。
「二人共、こっちだ!」
新一は二人に駆け寄り手を貸した。
「三人とも時計台にいる。急ぐんだ!」
二人を連れて階段を駆け上がる新一だが、踊り場を抜けた時、自分の足首に訪れた奇怪な違和感に気付き――二人を時計台に向かって突き飛ばした。
新一に突き飛ばされた二人は、円香が開けてくれていたドアを抜けて埃だらけの床に転がった。何が起きたのかと紡が顔をあげた瞬間に見えたのは、水の中から伸びた長い手が新一の右足首を掴み――水の中に引きずり込んだ光景だった。
「先生!」
伸ばしたその手は間に合うはずもなく、空しく宙を掴んだ。
ゴボゴボと水嵩が増し、紡はドアを叩き閉めた。
「先生は……駄目……」
ドアノブを掴んだまま頽れた紡を見、雪斗たちは新一の最期を覚悟した。しかし、新一のことを偲ぶ暇もないまま校舎全体が激しく揺れ、雪斗たちは時計台にまで浸水して来た水の中へ倒された。
「この様子じゃ時計台も終わりですね……」
志乃はそう言うが、雪斗はまだ諦めていない。濡れた女が水攻めを選んでいるなら最期かもしれないが、大将が前線に出張るならまだ勝てるチャンスはあるのだ。
雪斗は立ち上がると、少しでも高い場所へ鳴を運ぶよう円香に伝えた。とはいえ、周囲には複雑な歯車と埃まみれの整備道具しか無く、隠れる場所も水から逃げられる場所もない。
考えろ……何が出来るか。屋根に出るドアとかないのか……。
志乃と共に壁を叩いて回ったが反応はなく、水が膝まで迫り全員を追いつめる。
「クソッタレ……!」
どうにもならないその状況に毒づいた雪斗。すると、まるでその毒づきに合わすかのようにドアの向こうから笑い声が聞こえて来た。それは落ち着いていて、冷たく、人を嘲笑する嗤い方だ。
三人は凍りついたが、雪斗は身構えた。この状況で現れる存在はたった一人しかいない。
ヘラヘラと現れたことを後悔させてやる……!
雪斗は三人を守るように前へ出て、旧校舎の象徴である大時計の歯車を背にしたままドアを睨み――その手前の水面が膨れ上がり、中から濡れた女が姿を現した。
サア……イッショニトケマショウ。
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