侵食

 新一、紡とはぐれてしまった三人は、瞬く間に上がった水位から逃げるため、中央階段を目指していた。水位は膝から股下にまで迫り、廊下には給食室から流れてきた食器が大量に浮いている。


 志乃が先行し、食器類を端に除けながら進んだ。角を曲がり、中央階段前の廊下を照らし、安全を確認してから円香を呼んだ。この調子で何もなければ、二人とすぐにでも合流出来るだろうと楽観した志乃だが、中央階段前で重い防火シャッターが軋み始めたことで、その考えは打ち消されてしまった。


 そんな! 


 志乃は防火シャッターに駆け寄ろうとしたが、すぐに諦めた。水がなければ止められたかもしれないが、股下までの水でスピードはどうやっても無理だ。


 中央階段への道が閉ざされてしまい、二階へ行くには体育館か、遠い西側階段しか道は残されていない。それも、一階が水に沈むまでという制限時間付きだ。志乃は振り向き、どちらを選ぶか円香に訊いた。


「西と体育館、どっちにしますか?」


 円香は一瞬だけ目を閉じ、すぐに答えた。


「……西だ」


「行きましょう」


 志乃はニヤリとした。おそらく、まつろわぬものや怨霊は体育館で歓迎の準備をしているはずだ。言わずともわかってくれた円香に感謝し、西側階段を目指した。途中、新一の悲鳴らしき声が聞こえ、顔を見合わせた二人は速度を上げた。


 思っていた通り、西側階段には何事もなく辿り着けた。二階に上がる途中で一階は完全に水没してしまったが、体育館の中でまつろわぬものが今か今かと自分たちを待っていると想像すると、おかしくて志乃は笑った。


 そんな志乃を一瞥した円香は、やれやれとかぶりをふる。


「壊れたわけじゃありませんからね」


「元々壊れてるだろ」


 自分たちだけの掛け合いを連れ、二人は二階へ駆け上がった。そうして二階に着くと、志乃がすぐさま廊下を調べて安全を確認した。


 五年生の教室はどこも荒れ果てており、隠れるには不向きな場所だ。東側廊下とは違い、教室の向かい側には窓しかないため、挟撃されたらひとたまりもないだろう。


 先を歩く志乃が教室内を照らしていくが、何もないことにすっかり油断しているように見えたため、円香は声をかけた。


「志乃。出し抜けたとはかぎらない、ヘラヘラするな」


「大丈夫ですよ、もし近くに潜んでいたらとっくに――」


 何かが襟首を掴んだ。そう理解した時には、もう獣ような力で志乃は窓へ引きずられた。咄嗟に制服を脱いだことで前のめりに倒れ、嫌というほど右手をぶつけてしまったが、引っ張る何かから逃れることは出来た。


 慌てて振り向くと、いつのまにか開いていた窓の外へ制服が消えていった。急いで窓の側から離れようとするが、またもやシャツの襟首を掴まれてしまった。


「志乃!」


 円香は鳴を横にし、飛び込むようにして志乃の左腕を掴んだ。


 右腕だけでなんとか床にへばりついたものの、円香が腕を掴んでくれなければ志乃は窓の外に引きずり出されるところだった。しかし、その抵抗も空しく、志乃は床と円香から引き離された。


 咄嗟に窓枠を掴んで外へ出されるのを防いだ志乃だが、信じられないほどの怪力で上半身を弓のように反らされる激痛に悲鳴をあげた。そして、悲鳴をあげる志乃をゆっくりと覗き込む影があった。


 三メートルの女。志乃が見たのは唇のない口がニタリと笑みを浮かべていることだけで、それは不気味なことに何も言わないまま、細くて異様に長い腕に力を込めた。


 あばらの痛みも相まって、引き裂かれるような激痛に意識が飛びそうになる志乃だったが、


「……二人共!!」


 そこに息を切らせた新一が姿を現し、事態を把握した彼はすぐに志乃の右腕を掴んだ。


 二人掛かりならと引っ張る円香だが、それでも三メートルの女が持つ怪力には歯が立たず、倒されそうになった瞬間、自分の右腕を見てあることを思い出した。


 円香は躊躇わずに、紡がくれた水晶の腕珠を三メートルの女に向けて渾身の力で投げつけた。



 イアヤァァァァアアアアアアアアァァァッァァアアアアー!!!



 直後、耳を劈くほどの悲鳴のような声を発し、長い腕を志乃から放した三メートルの女は吹き飛ばされたかのように霧の中へ消えた。 


「……逃げよう!」


 新一は叫び、激痛でもがく志乃を起き上がらせた。


「怯ませることは出来たはず……行きましょう!」


 円香は急いで鳴を起こし、志乃を連れた新一と共にそこを離れた。あれを倒せたとは思えないうえに、竃馬のような腕は教室内の半分まで軽々と届く。少しでも留まっているのは危険だ。


 バタバタと角を曲がり、中央階段を照らすと、案の定、中央階段手前の防火シャッターが閉まりだした。


「まずい!」


 志乃から離れ、新一は防火シャッターを止めるため走ったが、その手前で床が砕け――激しく転倒してしまった。


「……先生!」


 志乃は身体の制止を振り切って走り、中央階段の横にあるトイレの手前に積み重なっていた机を防火シャッターの真下にぶちまけた。しかし、その無茶であばらが悲鳴をあげ、ぶちまけた勢いのまま床に倒れ込んでしまった。


 だが、そのおかけでぶちまけられた机の一つが、下りる防火シャッターを食い止め、人が這って通れるほどの隙間を生んだ。しかし、その直後に二階まで水が到達し、瞬く間にその隙間を沈めてしまった。


「だったら……力づくで上げれば良い!」


 起き上がった新一は、隙間に手をかけて思い切り力を入れた。しかし、防火シャッターはびくともせず、新一の足掻きを嘲笑う。


「くそっ……大事な生徒の命がかかってんだ……! 開けぇ――」


 新一がそう叫んだ瞬間、三人の耳元で澄んだ音が響き――防火シャッターがしなやかに上がっていった。その光景を見て、何が起きたのかわからず唖然とする三人だが、どこからか聞こえて来た咆哮のおかげで現実に戻った。


「行こう!」 


 新一は時計台に向かって階段を駆け上がった。埃だらけのドアを開けようとした時、踊り場にいる円香が声をあげた。


「中で一人死んでます! 気をつけて!」


 ハッとした新一だが、迫る水から逃げる時間を稼ぐには時計台しかない。


 勢いよくドアを開け、中を目まぐるしく照らしたが動く影はない。


「……何もいない、大丈夫なはずだ」


「歯車は?」


「歯車?」


 視線を室内に戻し――。


 階段を上がろうとした円香と志乃が見たのは、新一に体当たりする黒い影――倒れてきた新一にぶつかり、四人は踊り場に転げ落ちた。襲撃者も一緒に転げ落ちたが、すぐに体勢を整えると円香の足を掴んで二階に投げ落とした。


「っ……円香さん、テケテケです!」


 散らばった懐中電灯の光が照らしたのは、テケテケと評された小沢真だ。狙いは円香であり、大量の黒い水を飲んでしまった彼女はすぐに抵抗など出来ず、その側に着地した小沢は円香の髪を掴むと、一階を沈めた水の中へ落とそうとした。喉が焼かれるような感覚に苦しむ円香に抵抗する力はなく、彼女を求めて荒れ狂う水面が目の前に迫り――。


「動かないで!」


 その声に反応した小沢は振り向き――激しく突き飛ばされた。何をされたのかもわからないまま水の中に落ち、小沢の意識は途絶えた。


 階段から飛び降りざまに、志乃はラピスラズリの一部を小沢にぶつけた。その攻撃は見事に決まり、小沢は撃退されたものの、無茶な動きと満足な受け身を取れなかった所為で志乃は床に叩き付けられた。


「また無茶を……怪我でお前が先に死ぬぞ……!」


 顔を上げた円香は体内に入り込んで来た水を吐き出し、あばらからの抗議に悶える志乃に向かって叫んだが、その返事を待たずに新一は志乃を起こした。


「好い人を助けたいと思うのはいいことでしょう……? 回収しておいて良かった……」


 鳴を助けたあの時、志乃は水の中に落ちたラピスラズリをこっそり回収していたのだ。その機転に円香は感心し、心からの感謝を告げて階段を上がった。


 時計台室に腰を下ろした志乃は、動くたびに抗議するあばらを宥めつつ新一に声をかけた。


「後はジュリーさんと柊さんですね……」


 頷いた新一は二人を捜すために、一生分使ったような気がする懐中電灯の作動状況を確認した。


「二人を捜してくるよ。志乃は速水さんと京堂さんのことを頼む」


「……本気ですか? もう腕珠は使えないし、まつろわぬものどころか、怨霊にすら歯が立たない状態ですよ? ……二体撃退しているとはいえ、まだいるんですから……先生が行ってもジュリーさんの邪魔になると自分でも言っていたと思いますが」


 その時、どこかで人間のものではない雄叫びが響いた。


「くそっ!」


 新一は光をドアに向けると二人を見た。


「気を引くぐらいは出来るさ……それに、ここにいると二人に伝えないといけない。柊もどこにいるのかわからないからな……」


 そう言って新一は出て行った。


 かぶりをふった円香は、自分がこういったことに無力だということにうんざりした。出来ることといえば、三人の運の強さを祈ることぐらいだ。


「大丈夫ですよ。三人とも今に飛び込んで来ますから」

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