第3章 紅涙の涯 

第捌幕 紅涙

「やっと……来てくれたね」


「七年も待たせてごめん……」


 背中から伸びるか細い腕を握り締める雪斗。


「雪は大きくなったね。あの時はわたしのほうが少しだけ大きくて、お姉さんだったのに……」


「今でも年上だろ? 当然と言えば当然だけど……」


「どこに行っていたの……七年間も……」


 雪斗の背中に顔をうずめる奏。


「病院に運ばれて……そのまま別の場所で暮らしてた」


 そう告げると、奏の腕に少しだけ力が入った。


「わたしには……雪だけなんだよ? 阿呆が……」


「だから……戻って来たんだよ、奏」


 冷たい腕を解き、振り返る。そこにいるのは、雪斗が七年前に出会った時の姿のままの氷海奏がいる。しかし、一つだけ変わっていたことがある。


「あれ? 奏、そのマフラーって……」


 彼女の小さな身体に不釣り合いなほど大きいマフラー。それを巻いているのだが、大きすぎて余りは背中に伸ばしている。雪斗はそのマフラーに見覚えがあった。


 その表情に気付いたのか、奏はニコリと微笑んだ。


「そうだよ、これは雪がくれたマフラー。ごめんね……あちこち解れちゃったから、自分で編んだの」


 余りの部分を手繰り寄せる奏。


「まだ持っていてくれたんだ……」


「……うん。雪がくれたものはみんな……わたしを赦してくれるから……」


「赦す? ……編んだって言ったけど、もしかして?」


「旧校舎の家庭科室を使ってね」


「そうか、案内したよな。でも奏が使うには大きすぎる気がするけど?」


 すると、奏は雪斗に少し屈むよう手振りした。


「それは……あの時みたいにこうするため!」


 奏はそう言って、雪斗の頭からマフラーをかぶせ、半ば強引に座らせた。


「ほら、相合マフラー! 七年前もしたでしょ?」


 そのまま横になり、雪斗の膝に頭を乗せる奏。雪斗を見上げ、マフラーに顔を半分うずめたまま微笑んだ。その笑顔を見て雪斗も微笑み返す。


 普段は大人びて見える奏が、唯一少女に見えるのが笑った時であり、改めてそれを見た雪斗は気恥ずかしくなり、口元をマフラーで隠した。マフラーは二人で巻いていても余裕があり、その大きさと長さに驚いた。


「驚いた? 雪の身長を考えたうえでの大きさと長さにしたんだよ? これなら二人で立っても繋がっていられるから」


 ほら、と立ち上がる奏。彼女が言ったように、マフラーにはまだまだ余裕があり、二人で立てば釣り合う長さになるように計算されていた。編み物が出来ることに感心していると、奏は少しばかり恥ずかしそうにしながら藍色の巾着を取り出した。


「雪、これ……受け取ってほしいな」


 奏がもじもじと差し出したもの、それが何かすぐにわかった。


「わたしの記憶で見たよね? わたしの好い人に渡すようにと言われた耳飾り。雪に身に付けていてほしいの……大切な人に……」


 微かに震える両手で差し出す奏。もちろん雪斗に断る理由など微塵もない。彼女の手から受け取り、左耳に付けた。すると、耳の側で透き通るような音が流れた。


 これは〝互いの聲が共鳴ともなりする耳飾り〟と言っていた桐生の言葉を信じさせるには十分な音色だった。


「受け取ってくれてうれしい……」


 ホッと胸をなでおろした奏は、雪斗の膝の上に乗った。そのまま彼の首筋に手を回し、目を閉じた。「ねぇ……」と雪斗の額にコツンと自分の額をぶつけて唇を寄せる。


「えっ……ここで?」


「ん〜、誰も見てないよ」


 雪斗は躊躇したが、奏にねだり押される形でそっと唇を重ねた。少しして唇を離した奏は、自身の唇に残る温もりに触れて微笑んだ。


「ふふ、あったかい。……でもあの時の方がもう少し激しかったよ?」


「えっ、いや、あの時は……」


「ねぇ、恥ずかしい?」


 また雪斗の首筋に手を伸ばした奏は彼の耳元へ唇を寄せ、


「わたし、生娘じゃないんだよ? ……雪の所為で」


「それは……」


「責任の取り方は……わかっているよね?」


 ほら、と促された雪斗は頰を紅潮させつつも奏の唇へ自分を伸ばし――奏は舌を出した。驚いて唇を離した雪斗が見たのは、いたずらっ子のように笑う奏の笑顔だ。


「……からかったな?」


「うん。でーも……わたしのほうが年上なんだよ? 何か気になることでも?」


「ああ……ちょっと体裁的にね……」


 困ったように笑う雪斗を見て、立ち上がった奏は手摺に寄りかかった。


 外は全て黒い霧に包まれており、わざわざ見つめるような景色はない。それでも何かを見ている奏が気になり、雪斗も腰を上げて外を見た。


 奏が言ったように、マフラーは二人が立つことで、長さがピッタリ合うようになっている。


 少しの間、二人とも何も言わなかったが、奏はそっと雪斗の手を握った。それは冷たくて、生気がない死人の手だ。


「……わたしね、この景色と同じようなものを見たことがあるの。真っ暗で何もわからない……わからないまま彷徨っていた場所……」


 奏は静かに話し出した。だが、雪斗にはそれが独り言のように聞こえた。


「一人で死ぬのはいや……。そう言っていたのに、結局わたしは一人だった。でもね……雪がわたしを見つけてくれたから、わたしは氷海奏になれたの」


 手を放した奏は雪斗をまっすぐに見据えた。


「覚えてる? 雪斗にはわたしがどう見えるの? って、訊いた時のこと」


「初めて会った時の……だよね?」


「そう、あの時、わたしはわたしになれた……。〝わたし〟と言えるようになって……世界が見えるようになったの。雪が……沢田雪斗がわたしをくれたの……!」


「俺が奏を意識したから……沢田奏になれた?」


「沢田奏……それいいね。そう、だからわたしは雪に触れることが出来るし、首飾りのおかげでここにいる阿呆たちみたいにならなかったの」


「それじゃあ……奏に会えたのは、両親と詩さんのおかげなんだ」


 そう言って手摺から離れると、奏が勢いよく抱きついて来た。


「雪に会えてうれしい! 離ればなれになったけど……約束のために戻って来てくれた」


 雪斗を見上げる目にはうっすらと光るものがあり、その真剣な瞳に雪斗も彼女を一心に見つめた。


 今の旧校舎に音はなく、聞こえてくるのは二人の微かな息遣いだけ。見つめ合う二人だが、突然、雪斗の耳飾りが鳴った。


 その瞬間、雪斗の脳裏に、ある言葉がよぎった。


 ここにいる阿呆たち――。


 その言葉が、雪斗に今を思い出させた。ここは再会を喜ぶにふさわしい場所じゃないことに気付いた雪斗は、奏の両肩を掴んで言った。


「奏、そうだよ! ここはまつろわぬものたちの住処だ。ここから出よう!」


 見つめ合うことは現実でいくらでも出来る。目下のやるべきことは全員でここを脱出することだ。


「桐生さんが言っていたことが本当なら……あいつらをこの勾玉で封印出来るんだろ?」


 雪斗には霊感もなければオカルトの知識もない。どう使えば正解なのかわからなかったため、雪斗は奏の協力がどうして必要だったのだ。だから紡にも渡さなかった。急いで取り出した勾玉は何度も黒い水の中へダイブしたというのに綺麗に輝いている。


「うん。この勾玉を使えば……まつろわぬものでも封印出来るよ」


 そう言うと奏は微笑んだが、その笑みとは裏腹に口調は重い。それに加え、一瞬だけ眉を顰めた気がする。その真意はわからないが、不安を払いたくて雪斗は話を続けた。


「このままじゃみんな殺される! 勾玉の使い方を知っているんだろう? 奏、力を貸して……」


 雪斗は少しずつ声を落とし、最後には黙ってしまった。


 紡たちが殺されることは笑い事じゃない。それにも関わらず、奏が薄気味悪い笑みを浮かべたのだ。雪斗は無意識に勾玉を握り締め、静かに後ろへ下がった。


 その動きに対し、奏は首を傾げながら言った。


「……雪はここから出たいの?」


 その口調は驚愕を告げていて、雪斗は自分の耳を疑った。


「出たいよ! 誰が好きでこんな空間にいたいと思う?」


「そっか。じゃあ現世に帰ろうね、首飾りを返して?」


 パッと雪斗から一歩飛び退いた奏は、ニコリとして片手を差し出した。


 これで現世に帰れる。安堵した雪斗は勾玉を握り締めたまま胸を撫で下ろした。奏が現世に戻りたくない、と言い出したらどうしようと思っていたのだ。


 奏に微笑みかけ、首飾りを渡そうと手を伸ばし――。


 再び耳飾りが鳴った。


 反射的に伸ばした手を引っ込めた雪斗は、帰れる、という言葉に安堵しすぎた所為で大切なことを忘れていた。


「奏、まつろわぬものはどれを封印すればいいんだ? 俺が見たのは包帯野郎と濡れた女だけど……」


「濡れた女……あいつはほんとにしつこいなぁ……」


「しつこいんだ……」


「雪斗にも見せたでしょう? 別の土地から逃げて来た落ち武者だよ。氷海村を沈めたのはこいつ」


「そうか……やっぱり大将か。じゃあ濡れた女を封印すれば現世に帰れるんだな?」


 奏は首を横にふる。


「違うよ。ちゃんと現世に通じる道を通る必要がある。そうしないと阿呆たちと一緒に勾玉の中に封印されちゃうよ」


「……! そうか、聞いてよかった」


 雪斗は頷くと震える腕を掴んだ。危うく皆のことを殺してしまうところだった。まつろわぬものたちと心中などノーセンキューだ。 


「奏、濡れた女を捜す必要とみんなと合流する必要がある。一緒に捜してほしい、それなら――」


「いや」


「えっ……?」


 雪斗は耳を疑った。奏を見ると笑顔が消え、初めて会った時と同じ冷たい無機質な表情になっていた。


「〝雪斗が〟現世に帰りたいならわたしは協力するよ? だけど……雪のために渡した首飾りを雪以外の人のために使うなんてありえないし、許さないよ?」


「奏……?」


 奏は明確に目付きを変えた。睨むように首飾りを凝視し、もう一度手を差し出した。


「わたしたちの約束はここでも果たせる。……雪にそれは必要ないよ、返して」 


 そう、雪には必要ない。雪には知らせていないけど、わたしが強く望めばすぐにでも約束は果たされる。今までそうしなかったのは、決定権が雪にあるからだし、もう少し冒険を楽しみたかった。わたしたちの思い出が詰まった場所を汚されたという気持ちはあるけど、ここは現世の校舎ではないし、雪と一緒ならそれだけで思い出になる。わたしは雪を誑かしていないし、彼は本当にわたしを愛してくれている。


「あんな子たちほっとけばいいじゃない。勝手に校舎に来て、閉じ込められたから助けてなんて……」


 マフラーを連れ、雪斗が一歩下がった。奏でも一歩を踏み出した。


「……どうして下がるの?」


「奏……冗談で言ってるんだろう?」


 雪斗の目に浮かぶ困惑。そんな目をするようなことは言っていない。痛む胸を無視して奏は言った。


「あの女……わたしたちの邪魔をしなければ助けてあげるって言ったのに……約束したのに……。雪から首飾りを奪おうとして……あまつさえ、わたしから雪斗を引き離そうとしたんだよ! そんな奴をどうして助けなきゃいけないの!?」


 馬鹿女に軽々と声をかけた自分が憎たらしい。反逆してくるなんて思いもしなかった。雪斗以外のことなんてどうでもいい、わたしには雪斗がいればそれで……。


「奏……そんなこと言っちゃ駄目だよ……」


 雪斗の声には想像もしていなかったほどの苦痛が滲んでおり、奏はその声に動揺したが、すぐに雪斗を睨みつけた。だが、雪斗から返される憐れみの視線に奏はかぶりをふった。


「……わたしをそんな目で見ないで……見ないでよ!」


「見るさ……今の奏じゃ……」


 乱れる呼吸も、痛みが鋭くなる胸も、雪斗の表情すら無視して奏は手を伸ばした。


「首飾りを……渡しなさイ」


 耳に付く別人のような奏の声。


 平静で無感情。まつろわぬものとなんら変わりがない声。


 雪斗は奏の目を見据え、きっぱりと言った。


「渡せない」


 奏は歯を食いしばった。素直に首飾りを渡そうとしない雪斗への苛立ちからは憎しみさえ湧いた。生きていた時でさえ、ここまで怒りの濁流に呑み込まれたことはなかった。


「どうして……言うことを聞かないの! 雪とわたしの約束に……これからのことに関係ないでしょ?! あいつらがドウなろうと!」


 声を荒げた。歯が軋む音も、自分が泣いていることにも気付けないまま雪斗に近付いた。


 雪はわたしとの約束よりも……あの女の方が大事なの? どうして――ドうして――。


「ドウシテ!!」


 雪斗を突き倒し、馬乗りになった奏は、自分でもわからないほど強い力で彼の顔を掴むと爪を立てた。肌が切れ、血が爪を伝い、指に温もりを感じても奏は止めなかった。雪斗が苦痛の声をあげても止められなかった。その声が奏を滾らせ、さらに爪を立てさせた。


「クビかざりを……ワタシナサイ……!」


 華奢とは思えないほどの血管を浮かべる両手を強めながら、憎しみで見下ろしながら奏は言った――氷海奏を見つけてくれた人に向けて、


「ワタセ!!」


 包帯男のように今にも裂けそうな口を開けた奏は――雪斗の顔に黒い液体が付着したことに気付き、濡れた女が邪魔しに来たんだと思い振り返ったが、そこには誰もいない。すると、微かな力の緩みを見逃さなかった雪斗が奏の右手を掴んだ。それは引き離すためではなく、奏を見るためだ。手を梃にして少し頭を上げた雪斗は、痛みで歯を食いしばりながら言った。


「渡せない……! 渡せば奏はみんなを見殺しにする……! それじゃあ、ここにいるまつろわぬものと同じだ!!」


「……!」


 頰を伝う血に混ざった涙に気付いた奏は動揺して手を放した。雪斗は血も涙を拭わず身体を起こし、奏を見据えたまま懇願するように言った。


「見殺しにしちゃ駄目だよ……。これ以上みんなを殺そうとしたら……もう、奏のことを見られなくなる……!」


 ミレナクナル? ナニヲイッテ……。


 耳飾りが鳴った。


 オト? ナニ?


 ユキト――。


 奏の目に浮かぶのは、頬から血を、目から涙を流す雪斗だ。


 雪斗の目に浮かぶのは、爛れ、土気色の――奏。

 その光景に驚愕して飛び上がった奏だが、ピシャリ、と耳に付く湿った音を連れて頽れてしまった。


 イタイ……イタ……イ。


 床を舐めた奏は痛む足に目をやった。そこにあるのは、手と同じように腐り落ちる肉と黒く腐蝕した裾と滴る黒い水だ。


 ウソ……コンナノ……ワタシジャ……ワタシジャナイ!!


 食べかけのまま腐ってしまった骨付き肉のような両手を、両足を見た奏は雪斗を見つめ――悲鳴をあげた。


 雪斗の目に映る姿は、自分の姿は、もう奏の面影は一つもなかった。



 アアアアアアアアアアーーーーーー!!!



 咆哮のように校舎を揺るがした悲鳴は雪斗の耳を劈いたが、それでも彼は奏に駆け寄り手を伸ばした。しかし、奏の見開かれた目と〝死者〟の姿に思わず手を止めてしまい――。



 グガァアアァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァアアアー!!!



 直後、奏の悲鳴に対抗するように、地の底から発せられたような咆哮が校舎全体を轟かせた。


 その咆哮は距離的にも近く、このままでは危険だと判断した雪斗は奏の腕を掴んだ。しかし、掴んだ肉がドロリと剥がれしまい、咄嗟に奏を抱き寄せた。


「奏、こっちを……俺の目を見て……!!」


 目を見開いたまま身体を痙攣させる奏。声も姿も認識しているはずだが、彼女は譫言のように何かを呟きながら、頑なに雪斗と目を合わせようとしない。


 あの咆哮の奴が来たらヤバい……!


 錯乱する奏を止めるため、雪斗は無理矢理彼女と唇を重ねた。それは映画のような恍惚としたものではなく、奏の全意識を自分に向けさせるためだ。その途中、頰の一部が腐り落ちたが、もう臭いも腐蝕も気にしなかった。


「奏、俺の話を聞いて! 俺は――」


「イヤ――ヤメて! ワタシをみナイデ!」


「奏!!」


「――ミナイデ!」


 目を血走らせて叫んだ奏は、雪斗を突き放した。その勢いでマフラーは解れ、雪斗は倒れてしまった。頭を抱え、腐り落ちる肉と一緒にのたうつ奏も実習棟に吸い込まれるようにして倒れ込んだ。


「奏――」


 駆け寄ろうとした雪斗だが、それを咎めるかのように、見覚えのある手が横の手摺を掴み――反応が遅れた所為で伸ばしたままだった右腕を斬り付けた包帯男は、有翼の悪魔とも評せるほど優雅な動きで渡り廊下に飛び乗って来た。血を吸った太刀を得意げにブンブンと振り回すと、その切っ先を雪斗へ突きつけた。


「っ……こいつ……!」


 反射的に飛び退いた雪斗だが、持っていかれた右腕からは血が流れ出す。だが、幸いにも円香と同じように皮膚の上層だったため、痛くても耐えればいいだけだ。 


 包帯男は滴り落ちる血を見て興奮したのか、キーキーと天に向かって吼えている。


 空気読めよ包帯野郎が……!!


 心の中で吐き捨てた雪斗は、包帯男の後ろにいるはずの奏を見たが、いつの間にか姿は見えなくなっており、実習棟のドアは手持ち沙汰のようでプラプラと揺れている。姿は見えなくなっても逃げ込んだ先がわかっているなら苦労はしない。


 待ってろよ……奏……!


 包帯男を一睨みした雪斗は、踵を返して教室棟を走った。

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