約束

「……そうか、沢田は幽霊とそんな約束をしていたのか」


 実習棟へ向かう道すがらに説明を受けた円香は、小学生時代の口約束を何年も気にするような人はあまりいないだろう、とかぶりをふった。


 互いに忘れるか、有耶無耶に、男女なら中学生頃から互いに距離が生まれて話すことすらなくなる。あんなに仲良しだったのに、と思った人は多いだろう。それが思春期特有の第一次人間関係成長期なのかもしれないが、それにも関わらず雪斗は七年間も奏のことを想い続けていた。戻って来ても思い出せる確証も、奏から冷たい言葉をかけられる可能性もあったというのに、雪斗はそれをやってみせた覚悟があったのだ。


 円香は雪斗のそんな行動力と精神力に内心では大いに感心していた。


「一途だな……彼は」


「違うよ、怨霊は相手を魅了することだって出来る……呪いだよ。その所為で、あいつ七年間も無駄な時間を過ごしていただろうしね」


「そうかもしれないが……あの様子だと沢田は言うことを聞かないだろう。約束は二人の問題だ。わたしたちがとやかく言える問題じゃないしな」


 円香のその意見には内心同意の紡だが、ここから脱出する、という目下の課題をややこしくしているのが奏であり、雪斗でもあるのだ。


「紡が身に付けている腕珠では脱出出来ないのか?」


「私のやつは鳴に繋ぎとしてあげちゃったの。仮に持っていても、脱出には無理だよ……力が弱すぎる」


 申し訳無さそうに告げた紡を見、円香はきっぱりと告げた。


「紡の所為ではないだろ。それに、嘆く暇があるなら行動しないと……何もかもが後手になるよ」


 円香の気遣いに感謝しつつ、紡は雪斗への怒りで歯を食いしばった。


 あの馬鹿は私たち全員の命を風前の灯にしてくれた、どうやってお礼をしようかな……。


「状況わかってんの……あの馬鹿……」


 怨み節に後押しされた紡は我慢出来ず、側に置かれていた机に一蹴り入れた。八つ当たりは最低だが、音を考慮したので幾分マシだろう。それに、怒りへ蓋をするのは肌にもよくない。そう円香にも言うと、彼女は小さく笑った。


「紡は? 沢田の行動理念が共感出来るところはない?」


「ない。あいつの行動は全て魅了されてるから一途になってるだけ。呪いが解け……怨霊としての奏を見たらあっさり逃げ出すんじゃない? 怨霊はまず……相手の感覚を遮断して正常な判断を鈍らす。その状態で苦しみ始めたら優しい言葉をかけて自分に依存させるか、自分を意識させる。その後……弱り出したところで実力行使の末に仲魔にするか、ただ呪い殺すだけよ。これが怨霊の典型的な手口であり、あの馬鹿は見事に魅了されました、以上、終わり――」


 語っていると、円香が止まれと合図した。


 紡は即座に口を閉じると円香に身を寄せた。音が聞こえると指で合図され、耳をすませると、微かに二階から足音が聞こえる。二人は近くにある積み上げられた机の陰に身を潜めた。足音の主が現れればすぐに見分けられる場所だ。


 件の足音は近くなり、水に飛び込んだ音がした。バシャバシャと自己アピールに余念がない足音から紡は包帯男を連想したが、チラチラと揺れる懐中電灯の光が差したため、その考えは消えた。鳴か雪斗か――。


 現れたのは新一だった。全身ずぶ濡れで、顔付きは新一とは思えないほど険しい。


「先生!」


 円香に呼び止められた新一は、その険しい顔付きに安堵の笑みを浮かべた。


「二人とも、無事でよかった……」


 机の陰から出た二人は新一に駆け寄った。


「一緒にいるのは……二人だけかい?」


「先生、鳴を見かけませんでしたか? 校舎の中にいるはずなんです!」


「見ていないよ。化け犬に追いかけられて逃げていたから……部屋を一つ一つ見ていく余裕はなかったよ……」


「そうですか……」


「唯一手懸かりがないな……もしかしたら鳴はここに来てないんじゃないか?」


「でも……バッグは昇降口にあった。もう殺されているとしても……奴らにそんな素振りはないし、氷海の奴も口にはしてなかった……とにかく全ての教室を調べながら――」




 グガァアアァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァアアアー!!!



 紡の提案を否定するように咆哮が轟いた。


 その咆哮に身体を揺らした新一は、慌てて周囲を照らした。 


「あの化け犬だ! 近いぞ……」


「先生の友達ですか……今は遠慮したいですね」


 そう言った円香は、即座に聞こえて来た水面の悲鳴から、化け犬が如何に巨大なのか察して身震いした。


「旧校舎の構造なんて把握してないからな……どこに行けばいいんだか……」


「中庭はどうです? 相手に見つかる可能性も高いですが……こっちが見つけることも容易です。逃げ場所の候補もありましょう」


 円香の提案を受け、紡たちは中庭のドアを目指した。


「わわ……ここも水浸しかよ」


 中庭において強まった腐臭に鼻を塞ぐ新一。その横を抜けた紡は、渡り廊下と中庭を繋ぐ階段まで向かい、円香を座らせた。


「おや? あんな所に犬小屋が……」


 二人の側には行かず、新一は半壊した犬小屋の側に寄った。


「先生、離れないでくださいよ」


 勝手に動き出した新一を連れ戻しに来た紡は、大きな犬小屋を見つめている新一の後ろから覗き込んだ。


 大きな木製の犬小屋は崩れており、中には暴れたような爪痕がある。それを見た紡は、あの化け犬の首に首輪がぶら下がっていたことを思い出した。あれはここで飼われていた犬の成れの果てということを察した。そう思うと無性にあの化け犬が哀れに思えた。もしかすると、鳴や雪斗は何か知っているかもしれない、そう思った。


 黙ったまま犬小屋を見下ろす二人には混ざらず、円香は肩を気遣いつつ、中庭の中心で黒い水を吐き出す池に近付いた。池の中はほとんど見えないが、中心部からブクブクと黒い水が絶えることなく溢れており、二宮金次郎の像を一瞥した彼女は、あれで蓋をしようかと本気で考えた。


 この腐臭がなければまだマシだが……。


 腕で鼻を押さえながら、円香は揺れる水面に顔を近付け――照らした水の中に一カ所だけ、水中花のように浮かぶ人の形が見えた。一瞬それが何か理解出来ず、もう一度その人影を照らした円香は、思わずかぶりをふった。


 どうしてお前がここにいる……?


 紡たちを呼ぶことよりも先に、円香は自分の腕を水の中へ突っ込み、沈んでいた志乃を力づくで引き上げた。彼の身体には校内の至る所で見かけた菌糸のようなものが絡み付いており、円香にはこの菌糸が志乃の養分を奪おうとしているように見えた。その事態に気付いた新一も駆け寄り、志乃を渡り廊下へ続く階段に運んで横にした。


「志乃、志乃!」


 水中にいたため、溺れていないかと心配したが、数回身体を揺すると志乃は激しい咳をしながら大量の水を吐いた。意識も戻ったようで、円香は背中を優しくさすりながら、心の中で胸を撫で下ろした。


「生きていたか、次からは眠る場所を考えた方がいいな」


「黒い水のベッドで寝てみたくて……」


 志乃はヘラヘラと笑ったが、その顔色は悪く、水を吐き出している間もしきりに胸を押さえていたことを見逃さなかった円香はズイ、と彼に詰め寄り眉を顰めた。志乃の仕草は水を吐き出した所為とも思えたが、円香は状況説明の前にハッキリさせようとした。


「何を隠している。体調が悪いなら言え」


 すると、志乃は自身の胸に目をやり、息を漏らした。


「すいません……あばらをいかれたかもしれません」


「あばらを? 相手は?」


「相手は確か……大きかったかな……? 池の中に人影のような何かがあって……触れてみようとしたら……後ろから掴まれて投げられました」 


 身体をさすりながら志乃は、池に向かって顎を動かした。


「地面に叩き付けられて……今です」


「背は高くないが……大の男を投げ飛ばすとはな」


 志乃の言葉を聞いて、紡と新一は池を覗き込んだ。


「咳をすると痛むか? 圧迫すると……」


 激痛に歯を食いしばった志乃だが、無理矢理ニヤリとした。


「円香さんに叩かれるほうが痛いですね……」


「そうか、脱出出来たら病院だな。頭も行っておくか?」


 小さく笑った円香は彼の頭を叩き、二人が調べている池を見た。


「この中に他の人がいるなら、十中八九……京堂かな」


 嫌な想像を連れて新一は池の中を照らしてみたが、志乃が言っていた人影らしきものは見当たらない。その捜索に紡も加わったが、二人で水中を照らしても浮かぶのは互いの怪訝な顔だけだ。


「二人とも、水面ギリギリまで行かないと見えませんよ」


 それを聞いて、紡は新一を見た。その視線の意味を理解した新一だが、鼻をもぎ取ろうとする水面に近付くことは容易なことではない。だが、新一には雪斗と円香を見捨てて逃げた前科があるため、二回、三回と深呼吸の後に池の中心を覗き込んだ。


「……よし、中を調べるが……押すなよ?」


「押しませんよ」


「絶対に……押すなよ?」


 そう言うと、紡は新一の後ろに移動した。


「押す……なよ?」


「押しませんよ。落ちかけた時のためです」


 水面に向き直った新一はまた深呼吸をして、水の中に手を突っ込んだ。ドロヌメな感触と臭いで鼻がもげそうになった。


「うわ……エグイぞこの臭いは……。ドロドロで、ヌメヌメしていて……冷蔵庫の中に魚を入れといたけど忘れて、出張から帰って来たら――」


「テイスティングなんてしなくていいですから!」


 怒られてしまったが、新一自身も吐きそうになっていたため、止めてもらえたことは幸運だった。情けない姿を見せまいと、かぶりをふった新一は、思い切り伸ばした手を泳がせ――見つけた。一瞬だけだったが、丸い玉がいくつも並んだ何かと、人間の手に触れた感触があった。


 紡を呼んだ新一は、確かに掴んだその腕を池の中から引き上げた。


 そうして池の中から引き上げたのは、身体中に菌糸のようなものを巻き付けた人の形をしたものだ。新一は死体か、或はまつろわぬものだと思い、慌てて手を放したが、それと入れ代わるようにして紡がそれに近付いた。


「……まさか!」


 粘つく菌糸の中から伸びる綺麗な腕に付けられたラピスラズリを見、紡は狂ったように菌糸を剥ぎ取った。剥いでも剥いでも見えてこない身体を捜して手当たり次第に手を進めた紡は、剥いだその下から出て来た鳴の顔を見、 


「鳴! 鳴……! 聞こえる!?」


 ぐったりとして動こうとしない鳴の頰に両手を置いた紡は何度も彼女に呼びかける。その間、新一も菌糸の剥ぎ取りに加わったが、横にされた鳴の制服ではなく背中が見えたことに気付き、自分の草臥れたジャケットを脱いだ。


「服が溶かされているみたいだ……とにかく、これで僕の目は気にしないでいいだろう」


 その紳士な態度に面食らった紡だが、感謝を告げてすぐに他の菌糸を剥ぎ取った。案の定、鳴の制服は所々が溶かされており、もう半裸と言っても過言ではなかった。


「柊さん、こちらへどうぞ」


 志乃の導きに頷いた紡は、鳴を渡り廊下の階段に横たわらせた。その際に、黒焦げになったラピスラズリの腕珠は力尽きたように水の中へ落ちた。


 ありがとう……ラピスラズリ、お役目ごくろうさん……。


 ラピスラズリを労い、紡は鳴の診察を円香に託した。


「顔色は悪い……身体に反応はない……が、呼吸はしているな。大丈夫だよ、紡、生きているようだ」


 円香の診察通り、綺麗な身体にも外傷は見当たらず、紡はそれを知って頽れた。水の中に浸かることも今だけは気にならず、それと同時に中庭を調べようとしなかった自分を心の中で盛大に罵った。


「紡、蓮華さんが言っていたこと……このことだったのかもしれないな。もしも鳴に腕珠を渡していなければ……今頃は溶かされていたかもしれない……」


「そうだろうね……えっと、彼も放っておいたら危なかったと思うよ」


 紡と志乃に接点はないため、紡は軽く自己紹介した。志乃の方は話せて光栄ですよ、とヘラヘラしていたが、その態度にも声音にも嘲笑の影はなかった。


「その腕珠があったから京堂さんは長時間沈んでいても服だけで持ちこたえていた、という見解で良いんですね?」


「良いと思う。あんたはどっかを溶かされてない?」


「幸いにも。ああ、眉毛とか髪の毛を溶かされたなら最悪でしたね――」


 志乃がおちゃらけたその時、二階の渡り廊下のドアが開く音がした。全員が瞬時に身を屈めたが、頭上の渡り廊下からは慎重な足音が届き、微かな荒い息遣いが聞こえたため、紡は撥ねられたように階段を駆け上がった。


 雪斗がいる。まだ首飾りを持っているかも……。


 紡は足音など気にもせず駆け上がり、西側廊下へ入ろうと背中を向けていた雪斗の千切れたマフラーを掴んで振り返らせた。


「雪斗! 首飾りを――」


 怒鳴りつけてやろうとした紡だが、振り返らせた雪斗の顔に刻まれた血だらけの爪痕を見て思わず飛び退いてしまった。しかし、雪斗自身はそのことを気にしておらず、軽く袖で拭いただけで良しとしているのだ。


「こんなマフラーしてた? 怨霊とのデートはお開きにしたの?」


「お開きにはしてない。ここには紡だけ?」


「鳴も香坂も……みんな一緒だから、あんたが首飾りを渡せば全員生きて帰れると思うんだけど?」


 露骨に嫌悪感を示した紡だが、雪斗の方は全員一緒にいる、という言葉を聞いてパッと明るくなった。


「志乃? まぁいいや、全員いるならよかった……ほんとに!」


 その事実に心の底から安堵した雪斗は、首飾りを躊躇うことなく紡に手渡した。その予想外な豆鉄砲に紡は鳩になったまま言った。


「どういう風の吹き回し? さっきまで頑なに渡すのを拒んでいたくせに」


「みんなを連れて、黒い和服姿の濡れた女を捜すんだ。あれがここの大将だから、その勾玉で封印してやれば片がつく。その後が大事だからよく聞いて……封印したら光の道が出来る。その道に従えば現実に帰れるんだ……絶対に取り残されないようにな」


「質問に答えて」


「……俺と奏にはもう必要ないから……さ」


 俺と……? 


 眉を顰める紡を無視した雪斗は中庭を覗き込んだ。


「ジュリーさん!」


「お前……どうしてここにいるんだよ」


「追いかけて旧校舎に行ったんですよ……これを渡そうと思って。まあ、この空間まで来たのは意図していないですが……」


 そう言って階段を上がって来た志乃は、荒い息遣いのまま胸ポケットから濡れた写真を取り出した。


「意外と年上が好みだったんですね、僕と同じだ」 


 受け取った写真には、奏と家族の姿が写っている。濡れているが、奇跡的にも被害は少ない。


「絵と写真を見つけて理解出来ましたよ。どんな存在に恋しているのかってね」


「変か?」


 胸を押さえながら、大げさに片手を上げた志乃は言った。


「まさか、遠野物語みたいで素敵だと思いますよ? それに、一途なジュリーさんとその某さんが……漂いながら堕ちてゆくのも幸せの一つじゃないかと思いますしね」


「お前……俺のあだ名から連想してるだろ」


「でも、その覚悟なんじゃないんですか?」


 そう言った志乃の肩を叩いた雪斗は、下から駆け上がって来た円香と新一に声をかけた。


「先生、後は紡の指示に従ってください。もうはぐれないでくださいよ? そうなったら帰れなくなる。それと……これは個人的に頼みたいことですが、俺のことは家族に……」


 雪斗は自分で言って口籠ってしまった。


 どう伝えてもらう? 息子さんは霊と一緒になりました……それとも駆け落ちして別の町に行きました……って? 遺書なんて書いてる時間はなさそうなんだけどな……。


 何て告げてもらおう。その良い答えが出なくて唸る雪斗を見、新一は目付きを変えた。


「……まさかとは思うが、俺は帰りませんなんて言うつもりか?」


「それは……」


「駄目に決まってるだろう?! 何を考えている? 君はまだ十七歳の坊やだ、死を意識するなんて十年以上早いんだよ!」


 早口でまくしたてる新一。その目は真剣そのもので、雪斗は面食らったが、奏が消える前に会わなければならない。何が起きるかわからないが、彼女を一人には出来ないのだ。


「でも先生……」


「子供が大人よりも先に死ぬことが何を意味してるか……生徒が教師の前で死ぬことが何を意味してるかくらいわかる年齢だろう!?」


 新一の脳裏によぎるのは、自分への遺書を置いて教室から飛び降りた女子生徒の姿だ。


「その命は君だけのものじゃない……生きてさえいてくれれば幸せだと言ってくれる人たちがいるんだ……! 心中は愛なんかじゃないぞ……たくさんの人を泣かせる死の――」


「先生、すいませんが……両親にはごめんなさいと――」


 時間がない。新一とのやり取りを切り上げようとした雪斗だが、その直後、身体が宙を舞った。雪斗に理解出来たのは、自分の手を掴もうとした新一の手と紡の怒号、志乃の声、そして――自分の身体が乱暴に転がって視界が暗転したことだけだった。


                  第捌幕 完

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