第玖幕 水脈
図工室からキャンバスとイーゼルを抱えて中庭に来た雪斗。小学校はまだ春休み中のため、雪斗以外に生徒の姿は見当たらない。
中庭には小沢の丁寧な手入れを受けて輝く花壇が広がり、春の訪れを感じさせる匂いと植物が行き交っているため、絵を描く場所としてもモデルとしても絶好な場所である。
「よう、うずまさ、元気?」
小沢と共同作業で作った犬小屋から顔だけ出しているうずまさに一声かけてから、池の近くにイーゼルを立てる。絵を描くのが好きな雪斗にとっては、月二回のクラブ活動だけでは物足りず、こうして休日にも学校を訪れている。図工の教師には許可を得ているため、特別に鍵を貸してもらっているのだ。
絵の具の準備をし、キャンバスと向かい合い、さぁ絵を描こうとした時、ふと視界の隅を黒い影が横切った。一瞬とはいえ、動いた黒い影が気になった雪斗はうずまさを見た。しかし、うずまさはひっくり返ったまま蝶と戯れているだけで反応はしていない。結局は勘違いだったのだ。
何故うずまさを見たのかというと、数日前にうずまさが池に向かって狼のような剣幕で吠えていた時があったからだ。原因は不明で、水島や小沢たちが池を調べても何も進展はなかった。それを見た雪斗は、うずまさが警戒心の強い番犬属性なんだと勝手に思ったからだ。
「うずまさ隊長、異常なしです」
敬礼した雪斗は筆を取り出し、絵を描き始めた。一ヶ月前から描いているその絵は、池を中心に、溢れた水が花壇の植物たちに力を与えてキャンバスいっぱいに花が咲き乱れるもの――。
誰かわたしの名前を呼んで。
雪斗は手を止めた。水を溢れさせる池の奥、そこに髪を靡かせる深紅の和服の少女が描かれていたからだ。
「あれ……? こんなのいつ描いた?」
誰かにモデルを頼んだ覚えはない。だが、その少女のタッチは間違いなく雪斗のものだった。いつかに誰かがそこにいて、無自覚で描いたのかもしれない、と答えを出した雪斗は現実の池を見――。
そこに少女がいた。長い黒髪を靡かせる深紅の和服の少女――雪斗が描いた少女と全てが同じだった。唯一の違いは動いているかいないかだ。
無意識に描いていた自分にも驚いたが、そんなことよりも彼女がいつからそこにいたのか、それが一番の驚きだった。声をかけるよりも先に思うのは、いつの間に、の感情ばかりで、何も出来ないまま雪斗はしばらく見つめていた。
すると、少女はその視線に気付いたのか、やおら振り返ると雪斗を見た。だが、それは見られたと雪斗が思っただけで、少女はただ振り返っただけだ。
少しの間、雪斗は少女を見つめた。同級生ではないが、上級生かどうかもわからない。知りたい欲求が我慢出来ず、雪斗は意を決した。
「君は……誰? いつからそこにいたの?」
その呼びかけに少女は驚いたように身体をビクリとさせて雪斗を見た。今度は勘違いではなく、少女は確実に雪斗と目を合わせた。
「お前……わたしのこと視えるの?」
「うん。見ない顔だね、そんな所で何をしているの?」
「ここって……どこ?」
「え? 朧小学校の中庭だけど……」
奇妙なことを訊くな……自分で来たんじゃないの?
「朧小学校……ああ、そういうことか」
そう言った少女は納得したように一人頷いた。
「そっか……聞いたことがないからずいぶん月日は過ぎたね」
少女は空を見上げ、遠い目をした。もしかすると前まで住んでいたのかもしれない。
「君、どこの小学校?」
「しょうがっこう? 何それ? お前……名前は?」
だからお前って……。大人びて見える容姿とは違い、口は悪いようだ。それに口調はどこか〝つまらない〟とでも言いたげに聞こえる。
「……俺の名前? 沢田雪斗……」
「ふ〜ん……変な名前」
さいですか。雪斗は肩をすくめた。
「まあ……変わった名前とは言われるよ。君の名前は?」
「奏」
「……へえ、いい名前だね。家は近く?」
奏は実習棟をちらりと見て言った。
「すごく近く」
はて、この近くに家なんてあったかな?
「何をしていたの?」
「何も、ずっとここにいたけど声をかけてきたのは雪斗が初めて」
ああ、春休み中だしね。
「そうなの? そんな格好をしているから気になってさ」
「格好……。雪斗にはわたしがどう見えているの? 髪は?」
何だ? 急に……。
「えっ? あ……黒くて、長いよ。うん、すごく綺麗だ……」
そう言うと、奏は自分の髪に触れて微笑んだ。その笑みは先ほどまでの気だるい表情をしていたとは思えないほど穏やかで、可愛いものだった。思わず面食らい、雪斗は少し顔をそらした。
「……そう、お姉様が梳いてくれた髪だもの。顔は?」
「えっ……顔?」
仲良しの女子生徒は多いが、雪斗は嬉しそうに近付いて来た奏を見てどぎまぎのまま後退りした。
「教えて、どう見えてるの?」
「えっと……うん、目は……切れ長で、少し気だるい――アンニュイってやつかな。肌は色白で、雰囲気は……大人っぽいかな?」
気恥ずかしさで汗が噴き出す。祖母からもらった手ぬぐいで顔を拭きながら、どぎまぎする姿は、奏にはさぞ滑稽に映っただろう。しかし、彼女は笑うことなく口元に指を当てる。
「あんにゅい……? 異国の言葉?」
髪に顔なら次は……。
「それと、すごく似合っている紅い和服。綺麗だよ……本当に」
最後の言葉は思わず、自分でも恥ずかしくなるほど心がこもってしまった。それに気付いたのか、奏は少しだけ頬を紅くして顔をそらした。
「ん……そっか。雪斗にはわたしがそう視えるんだ。そっか……」
奏は微笑んだまま、胸に両手を当てた。
互いに紅くなったまま向かい合う。何か言おうと思った雪斗だが、良い言葉が出ずに頭を悩ませていると、とある声が沈黙を破った。
「あれ? うずまさが急に吠えだした……」
さっきまで蝶と戯れていたはずのうずまさが、奏に向かって吠えている。池に向かって吠えていた時と同じように。
「あの犬も……わたしが視えるんだ」
「ごめんね、いつもは大人しいのに……どうしたんだろう?」
首をかしげた雪斗はうずまさを宥めようとしたが、奏がヒョイ、と覗き込んで来たため驚いて立ち止まった。
「それで、雪斗はここで何をしているの?」
うずまさのことなど意に介さず、奏は覗き込んだ雪斗の顔に唇を近付けた。それにも驚いた雪斗は情けない声をあげたのだが、奏の方はからかいの戦果に満足げな笑みを浮かべた。そのからかいに少しだけムッ、とした雪斗はかぶりをふった。
「……俺は絵を描こうと思って中庭に来たんだ。うずまさにも会えるし、中庭が綺麗だから絵のモチーフにぴったりだから」
ちらりと絵を見る奏。睨みつけるように目を細めた後、雪斗に視線を向けて言った。
「……またここに来る?」
「えっ?」
雪斗は思わず彼女を凝視した。思ってもいなかったその言葉に、しどろもどろになりながらも答えた。
「う、うん。絵を完成させる必要があるからね」
雪斗……わたしハ……アなたのコトが本トウに好きダッた。
ワタシをくれた大切ナ人……。
ケド……ワタシはオンリョウ。モウ……ワタシハイキマス。
タダ……ブツケレバいい……。
サヨウナラ……ユキト。
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