第漆幕 疑懼

「奥の階段から一階へ……!」


 また痛みだした胸を押さえながら叫んだ雪斗は、先を走る円香に遅れる形で西側階段を目指していた。必死に四肢を動かすが、少しずつ痛みが鋭くなっていく肺は雪斗の歩みを確実に遅くしている。


 なんだってこんな時に……!


 長い廊下を走る二人の背後には、刃で空気を斬り裂く音を従えた包帯男がおり、裂けた口からは蛇舌と狂気の雄叫びが発せられている。


 奇しくもその雄叫びが肺の痛みでバランスを崩しそうになる雪斗の意識を保たせ、身体を動かす原動力になっていた。迫りくる死への恐怖からか、雪斗には廊下が異様に長く見えていたが、実際は彼の足が少しずつ遅くなっているだけだ。


 先に西側階段へ辿り着いた円香は一階と周囲を照らして安全を確保すると、雪斗に向かって走り出したが――。



 ギッ……ギギィ!!



 走り出した円香を引き止めるように、彼女の近くで何かが大きく軋んだ。襲撃を警戒して周囲を見渡した円香だが、音の出所が包帯男の奇声でわからず――雪斗を視界から隠すように下り始めた防火シャッターをすぐに把握出来なかった。


「制御盤は!?」


 下る防火シャッターの側に制御盤らしきものはあったが、南京錠で厳重に閉じられているためどうすることも出来なかった。


 防火シャッターが下りてしまえば、逃げ場は真横の五年生教室しかなくなる。


 間に合え……!!


 最後の気力で足を踏み出す。悲鳴をあげる肺は止まるよう執拗に叫ぶが、それを振り払い雪斗は円香に向かって走る。


 あと少し、あと少しで下を潜れる――。


 しかし、乱暴に踏み込んだ床が砕けてしまい、雪斗は前のめりに倒れ込んでしまった。


 それを見た円香は下る防火シャッターに手をかけたが、薄っぺらさと釣り合わないほどの重量に思わず手を放してしまった。


「何で……沢田! 起きて走れ!!」


 二兎追うものは、それに従った円香は防火シャッターを少しでも止める道を選んだ。雪斗を起こしに行けば防火シャッターは確実に下ろされてしまう。しかし、雪斗の方は立ち上がる素振りもなく、倒れたままの彼に追い付いた包帯男は太刀を振り上げ――。 


「このっ……馬鹿垂れが!!」


 その怒号を吐き出しながら紡は防火シャッターの下から上半身を出すと、雪斗の腕を掴んで無理矢理中へ引きずり込んだ――瞬間、雪斗がいた場所には切っ先が突き立てられた。


 雪斗の回収を見た円香は手を放した。防火シャッターは音を立てて下り、三人の前から包帯男の姿を消した。満たされなかった欲求を求めて吼える包帯男だが、やがて静かになった。


 何も聞こえなくなったことに安堵した円香は、雪斗の側で座り込んでいる紡の頭に手を置いた。


「やっと会えたな、紡」


「……円香。もしかして……?」


「まったく……ずいぶんと校舎を歩かされたぞ。だけど……これでわたしも捜される側になったな。まさか中を覗いただけでこうなるとは思わなかったよ」


「……ごめん。私の所為で……」


「紡の所為じゃないだろう? 謝る必要なんてないさ。それより……蓮華さんがわたしに腕珠を外さないようにと警告してくれたが……そういうことか?」


「お母さんが? うん……そういうこと、まつろわぬものがいるし、怨霊もいる」


「そうか、黒澤先生が蓮華さんから紡への言伝を持っている。合流出来たら訊いてみてくれ。それと……沢田には話したんだな?」


「うん、ある程度はね。……だけど、私はこいつがここにいてくれてよかったよ」


 紡は雪斗を睨んだ。肺が痛むのか胸を押さえながら深呼吸をしている。苦しいだろうが、〝偶然〟の病気ではないのだから、まだ逝くことはないだろう。弱っている人を問い詰めることはしたくないが、言わずにはいれない。雪斗が少女と交わした愚かな約束を。


 紡は雪斗の前に屈み、鋭い視線を向けた。


「雪斗、苦しいだろうけど今は答えてもらうわ。約束……本当に覚えていないの?」


 その問い詰めに対し、雪斗は苦しげな表情の中に微かな苛立ちを浮かべた。


「……覚えていないよ。倒れてから……それだけは思い出せてない。思い出せないから……ここに来たんだよ。奏に会いたくて……」


 氷海奏か……こいつがのぼせている相手は。


 紡はかぶりをふって円香を見た。


「鳴を捜そう。こいつがいればここから出られるから逃がさないようにしないと……」


「沢田が? 彼も霊能力者なのか?」 


「違うけど……連れて行けばきっと――」


「必要なのは俺じゃないだろ……」


 雪斗は話を遮ると、自身の胸をポンポンと叩いた。


 紡は最初から刺々しかったが、雪斗に敵意を向けることはなかった。だが、今の彼女から感じるのは明確な敵意で、雪斗は彼女の口から約束と自身が必要、という言葉を聞いて敵意の意味を理解した。


 さすが霊能力者。どこで気付いたのかわからないけど……知りたいことは二つあるはず……。 


「……必要なのはこっちじゃないか?」


 胸から首飾りを出した。桐生が言うには、まつろわぬものを封印出来るほど強力な勾玉とのことだ。


 予想通り、紡は目の色を変えた。


 まずは一つ……。


「そこまでわかっているなら……渡して。それがこの状況を打開出来る唯一のものだと……知っていて言わなかったんでしょ……」


 紡は立ち上がり、手を差し出した。


 柊さんは無表情を努めているようだが、言葉の調子と目付きが、渡さないと力づくでも奪うわよ、と告げている。俺だってバカじゃない、過去を見て勾玉の力を知った。確証なんてないが、これをどうにかして使えば現世に戻れることだってわかっている。だけど……。


「……これは奏のものだよ。必要なことはわかっているけど……渡せない」


 紡の唇が歪む。


「……怨霊と乳繰り合うのは楽しい? 自分の状況わかってんの? なにが奏のものよ。怨霊と――」


「奏は怨霊じゃない!」


「見てくれだけね。本性はここにいるまつろわぬものと何ら変わらない。無害な霊は何もわからずに彷徨っているか植物になっているかの二つしかないの。だけど、あの怨霊は明確な意志があって、この場所まで追っかけて来た……。あんたを一緒に――」


 紡ががなった瞬間、円香が手を添えていた防火シャッターから刃が突き出され――円香はその場から殴り飛ばされた。


「円香!!」


 彼女の血を吸った刃はすぐに引っ込んだが、防火シャッターの向こうからは血の臭いに興奮した包帯男の雄叫びが入り込んで来た。


「くそっ! まだいたのか……!」


 胸を押さえながら後退りする雪斗。


 紡も円香の身体を引きずって防火シャッターから離れた。円香の肩からは生温い血が流れており、床に紅い筋を残した。肩を貫かれたと思っていた紡は、慌てて彼女の肩を確認し――。


 ああ、神様ありがとう。


 円香は肩を貫かれたわけではなかった。幸運にも刃は肩の上層部分の一部(それでも十分痛むだろうが)を斬り裂いただけで、意識もあった。


「わたしは大丈夫だから……早くここから……」


 円香は肩の激痛に耐えながら、二人を促した。その言葉で我に返った紡は、彼女を支え起こしながら辺りを見渡した。だが、紡にはこの校舎の地理はない。


 どこへ行けば……。


 その間も防火シャッターが悲鳴をあげるたびに刃が突き刺され、今にも崩壊しそうに揺れている。


「こっちだ……!」


 円香を紡から引き継いだ雪斗は、そのまま西側階段を使い一階へ下りた。


 紡は先行し、一階西側廊下に何もいないことを確認した。階段に戻り、雪斗と協力して円香を支えたが、水で動きが遅くなること、シャッターが崩壊する音が聞こえたことで思わず声を出してしまった。


「このままじゃ追いつかれる……!」


 周囲には二年生の教室だけ、一年生の教室は奥、隠れられるような場所はない。すると、何を血迷ったのか雪斗は二年二組の手前で立ち止まった。


「保健室の場所はわかってるよな?」


「はっ? わかってるから、早く歩いてよ!」


「少しの間……隠れてて。俺に引き付けるから……」


 雪斗は二人を二組の中に押し込み引き戸を閉めた。紡が開けないように引き戸を押さえたまま包帯男を待った。


「ちょっと! あれと殴り合いなんて――」


「黙ってて……!」


 案の定声をあげた紡を咎め、雪斗は横に投げやられた机の中から汚い野球ボールを取り出した。幸いにも痛んでいた胸は雪斗の覚悟を応援するかのように弱まり出した。


 良い兆候だ……来いよ、クソッタレが……!


 その挑発と期待通り、乱暴な足音と松明の光が一階に下りて来た。そして、


「おい! この間抜け! 愛しい俺はここにいるぞ! ダーリン、俺が欲しければ捕まえてみろ!」


 そう叫んだ雪斗は野球ボールを渾身の力と憎しみを込めて投げつけ――。


 やった、ざまあみろ!! 


 雪斗の手を離れた野球ボールは、吸い込まれるように包帯男の額に直撃し、ゲームのように激しくのけぞらせた。


「硬式ボールだ。ちっとは応えたか、このクソッタレ!」


 そう喧嘩を売ったのがよくなかった。


 包帯男は即座に体勢を整え、雪斗を睨んだ。裂けた口をガバッと開き、天に向かってキーキーと憤怒の咆哮をあげた。


 へぇ……? 人間に反撃されたら腹が立つんだ。


 狂ったように走り出した包帯男に怯みながらも無理矢理ニヤリとした雪斗は、そのまま教室を離れて正面階段から再び二階へ駆け上がった。


 雪斗は包帯男の考察として、パトロール型なんじゃないかと睨んでいた。待ち伏せのようなテクニックは出来ず、とにかく動き回って猪突猛進のまま獲物を追い回すタイプなら、出会す危険と直接的な殺傷力が高くとも、単純で行動を操りやすいと。


 踊り場の途中で振り返ると、包帯男は水面を割りながらしっかりと追いかけて来てくれた。紡と円香のことはすっかり忘れたようで、今は雪斗に夢中のようだ。胸の痛みも嘘のように治まり、スピードを上げた雪斗は実習棟への渡り廊下に飛び出した。


 まだ出来るなら……あの包帯野郎は絶対に気付かないはずだ……!


 雪斗は手摺に近付き、教室棟側にある三つの雨樋を確認した。地面から屋根にまで伸びる雨樋は意外にも頑丈で、在校時のかくれんぼで雪斗はその頑丈さに何度も助けられた。


 心の中で静かに祈りながら手摺に足を掛けた雪斗は、雨樋に向かって勢いよくジャンプした。待ってくれていた雨樋を力強く掴むと、一瞬大きく軋んだが、今の体重にもなんとか耐えてくれた。そうして七年前と同じように、雨樋の間に身を隠して包帯男を待った。


 うまくいけば俺を追いかけて実習棟へ行くはず……。


 すると、粗暴な足音が耳に届き、包帯男がドアを蹴り破って現れた。周囲を窺う様子もないまま、猪突猛進で実習棟のドアへ近付いた。


 そのまま行っちまえ……!


 しかし、包帯男は急に立ち止まった。


 何をしてる?! 早く行けよ……!


 焦燥の雪斗などおかまいなしに立ち止まっていた包帯男だが、突然、頭を傾げると鼻をヒクヒクと動かし――壊れたかのような勢いで実習棟に入って行った。


 ご飯の時間か……?


 馬鹿な考えとは裏腹に、雪斗は少しだけ時間を置いて渡り廊下に戻った。包帯男が見せた奇妙な動きが気になり、鼻をヒクヒクさせてみたが、黒い水が吐き出す最低な臭いしかしなかった。


 きっと誰かが人魂でも焼いているんだ。もしくは自分の臭いに退散したとか……。


 雪斗はかぶりをふってバカな考えを払った。気になるなら後で聞いてみればいいだけのことだ。保健室へいるであろう紡と円香に合流しようと教室棟へ戻ろうとした雪斗――の背中に誰かが抱きついた。


 それは冷たく、小さい身体の持ち主だ。


「やっと……来てくれたね」

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