第陸幕 頑冥

 雪斗を宿直室へ放り込んだ円香は、室内の安全を素早く確保し、叩き閉めたドアに寄り添うと廊下へ耳を立てた。


 十秒……二十秒……四十……二分……。


「五分か……もう追いかけて来ることはないみたいだな」


 安堵の息を吐いた円香だが、警戒を解く気は毛頭なく、忍者や軍人のように身を屈めたまま雪斗の隣へ移動した。対して雪斗の方は畳に座り込んだまま一言も発しなかったため、円香はその聡明さに小さく感心した。


「とりあえず撒けたようだ。もう話しても平気だろう。大声は困るけどな」


 懐中電灯を点けた円香は微かに震える両足を叩き、怖じ気づく自分の弱い心に喝を入れた。初めて対峙した怨霊に恐怖を感じたのは確かだが、紡から仕入れた話や志乃からの余計な入れ知恵がなければ冷静な対処なんて出来なかっただろう。


「得た知識と経験に無駄はなし……か」


 紡に感謝しつつ、円香は逃げ込んだ宿直室を改めて見回した。部屋の中の半分は畳敷き、開いた押し入れからは汚い布団が飛び出し、隅にはこたつと古いストーブが置かれている。中を確認せずに飛び込んだ場所としては、なかなかの部屋を選んだようだ。


「宿直室というやつだな。初めて見たよ。君とも初めてだな、沢田雪斗」


 堂々した姿勢に加え長身のモデル体型、中性的な顔立ちで王子様のように他者と接することから、男子はともかく円香に惚れている女子生徒も多い。紡がやっかみを受ける理由の一つは彼女と交流があるからだ。


「同級生ですよね……?」


「そうだけど? ああ、見た目のことか。この状況なんだ、外見を気にする必要性は低いと思うけどね」


 そう言いながら汚れたストーブの石油を調べる円香だが、中身は空っぽだった。


 空っぽのストーブに落胆する円香を一瞥し、雪斗は気付かれないほどの小さな溜め息をついた。親しい関係じゃない人が増えたことに内心辟易したが、彼女はヒステリーを起こすタイプじゃないことが唯一の救いだった。人生の二周組のような風格は苦手だが、雪斗はとりあえず彼女に倣って室内を物色してみた。


「君は……ここの卒業生らしいじゃないか」


「あれ? 言いました?」


「同期に敬語の理由はわからないが、志乃から聞いたよ」


「ああ……志乃ならベラベラしゃべりそうですね」


「あれの性分だから仕方ない。それより、卒業生なら秘密の抜け道とかを知らないかい? 例えば……校長室から外の防空壕へ繋がっている、とか」


「この校舎は全部が遊び場でしたけど……さすがに抜け道はちょっと。校内の見取り図なら把握してますよ。ただ……二00一年までですけどね」


「そうか。それでもわたしや紡とは違って土地勘があるなら助かるよ」


 円香と志乃は地元民だが、小学校は別だから朧のことは知らないのだ。


 そんなことを話しながら二人は室内を漁り、雪斗は文机の小さな引き出しを開け――中からくしゃくしゃになった宿直日誌を見つけた。記入された最後の日付は二00二年の一月二六日のようだ。


「ほう、日誌か」


 いつの間にか隣に来ていた円香が促す。


「読んでみるよ」


 そのまま最後のページに目をやった。他のページは難なく読める字だったのだが、最後だけ殴り書きされたような惨状のため、判読にはずいぶんと苦労したが、内容はこうだ。




 これを書いているのは二十三時三分。先週と同じ時間だ。


 時計のように今夜もまた、それが聞こえてきた。初めて聞いたのは、確か今月の十三日だった気がする。


 最初は裏山に住み着いた野良犬の鳴き声かと思っていたが、それは違った……。私は見てしまった。夜中の中庭を徘徊していた化け物を。ほかの先生たちにも話したが、笑うだけで誰も信じてくれなかった。


 全身ずぶ濡れで、腐臭を放つ黒い液体を滴らせている。まるで映画に出てくるモンスターのような咆哮をあげる獣だ。


 今夜も眠れない。あの獣の咆哮は私にしか聞こえないらしい……宿直は当番制なのに、ほかの先生は聞いたことがないという。


 獣というと……中庭で飼っていたうずまさという柴犬はどこに行ったのだろう。水島先生が消えた日にいなくなってしまったらしいが……。


 たった今、廊下でどこかのドアが勢いよく開いたような音がした……。




 日誌はここで終わっている。他のページも調べてみると、水島や日向、小沢や生徒たちが事故死、不審死したことが書いてあった。その事実を知った雪斗は、目と口も吐きそうになるのを必死で堪えた。


 うずまさは、まだ雪斗が在校していた時に救助された捨て犬だった。氷海山に入って同級生らと遊んでいた雪斗は、段ボールの中でびしょ濡れになったまま怯えていた柴の子犬を助けた。飼い主が殺すつもりだったのかはわからないが、池に落ちてもおかしくない危険な状況下で、雪斗は必死になってうずまさを助けたのだ。次の日から、うずまさはクラスや学校中の人気者となった。それが雪斗とうずまさの出会いだ。いわば彼は命の恩人なのだが、うずまさはちっとも懐かなかったため、腹が立ったこともあったが、まつろわぬものに殺されていいはずがない。


 殺されて怨霊にされてしまった水島たちを思い、その怒りで日誌を投げ付けた雪斗だが、それで事態が好転して怒りが治まるわけでもなく、苛立ちのままかぶりをふった。


「気はすんだかい?」


 円香の淡々とした声で我に返る雪斗。


「このドールハウスにいる幽霊たちの正体と……ボスはわかった……」


「そうか。君の……知っている先生たちばかりか」


「うん……」 


 どうすればいいのかわからないけど……あの化け物女め……!


 母校を祟り校舎に変貌させたのはあの化け物女だと判断した雪斗だが、だからといって彼にはどうすることも出来ない。辛うじて希望を抱けるのは勾玉くらいだが、使い方なんてわからないうえに、効くかどうかすらわからないのが現実だ。


「……そういえば、今更だけど速水さんは何でここに?」


「鳴と紡を捜してここに来た。本当はもう一人いたんだが……目を覚ました時にはわたしだけだった」 


「ああ、紡ならさっきまで一緒でしたよ。京堂のことを捜しに来たと言っていましたが……もしかして擦れ違いだったんですか?」


 雪斗がそう言うと、円香は無表情だった口元を少し歪ませた。


「二人とも校内にいると考えて間違いなさそうね」


「だけど、捜そうにも校内には怨霊とまつろわぬものがうろついている……下手に動けないし……どうしたら……」


「ほう? 紡がまつろわぬものについて君に話したのか?」


「それもありますけど……別の視点から知ったことも――」



 グガアァアアアアアアァアアーーーーーー!!!



 突然、校舎全体を震わすほどの咆哮が轟き、雪斗は思わず立ち上がった。


 うずまさ……?


 日誌に書かれた凶暴な獣、それが頭をよぎった。


「今の咆哮……心当たりが?」


 円香は無表情。鋼の心臓の持ち主らしいが、一瞬だけ眉を顰めた。


「いや……心当たりはないけど、胸騒ぎがする」


「そうか、わたしは二人を捜しに行くけど……君はここに隠れているかい?」


「捜しに行く? 今の咆哮を聞いたのに?」


「ああ。二人が校内にいるならわたしは捜すよ。紡のおかげで無力なわたしでも少しは動けるさ」


 円香は袖の上から腕珠に触れた。


 危険に自分から飛び込むことも辞さない円香の態度に、雪斗は感嘆と同時にかぶりをふった。化け物の巣窟の中を彼女は恐れるような素振りも見せずに捜しに行くと言ってのけた。豪傑なのか無謀なのかはわからないが、雪斗はふと、あることに気付き――すぐに行動を決めた。


「待って、俺も行くよ。校内には精通しているし……案内がいるだろ? どうせここでじっとしていても……危険だろうからさ」


 雪斗は円香の返事を待たずにそそくさと廊下に飛び出した。円香もその背中に続き、ドアを静かに閉めた。微かに開いた窓から感じる視線に気付かないふりをしたままだ。


「なるほど、あの視線に気付いていたか」


 感心したように言う円香。彼女も気付いていたのだ。


「眉を顰めた時には気付いていましたね……?」


「……あれだけ熱心に覗かれていたら誰でも気付くさ」


 雪斗が感じたのは視線だけだったが、円香は出歯亀相手をハッキリと見ていた。咆哮が轟いた直後、雪斗が背にしていた窓が少しだけ開き、ここが二階であることを無視した何者かが中を覗き込んでいたのだ。


「覗いていたのは君の友達か?」


「さぁ……だとしたら遠慮しておきますよ。円香さんへ譲ります」


「思い出したように敬語が出るみたいだが……」


「ああ、速水さんは同級生に見えないんですよ」


 そう言われた円香は小さな声で笑った。


「老けているってことかな?」


「大人びてるってとりましょうよ」


 二人は笑った。その優しげな笑みと友達想いの姿勢に雪斗は彼女への評価を改めた。冷淡というわけでもないし、ロボットでもない。ただクールなだけなのかもしれない。


 円香の存在に安堵した雪斗は、紡と最初に調べようとしていた図書室へ向かうため、これからの進路を彼女に説明した。

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