嫌悪

「紡! 一階だ、下のドアから来い!」


 雪斗からの大声をドア越しに聞き取った紡は、側の東側階段を駆け下りた。


 二階と変わらない一階東側廊下を素早し見渡した紡は、渡り廊下へ通じるドアを押したが、彼女の力ではビクともしない。


「もう! 引き戸じゃないから無理だっつーの……!」


 開かないドアを舌打ちと一緒に蹴り付けた紡は、額から垂れる血を無視して体当たりしたが、助走も付けられないなら突破はますます不可能だろう。開くまで体当たり、雪斗が向こう側から開ける、その二つが候補にあがったものの、もう雪斗は死んでいるかもしれない、という想像も拭えないため、周囲を見渡した末に見つけた中庭へ通じる非常口に向かった。


 外に出られれば、陰気臭い校内よりは幾分マシかもしれない。そんな希望と校舎の全体を見渡せる位置の良さに期待した紡は早足でドアに近付いたが、その直後、背後からドアが叩き開けられた乱暴な音は響き、ギョッとした彼女は振り返り――ドアを開けたのは鳴かもしれない、という考えはすぐに吹き飛ばされた。


 何なの……こいつ――。


 ちらちらと揺れる光の中、浮かび上がるのは骸骨のように細い獣。全身が腐っているのか、所々にヌメリした体液に包まれた骨が見える。何故か左前足は蠢く髪の毛が大量に絡み付いている。右耳は無く、首には動くたびにブラブラと揺れる肉と赤い首輪があり、飼われていた犬であることは辛うじてわかった。だが、その巨体は犬とは到底思えない。


 化け犬は紡に気付くと立ち止まり、黒く淀んだ目で彼女を捉えた。微かな唸り声をあげ、左足をピクリと動かし――。


 紡は走った。


 背後からは飛び散る水飛沫と凶悪な顎がガチガチと噛み合される音が響き、紡は悲鳴をあげた。もしドアが開かなければ、あの化け犬にばらばらにされる……。


 開いて――。


 縋るように把手を掴むと――ドアはあっさりと開いた。ドアごと黒い水を押しのけ、転がるように中庭へ飛び出した紡はバランスを崩して盛大に水の中へ倒れ込んでしまった。嘔吐を促す水が大量に入り込んで来たことに嗚咽するが、それでも一心不乱にドアを叩き閉めた。だが、それは水島の怨霊と同様に対した足止めにはならない。すぐさま西側廊下に通じているドアへ走った。


 多少の抵抗はあるが、浸水したドアが開くことに違和感を抱きながらも紡は中庭を駆け抜けた。その途中、黒い霧の中に浮かぶ白い大きな帽子に気付いたが、そんなものは無視して西側廊下へ飛び込んだ。 


 無事に開いてくれたドアに背中を預けたまま、紡はずるずるとへたり込んだ。墓場のように静まり返った廊下に響く紡の荒い息だけが、命の存在を証明しているような状況だ。


 怖かった……ほんとに……。


 へたり込んだ身体は産まれたてのように震え、一生分の恐怖を味わった脳みそは震えることしか指示を出せず、もしも今襲撃されれば彼女に抵抗する力はないだろう。それは紡も承知していたが、ありがたいことに中庭からも廊下からも化け犬が近付く足音はしなかった。撒けたのか、化け犬自身の判断で追跡を止めたのかはわからないが、しばらく身体を休めると震えが治まってきたため、紡は思い切り囁いた。


「旧校舎なんて……大嫌い……!」


 その毒づきが悪かった。中庭から暴れるような水音が響いたため、飛び上がった紡は西側階段を駆け上がった。


                  第伍幕 完

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