名前

 沈む……沈んでいく……。


 暗い水の中をたゆたう己を形作るものは次第に溶け始める。どこからが自分であり、どこまでが他者なのかすらわからないままに奏は落ちていた。伸ばされた腕は掴むものを求めず、重たい身体に誘われるまま意識すらも溶け始めたその時、



 奏……。



 奏。それは自分の名前。氷海奏という存在を証明する大切なもの。



 誰……? わたしを呼ぶのは……誰……?



 何も掴もうとしなかった両手、何もしようとしなかった両腕を動かした。



 奏……。



 誰……? わたしはここにいる……ここにいるの……。



 縋るようにその声へ手を伸ばした。それでも何も掴めない。



 誰か……もう一度……もう一度、わたしの名前を呼んで――。



「奏……大丈夫?」


 掴んだもの。それは詩の手だった。


「もう……心配したんだからぁ……」


 奏を不安げに見つめていた詩は、彼女が掴んだ手を頰に寄せると泣き出してしまった。死人のように冷たい手に寄り添った涙は奏の頰にも人間の温もりを分け与えた。


「わたし……なにしてたの……」


「胸が痛いって……そう言った途端に倒れたの」


「ああ……そうか……」


 奏は自分の胸に触れた。心臓の動きは落ち着きがなく、肺の痛みは……ない。むしろ何もないような気さえした。まるで、肺が役割を放棄し、眠り込もうとしているような感じだ。思えば呼吸が重たく、身体の方は妙に軽い気がした。


「奏……桐生様が従者の方々と一緒にお医者様を呼びに行ってくれたから……もう少しがんばって……」


「お姉様……医者には無理だよ……もう……いいから……」


「それでも……何かしらの進展はあるかもしれないじゃない」


「ううん……もう……いいの。それよりもお姉様……わたし……夢を見ました」


「……夢?」


「恐ろしい夢でした……あれは……人じゃない……」


 話すことも身体に負担だった。一言一言が自身の命を削ることの引き換えで口に出来ているんじゃないかと思うほどだ。だが、それでも奏はしゃべるのを止めない。


「村の神隠し……関わって……いるような……気が……」


「奏、今はしゃべることよりも身体を休めて。……その夢のことは後で聞くから。お父様と話してくるね」


 待って……。


 立ち上がろうとした詩の腕を掴んだが、その手はすぐにほどけてしまった。掴む力すらない自分に驚き――途端に母の姿が脳裏に刺さった奏は起き上がろうとしたが、それすらも出来ないまま、沈黙していた肺に引き倒されてしまった。


「奏……大人しくしていて……」


 詩にも布団へ戻されてしまい、奏は縋るように手を伸ばした。


 ひとりは、いや……。


 言葉として発せられたかすらも怪しい訴えだったが、それに気付いた詩は僅かに考える素振りをし、静かに文机へ向かった。


 双子として部屋の左右にシンメトリーを築いていた文机の中で、唯一違ったのは小さな引き出しに付けられた鍵だ。詩はその鍵付きの引き出しを解放し、中から藍色の巾着を取り出すと奏の側に座った。


「予定より少し早いけど……これをあげるわ。お母様が、時期が来たら奏に渡そうとしていたものよ」


 詩は中から二つの耳飾りを出し、一つを奏の右耳に付けた。


「……これ……は……?」


「これは響石きょうせきの耳飾り。もう一つは大切な人の耳に付けてもらうものよ。遠く離れていても、二人の聲が聞こえますように……って願いを込められて作られた耳飾りなの」


「……じゃあ、もう一つ……おねえさまに……。わたし……ひとり……はいや……」


「私もお母様からもらった時、そう思ったわ、奏に渡そうかなって。……でも駄目よ。これは私たちの好い人に渡さなきゃ……ね?」


「いい……ひ……と……?」


「そう、奏にとって何よりも大切な人に――」




 奏?


 我に返った雪斗。気付くと映写機は止まっており、視聴覚室に音を齎すものは一つも無くなっていた。それは懐中電灯も同じで、慌てて起動させた雪斗はその光を伴って恐る恐る映写機に触れてみた。さっきまで動いていたはずだが、今は微塵も反応を示さない。


「フィルムが……」


 フィルムが無ければ何も映らないことは雪斗も知っている。知っているからこそ、フィルムがセットされていない光景に唖然となった。これが噂に聞く白昼夢のような経験をしていたんだろうか、と首を傾げたが、今はそんなことよりも、


「氷海……奏……氷海奏……あの女の子の名前は氷海奏だ……!」


 思い出した。何よりも思い出さなければいけない名前を全て思い出した。


 雷に打たれたような衝撃を受け、雪斗は思わずその場で右往左往してしまった。


 おい……思い出したから何なんだ? この状況を打開出来るようなことなのか?


 自分の冷静な声も理性まではなかなか届かず、室内を何回も往復してようやく自分の状況が好転していないことを受け止められた。


「そうだ……名前を思い出したのはともかく……白昼夢で見たのは確実に奏の過去と化け物の正体だ。かなり非現実的なことだけど……この状況ならもう何でも受け止めるしかないと思うし……」


 冷静な声が届いたからといっても、雪斗自身が冷静になれたわけじゃない。ベラベラとしゃべりながら自分の気持ちを落ち着かせようとするもあまり効果はなく――。



 やっと……わたしの名前を呼んでくれたね……。



 背後から抱きしめられたような感触と囁くその聲が、一瞬にして雪斗の思考を落ち着かせた。聲の主が誰か、そんなことはもう雪斗にとって愚問でしかなく。振り返らないまま、


「氷海奏……やっと……思い出せたよ――」


 振り返ろうと顔をあげた雪斗は――スクリーンを背にして立つ〝濡れた女〟と目が合った。


「はっ……?」


 あまりにも不意で、あまりにも突然な会敵に雪斗は思わず目玉を落としてしまった。


 対して濡れた女の方は、ベチャリと張り付いた髪の毛の隙間から覗く深紅の隻眼で雪斗を捉えると、この世の現象とは思えないほどの蠱惑を纏った笑みを浮かべると、


 サア……イッショニトケマショウ。


 ヌメリと唇を這う舌と微笑みを連れて両腕を広げると、雪斗に向かって歩き出した。ずぶ濡れでも美人ではあるが、男を魅了する、という意味をはき違えたようなアプローチだ。加えて、雪斗の反応を楽しんでいるかのようにわざと歩みを遅くしている。


 俺のことなんか蠅程度って……?


 妖しい美貌の下から吐き出されるあからさまな嘲笑に対し、一瞬とはいえ怒りが恐怖に勝った。


 こいつは村を何カ所も潰したまつろわぬものだ……桐生が言っていたことが真実なら……。


 雪斗は勾玉を制服の上から握り締めた。しかし、どうやって使えばいいのかわからない。投げつけるのか、呪文が必要なのか、決めかねていると――。



 雪……行って……!



 また奏が耳元で囁いた。その囁きに従い、雪斗は迷うことなく視聴覚室から飛び出した。そうして中央階段横にある男子トイレと女子トイレの手前を通り過ぎた時、一階から響いた大きな水音が雪斗の足を止めた。


「あれ……さっきはシャッターが下りてたのに……」


 いつの間にか退いていたシャッターを懐中電灯で照らしつつ、雪斗は下から聞こえて来た足音に身構えた。まつろわぬものの能力はわからず、足音が紡と鳴だという保証はない。いつでも逃げられるよう重心を背中にしたまま懐中電灯を向けた――と同時に光の中へ入って来たのは、モデルのように整った体躯を持つ円香だ。


「えっ……速水さん?」


 困惑する雪斗を見上げた円香は、高校生とは思えない冷厳な顔に強い警戒心を刻んだまま階段を駆け上がると、有無を言わさず雪斗の腕を掴んで走り出した。


「ちょっ……! 何!?」


 雪斗はされるがまま渡り廊下前のドアに連れて来られた。どうしてここにいるのか訊いたものの、円香は答えないままドアノブをガチャガチャと殴りながら言った。


「死にたくなければ一緒に来い!」


 そう言うと円香はドアに向かって体当たりを始めた。それを見て雪斗は目を疑った。さっきまでこのドアは開いていたはずなのに、今は何故か施錠されて開かない。


「待った! ここが開いても教室棟側のドアが開かない! 別の場所から――」



 モウココカラデルコトハデキナイ……イッショニトケマショウ。



 振り返らされた二人。見ると、T字廊下の左右から二つの影がゆらゆらと姿を現した。左からは小学生らしき少女が全身に髪の毛を絡み付けた状態でフラフラと迫り、右手からの影は――雪斗に見覚えがあった。懐中電灯の光に応えるナイフを持ち、首から夥しい血と惨たらしい傷口を露にしている養護教諭の日向だ。


 水島に続いて日向だ。雪斗は二人がまつろわぬものに殺されたことを悟り、袋のねずみになった自分たちのことも悟った。


 どうする……どうすれば――。


 バン! バン!


 後ろから聞こえて来た音が雪斗を現実に戻した。

 ドアに体当たりする円香に加勢し、雪斗も渾身の力でドアに立ち向かうが、二人掛かりでもドアはビクともしない。


 何でドアがこんなに固いんだ……!


 背後からは二体の怨霊がゆっくりでも着実に間合いを詰めて来ている。


 雪斗は大きく後退し、助走をつけて叫んだ。


「開けぇーーー!!」


 脱臼も辞さない覚悟でぶち当たった肩は大きな音を立ててドアを退けた。その拍子で雪斗は渡り廊下に勢いよく倒れ込んだが、それでもドアを力で屈服させたこと、自分が修羅場を生き抜いたことに対して雄叫びをあげた。しかし、彼の背後でドアを叩き閉めた円香が見たのは、雪斗の肩が当たる刹那にドアは勝手に開いたのだ。


 その光景にかぶりをふった円香は雪斗を起こしてドアに向かって走った。そのことに気付いた雪斗は渡り廊下から下へ飛び降りることを提案したのだが、円香は教室棟へ通じるドアをあっさりと開けてしまった。


 その光景を見て呆気にとられた雪斗は視線をずらし、外に広がる黒い霧を見上げた。


 ドールハウスの人形か……うまい表現だよ、柊さん。


「何してるんだ! 急げ!」


 円香にがなられた雪斗は、ドアを叩き開けて渡り廊下に飛び込んで来た日向と入れ代わるように教室棟へ飛び込み、そのまま円香によって宿直室に押し込まれた。

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