怨嗟
痛い……。苦しい……。許さない……。ユルサナイ……!
ささやかな月光すらも拒む森の中、呪いの言葉を撒き散らしながら滑る黒い影がいた。その影に気付いた獣や蟲たちは慌てて退き、逃げることも出来ない草木たちは瞬く間に黒く腐蝕してしまった。
森の中を滑る〝それ〟は、人の形をした躰から無尽蔵に滴り落ちる黒い水に混じった紫色の血を流しており、微かに垣間見れる首や腕には深い傷痕があった。
そんな黒い水と血を垂れ流しながら目の前の断崖を滑り下りたそれは、落石によって半壊した住居の陰に身を隠した。その時になってようやく動きを止めたそれは、開けた頭上に浮かぶ月を仰いだ。
そよそよと流れる風によって、触手のように蠢く黒髪はそよぎ、まだそれの存在に気付いていない蟲たちが奏でている歌だけが物音として響いている。その状況はそれにとってまさに好都合であった。
それにとって家畜でしかないニンゲンの生活音など耳障りでしかなく、それの心を満たすのは水の音とニンゲンが苦しむ声だけだ。
それは自分の躰にまとわりつく髪を根のように地面へ突き刺した。髪は瞬く間に周囲へ菌糸のように広がり、周辺の地理を探り――髪の一束が木々の隙間から微かに響く水の音を拾い上げた。いいこ、と自らの髪を褒めたそれは、再び地面を滑るような素早さで水音を目指し、ようやく見つけた小さな池に飛び込んだ。それが躰を沈めると、池の水はたちまち黒く染まり、水面に立ったそれの傷口へ染み込んだ。
映像の逆再生をしているかのように、それの傷は瞬く間に再生された。だが、傷痕だけは再生出来ず、蠢く髪がその事実を慰めるように傷痕を撫でている。水があればいくらでも己の受けた傷を再生することは出来るが、心の中で燃え上がる怒りを癒すことは出来ない。ましてや、ニンゲンから受けた屈辱となれば簡単に清算出来るものじゃない。
それがここまで傷つけられたのは、粗野で卑劣な漁師に不意打ちで撃ち抜かれた時以来だった。その時はまだ半端者だったゆえの慢心だということはわかっていたが、今度は不意打ちでもなく、正面から競り負けたのだ。愚かな村人たちに呼ばれた神名と名乗るニンゲンと正面からぶつかった。その結果、住処を追い出されたばかりか、逃げることを優先した所為でニンゲンを補食することも満足に出来ていない状況にされてしまったのだ。
もう一度口元まで躰を沈めたそれは目を閉じた。池の水を通して意識を蜘蛛の巣のように広げていき、ニンゲンたちの気配を探る。すると、田んぼの用水路を辿って村に辿り着けた。規模は中程、それが潰そうとすれば一刻も必要ない。
ニンゲンたちの命は糧となるために存在している。その命をもらってやり、愚かで惨めな人生を終わらせてやることが慰めになるだろう。
それは水から出ると、雲で己を隠した月を仰いで小さく嗤った。
フフ、スベテヲトカシテアゲル――。
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