映写

 自分を呼ぶ聲に導かれるように、恐怖も躊躇いも危惧もないままに視聴覚室へ飛び込んだ。幸いにも実習棟は教室棟に比べれば新しいため、廊下から丸見えの設計は少ないため、あの女が何者であれ振り切れたはずだと雪斗は安堵の息を吐いた。


 そうしてようやく痛みも思考も落ち着き、部屋の中を見渡せる余裕も出来た。


浮かび上がるのは、生徒たちが座る横長の机と椅子、教壇と破れたスクリーン、奥のちょっとした機械室くらいだ。


 どことなく安堵出来るのは、水に沈んでいないことと、荒らされてはいても室内がまだ綺麗さを保っているからだろう。


 そんな中で、雪斗が最も気にしたのが机上にポツン、と置かれている映写機だ。テレビや映画でしか接点のない存在に興味が湧いた雪斗は、スクリーンと向かい合っている映写機に触れてみた。


「ボロボロだな。俺がいた時……お前ってここにいたか?」


 今にも頽れてしまいそうな映写機は何も答えず、肩をすくめた雪斗は、自転車のタイヤのような箇所に手を伸ばし――。


「うわっ……!」


 映写機は雪斗の手を拒むように左右へ揺れると、カタカタと寂しい音とともに動き出した。チラチラと点滅するスクリーンに浮かぶのは、音のないモノクロ映像だ。


 雪斗は懐中電灯を消して、何が映されているのか目を凝らした――。


 

 

「……すると、桐生先生は異界研究のためにわざわざこの村に?」


 異界研究者 桐生玄堂きりゅうげんどう


 差し出された名刺にはそう書かれていた。


 その名刺を渡された際、内心ではなく態度でも警戒を示したのは氷海奏ひうみかなでだ。


 彼女は痛む肺を気遣いながら、姉である氷海詩ひうみうたと共に父親である氷海佐兵衛ひうみさへえの両脇に立っていた。怪しい男、その印象が拭えなかった彼女は、微かに視線を詩へ送った。すると、その視線に気付いた詩は同じく横目で視線を返すと、僅かな笑みと一緒に頷いた。


「はい。私の一族は先祖代々、日本中の信仰や伝承、妖怪伝説などを調べています。この氷海村にはどういった信仰、伝承があるのか、ぜひ調べさせていただきたいと思い、こちらに伺いました」


 異界研究? 妖怪? 酔狂な人は今昔なんて関係ないのね。


 酔狂な暇人だと心の中で蔑んだ奏は、改めて桐生のことを値踏みした。


 肩まである汚い長髪を隠していた西洋の帽子、皺の多い顔、高い背丈と足下まで流れる西洋コート、草臥れたトランクケースという如何にも西洋かぶれな中年だ。ただ、汚い髪の毛や皺とは裏腹に、纏っている衣服は綺麗で態度に卑しさは感じない。伺いをたてに来た氷海村の村人によると、数人の従者を従えていたらしく、ただの研究者ではなさそうだということは奏たちも先に聞いていた。


「そうですか、それでわざわざこんな山奥の神社まで……。山道でお疲れでしょう、今夜はこちらへお泊まりください。村の中や私どもの倉の中にある書物なども、先生の研究に役立つかもしれません」


 佐兵衛はそう言うと、二人を見て頷いた。その意味は二人とも把握しているため、迷うことなく、


「それでは桐生玄堂様、ご案内いたします」


 二人はそろって頭を垂れた。


「ああ、いやいや、そんな……様なんて恐縮です。こちらが図々しいお願いをしに来たのですから」


「いえ、あなた様はお父様の大切な御客人です。さぁ、こちらへどうぞ」


 鮮麗された恭しいお辞儀を披露した詩に倣い、奏も形として頭を垂れた。


 そうして二人は興味深そうに視線を散らす桐生を案内し、氷海神社において最奥の座敷へ通した。そこは格子窓によって塞がれた座敷で、厠に行くのも外へ出るのも必ず姉妹と佐兵衛の部屋の前を通らなくてはいけない場所にある。


 詩が襖を開き、奏が中へ入るよう促した。桐生はそんな二人に深々と頭を下げて座敷に入った。すると、


「詩さん、もしや……あそこにあるのは村の歴史書か何かですか?」


 桐生がやや興奮気味に指差したのは、文机の横にある本棚だ。本とはいっても、貸本屋から借りたものや、桐生が言ったように氷海村の歴史や習慣、言い伝えなどを記した古い書物が数冊ある程度だ。桐生はそんな棚に飛びつくと、目の色を変えて本を手に取っていく。


「素晴らしいですよ……氷海村の習慣や言い伝えもあるなんて……人類の宝ですよ、この記述は……」


 トランクを開き、ごちゃごちゃの中から筆と紙を取り出すとすぐに写本を始めた。微笑みと歓喜を連れて筆を動かす姿は奏からすればまさに異端だった。詩の説明も聞いているのか聞いていないのかわからないまま進み、


「――です。滞在中はこちらの部屋をお使いください。後ほど、お食事をお持ちします」


 姉妹は一礼し、襖を閉めた。


 さて、何をしているのやら……。


 そっと襖に耳を当て、部屋の中の音を聞こうとした奏だが、詩の手が肩に置かれたため口を尖らせた。


「お父様の大切なお客様よ? そんなことをしては駄目よ」


「でも……」


「何が言いたいのかはわかるわ、だからこの部屋に通したのよ? さっ……今日の夕食を用意しなきゃ」


 そう言うと詩は廊下の奥へ姿を消した。


 一人残された奏は、睨むように襖を一瞥してから立ち上がった。敢えて衣擦れの音を大きくさせながら自室へ向かっていた奏だが、その途中、一瞬とはいえ肺に鈍い痛みが突き刺さった。その重たい痛みに奏は胸を押さえたまま壁に寄りかかった。


 息苦しさはあるが、幸いにも痛みはその一瞬で終わり、すぐに動けるようにはなった。


 這々で自室に戻った奏は、いつもの座布団に座り込むと深呼吸をした。自分で大丈夫と言い聞かせてはいるものの、その痛みは日に日に強くなり、頻度も上がっている。それは奏自身もわかってはいるのだが、どうすることも出来なかった。


 彼女と詩の母も同じ病気であり、奏も何度か医者に診てもらったが、発病原因は母と同じで不明だった。そんな母は最期まですぐに治るから、と言っていたが、結局は一人で死んでしまった。幼い桜の木々が並ぶ、神社へ続く道で。


 奏はあの時見た母の顔を今でも忘れられない。寂しさと悲しみ、恐怖で凝り固まった表情をしていた。息を引き取るその瞬間まで恐怖は続いたのだろう。そんな母と同じ末路を辿ることへの恐怖に耐えられず、一度だけ詩に、自分も同じ道を辿るのかと訊いたことがあったが、その時はひどく怒られてしまった。いつもは温厚なだけに、詩が涙を流して怒る姿に面食らってしまい、それ以降は肺の痛みのことは口に出来ていない。怒られるより泣かれてしまう方が奏には辛かったのだ。


 わたしも……ひとりで死ぬのかな……。


 

『桐生玄堂様が氷海神社に食客として迎えられて三日。昨夜、お茶を出しに部屋へ向かうと、倉から持って来た書物を読みながらお父様と桐生様が難しいお話をされていた。わたしにはお二人が何を話しているのかわからなかった。だけど、お父様が楽しそうにされているのを見て少しだけ安心した。お母様が亡くなってから、いつも悲しそうな表情をされていたから……。わたしは』 


 

「奏、ちょっといい?」


 廊下から詩に呼びかけられ、奏は日記を閉じて振り向いた。その視線の先には、室内を覗き込む詩の姿がある。


「何でしょうか、お姉様」 


「今日、私は出かけていたからわからないんだけど……凪海から行商の方は来られた?」


「いいえ。いつも来てくださるあの方は来ませんでした、ですから今日の夕餉は裏で採れるものを中心にしました」


「そう……」


 詩は考え込み、黙ってしまった。


 奏自身も、よくやってくる貸本屋を楽しみにしていたのだが、今日は誰も訪ねてこなかった。おかげで、奏が用意した食事は全て昨日のものより見劣りすることになってしまった。


「実はね……今日海美村で薫から聞いたんだけど……その……」


 苦虫を噛み潰したような表情を見、詩が歓迎されない話をしようとしていることに気付いた奏は、改めて姿勢を正した。


 もしかすると……また戦争か災害かも……。


「大丈夫よ、お姉様。話して」


 詩はそっと奏の前に座り、真剣な目付きで口を開いた。


「私もまだ半信半疑なの……だけど胸騒ぎがして。薫が言うには、海美の隣村が消えてしまったそうなの……」


「……消えてしまった?」


 奏は思わず鸚鵡返しで詩を見た。意味がわからない、その言葉が浮かんでいたのか、詩は補足せずに話を続けた。


「何でも……旅の方が気付いたようで、大人たちが見に行ってみると村が無くなっていたそうなの。建物や村の人、駐在警官の姿もなくて……すぐに警察の調査が始まったそうよ」


 村が一つ消えた……?


 当然、問い詰めたくなる話だが、詩が詳しく話さないのは、警察も原因がわからないままだから発表も出来ず、薫たちにも詳しい情報が来ないからなのだろう。奏は余計なことは言わず、一つだけ気になったことを口にした。


「ねぇ、お姉様が言いたいのは……今日の出来事が村の神隠しと関係しているということですか?」


「確証もないし……私の推測でしかないけど……胸騒ぎがして……」


 詩の肩は微かに震えている。彼女は幼い頃から勘が鋭く、先読みや千里眼、幽霊のような存在を視ることも出来た。その力に関して、双子とはいえ奏は小さい頃から驚かされてばかりいた。だが、今回ばかりは外れてほしい勘だ。


「……大丈夫ですよ。村そのものが神隠しにあったというのは……雪崩の隠語かもしれません。その隠語を薫さんたちが鵜呑みにして神隠しと言っているのかもしれませんし……その、薫さんは少しそそっかしいじゃないですか」


「……そうだといいけど」


「きっとそうですよ。悪い方に予言するより、お祝い事を予言してくださいな」


 そう言って詩を宥めた奏は、時間であることを告げて自室を出た。


 既に外は暗く、いつもなら眠っている時間なのだが、毎日のように遅くまで調べものをしている桐生の監視と身の回りの世話をしなくてはならず、姉妹は交代で寝ている。


 渋々とお茶を用意し、微かな灯火が漏れる部屋の前で床に付き、恭しく声をかけた。


「桐生様、失礼します」


 襖を開け、座礼をした奏は四十分ほど前に出したお茶を入れ替えるため、本が散らばった部屋を進み、机上の湯のみを手に取った。その間も桐生は一心に本を読んでは、何かをメモしている。最初は警戒していた奏だったが、トランクの中には異国の言葉で書かれた本もたくさん入っていたことから、学者という身分は信じることにしたのだ。奏自身も本の虫だが、さすがに異国の言葉はわからない。読めるようになればきっと楽しいのだろうと思い、思わず足を止めてしまった。 


 それに気付いたのか、桐生は手を止めると、奏の方へくるりと向き直った。


「お茶を持って来てくださってありがとうございます、奏さん」


 深々と頭を垂れる桐生に驚き、奏も作業の邪魔をしてしまった非礼を慌てて詫びた。


「いえ、そんなことはありません。あなた方のおかげで毎日が充実しております。なんとお礼を申し上げてよいやら……感謝の言葉もありません」


 そして、桐生は奏が本に興味を示したことを指摘し、いくつかの本を見た後に一冊を彼女へ手渡した。見ると、それは桐生が日本中で蒐集してきた伝承などをまとめたものらしい。他国の伝承が気になった奏は、中身をさらさらと目を通し――とあるページに、知っている一族の名前が書いてあることに驚いた。


 その反応を待っていたように、桐生は言った。


「奏さんも知っている名前があるのでは?」


「……いえ、どれも初めて目にする名前ばかりです」


 すると、桐生は姿勢を正して、真剣な目付きで奏と目を合わせた。


「あなたと詩さんが首から下げている首飾り……〝神名かみな〟の一族からいただいたものではないですか?」


 その言葉に思わずビクリとした奏。桐生が来た時、詩から釘を刺されたことが一つだけあった。それが、神名家のことを口にするな、というものだった。奏自身も彼らのことを詳しく知らないうえに、彼の一族は他者との接触を極端に嫌っているのだ。佐兵衛が神名の数少ない友人でもなければ、二人は名前すら知らなかっただろう。


 そんな一族の名を口にしていいものか迷った奏だが、桐生の声には「私も知っています」と言わんばかりの確信めいた自信があった。それに加え、自ら神名の名前を口にしたということは、そういうことなのだ。


「ご安心を……私も神名の一族とは関わりがあります。そうでなければ名前を出すことはありえません」


「……そうですよね、申し訳ありません桐生様。あなた様を信じます。これは……母が亡くなった時に神名様からいただいたものです」


「やはりそうでしたか……先日首に下げようとしていたのを目撃しまして、気になっていたんです。それは護りの勾玉ですね。日本中に蔓延るまつろわぬものを封印出来るほどの強い力を持ったもので、持ち主を悪しき念から護ります。並の霊なら近付くことも出来ないでしょう」


 桐生はそう言うと、トランクの中からガサゴソと一冊の本を取り出し、とあるページを開いたまま奏に見せた。


「あっ……これは……」 


 そのページには、奏と詩が常に首から下げている勾玉とほぼ同じものが描かれていた。


「ほかにも互いの聲が共鳴ともなりする耳飾りといったものもあるようです。私はそれを見たことはありませんが、離れていても一緒だとは……想い人同士に持たせたらさぞ喜ぶでしょうね。まつろわぬものを狩る力を持つと同時に、こういったものを作れるとはすごいと思いませんか?」


「そうですね。あの……まつろわぬものとは?」


「……妖怪のことですよ。明治の世でそういった類いの話は公には出来ませんが……奴らは確かに存在しますよ。わたしたち人間に明確な敵意を持ってね……」



 また痛いな……頻度も上がってるし……。


 隣で寝ている詩を起こさないように咳を我慢する奏。その我慢が苦しみを助長することはわかっていたが、もう治らないことが奏に投げやりな態度を抱かせているのも確かだ。そんな鬱屈と咳を押さえたまま、蝋燭の灯りで読書する奏。


 彼女の監視対象である桐生はたまに厠に出て来る程度で、一日中感心するほど部屋から出て来ない。そんな桐生を警戒していた奏も、盗人ではないことがわかった今では、時々彼女の方から接触しては本の話題で交流していた。とはいえ、もしものこともあるため、姉妹の監視は続いている。


 ちなみに奏が読んでいるのは、件の首飾りが描かれていた本だ。桐生から借り、朝からずっと読んでいたものだ。ページを進めるたびに、神名の加護を受けた装飾品の凄さに感嘆していたため、夜中になってもほとんど進んでいない状況である。その中には持ち主を疫病などから護るものもあった。


 わたしの肺……治せる力はないの……?


 自身が身に付けている勾玉のページを開いた奏は、勾玉を手に取って見つめた。常に身に付けているように、と神名から釘を刺されたが、渡された意味は教えてもらえていなかった。もしもこの本に書かれている力の通りなら、奏には猫に小判ということになる。


 勾玉をくれた理由がわからないまま本を閉じた時、外から人の声が聞こえた。ガヤガヤと焦るような声だったため、奏は格子窓から外を見た。


 松明……何だろう……。


 普段は暗闇に包まれる氷海神社の道だが、今夜だけはたくさんの炎が狐の嫁入りのように浮かび並んでは近付いて来た。


 奏はそのことを伝えようと、佐兵衛の部屋へ向かったが、既に姿はなく、玄関の方から人の声が聞こえて来た。それが何かを言い争っているような声だったため、奏は勾玉を握り締めたまま静かに玄関へ向かった。すると、


「奏、何だか大変なことが起きているみたい……」


 いつの間にか起きていた詩が玄関前の廊下で待っていたため、奏は玄関横の座敷へ入って聞き耳をたてた。


「……若者を行かせたら凪海が消えていたそうだ」


「では、行商の方が来なかったのはそれが原因だと?」


「若いのが言うには……村があった場所は黒い水の池が出来ているって話だ」


「県警はなんと?」


「駐在も消えたんだ、大調査をする予定とは言っている。だけど近くの村が次々と神隠しになっているんだ、悠長に待っていられんし……麓に逃げる話も出ている。あんたのところはどうする? 逃げるなら早く――」


 二人は顔を見合わせた。


「隣村が消えた? 海美村の話じゃないの……?」


 ここ数日で村が次々と神隠しにあった。困惑する奏だが、詩は口に指を当てて考え込んだ。


「村が消えて黒い水……雪崩なんかじゃないなら、神名様に知らせたほうがよさそうね」


「でも……すぐには来れないんじゃ……」


 詩の提案に頷きはしたが、文明開化は万能じゃない。氷海村は氷海山に囲まれた僻地だ。速達でも明日や明後日には届かないのだ。


「それでも伝えなくては駄目よ。ただの自然災害とは思えないもの。お父様にも伝えるわ」


「はい……だけど桐生様にはこのことを黙っておいたほうがよさそう。あの方の耳に入ればきっと調査に――」


 そこまで言って奏は口籠った。それに続いたのは胸を貫かれたような激痛だ。


 痛い……。


 そう思った瞬間、意識は途切れた。意識は深い水の中に落ち、彼女はそれを見た――。

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