第伍幕 遺愛
「ここは……旧校舎か……?」
目を覚ました円香の第一声だ。しかし、それに対して返事をしたのは静謐を通り越した無だけだ。
朦朧とした意識のまま、スローモーションのように上半身を起こした円香だが、冷静さに反して自分の身に何が起きたのか理解出来ず、ズキズキと唸る頭を押さえたまま目を閉じた。
部活会議が終わったにも関わらず、鳴と紡は姿を見せなかった。メールも電話も通じず、帰宅はしていない。鳴に至っては部活会議にすら出席していない。窓の手形、溶けたフェンス、蓮華からの電話、それらの要素が導き出したのは旧校舎だ。円香は新一を連れて旧校舎へ踏み込み、何が起きたのかもわからないまま気を失っていた。ただ、何者かに引っぱられた腕は今でも染みるように痛んでいる。
そうだ……わたしは二人を捜しに来たんだ……耄けてどうする。
かぶりをふった円香は無理矢理目を開けた。しかし、埃っぽい空気以外には何も見えず、持って来ていたはずの懐中電灯も無かったため、携帯電話のライトで周囲を照らし、木造の壁と床と部屋に犇めく巨大な歯車を浮かび上がらせた。
「旧校舎の大時計か……どうしてこんな場所にわたしはいる?」
立ち上がった円香は周囲を細かく調べ、古臭いうえに埃をかぶった懐中電灯を見つけた。調べてみると、以外にも電池は生きていたのだが、黒い水が付着していて汚かった。誰かが個人的に使っていたようだが、かすれて名前は読めなかった。
「とはいえ、贈り物に文句を言ってはいけないな……」
ここに忘れていった誰かに感謝しつつ、円香は時計台の奥にあるドアへ近付いた――その時、
バキィ! ギギィ……! ギ……ギギ……!
円香は振り返らずに立ち止まった。
彼女を呼び止めるように鳴り始めたのは、錆び付いた歯車が動き出した音――だけではなく、何か固いものを歯車で砕いているような音が混じっている。
用務員が事故死。
円香の脳裏をよぎった新聞記事。彼女は迷うことなく時計台から飛び出し、ドアを叩き閉めた。
自分は紡のような霊能力者ではないし、知識もない。もし今の物音の正体が怨霊の類いだとしたら、一方的に蹂躙されるだけだ。
立ち止まることなく正面階段を駆け下りた円香は、一階が浸水していることに驚きながらも昇降口に飛びついた。並の男なら軽々と打ち負かせる円香だが、その力を持ってしてもドアは口を閉じたまま動かない。
一緒にいたはずの新一がどうなったかはわからないが、紡と合流出来ればマシな行動方針が手に入る。この状況の説明もしてくれるかもしれない。そんな希望を抱き、円香は紡がいそうな場所を求めて動き――。
ガラッ……。
円香は反射的にその場で屈んだ。場所は特定出来ないが、近くで誰かが引き戸を開けたようだった。
誰か知らないけど……人間なら歓迎だ。もちろん、パニックを起こしたマッチョとヒスはごめんだがな……。
軍人のような動きで正面階段に戻り、左右の廊下を隈無く照らしてみた。浮かび上がるのは四組まである一年生の教室と向かい側の男子トイレ。反対側には女子トイレと保健室と職員室――の中で、保健室の引き戸だけが微かに開いていた。
養護教諭が自殺したという保健室に入る。それだけで気が滅入る話だが、生きている人間の可能性もあるのだ。鬼が出るか蛇が出るか人が出るか、難しい決断を迫られた円香は、水音を出来るだけ立てないよう慎重に足を進め、引き戸の隙間から保健室内を照らし出した。すると、
「誰もいない……?」
引き戸を背中で退けながら室内に入った円香は、医療品が散らばる棚、ひっくり返ったベッド、千切られたカーテン、夥しい血を浴びた薬品棚を照らし出した。その中で円香の索敵を拒む場所が一カ所だけあった。室内の奥、具合の悪い生徒が寝ていた場合にカーテンで隠されるベッドだ。
自ら危険に首を突っ込むのは得策ではない。誰もがこの状況でカーテンを退かすことに躊躇いを持つだろう。だが、誰かがいるかも、という状況と引き換えるなら円香は退かす道を選んだ。
乱暴に、迅速にカーテンを掴み――その後ろには何も無かった。
「……ふん、そんなものか」
罠の一つでカーテンを退かすと同時に化け物が飛びかかって来る、とも想定していた円香だが、幸いにも状況は何も悪化しなかった。その幸運に感謝しつつ、その場からさっさと逃げようと後退し――何かに背中がぶつかった。
「えっ……?」
振り返ろうとしたことよりも先に円香の視界が捉えたのは、自身に覆い被さるように伸びた手と握られた鋭いナイフ――と首筋に感じる生温かくて血生臭い吐息と笛のような甲高い音――。
それを理解する前に円香は目の前へ飛び出した。ガシャーン、と響いた水音とベッドの衝突など気にもせず、仰向けになった回診車を飛び越え、もう一カ所の引き戸に向かって走った。そのすぐ背後では、甲高い音と狂気染みた叫びが円香へ追い縋る。
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