闇獣

 香坂志乃は十六年間生きてきた。その中で大なり小なりの危機は経験してきた。だが、現在進行形の危機は今までの修羅場などお遊戯でしかなかったことを志乃へまざまざと告げている。


 目が覚めた時、彼は雪斗たちと同様に旧校舎の中、見たことがない体育館の舞台にいた。痛む頭を庇いながら周囲を見渡した瞬間、志乃は小さな跳び箱の中へ飛び込まざるを得なかった。その跳び箱だが、華奢な志乃をもってしても狭く、とにかく不快で彼の意識に苛立ちを齎していた。無我夢中だったため、跳び箱が小さいことなど気にしている余裕などなかったツケが回ってきたのだ。


 体育座りの彼にピッチリと寄り添う閉所、黒い水への半身浴、鼻をもぎ取りたくなる強烈な臭い、この現実に対し、志乃には明るい二つの選択肢があった。まず一つ、不快かつ強烈な臭いに包まれた閉所をとにかく我慢する。もう一つは颯爽と跳び箱から飛び出し、居座る化け物のケツを蹴っ飛ばして仲良くなることだ。


「個人的には二つ目かな?」


 不快な臭いに後押しされる形で、志乃は跳び箱から飛び出そうと身構え――。


 バカなこと考えるな。冷静に考えろよ? なっ?


 語りかけてきたのは、自分自身の冷静沈着な声だ。理性が示すことは正しい。志乃が置かれている状況は夢でもなければゲームでもない。迂闊な行動をすれば終わりであり、リトライなど出来ないのだ。


 理性にかぶりをふった志乃は、穴から外をそっと覗き込んだ。


 水に沈んだ体育館の中央、そこに伏せている黒い影がいるため、外に出ることが出来ずにいた。目が覚め、携帯電話のライトを点けた時に犬のような身体をした何かがいる、ということはわかった。伏せていることや、獣のような臭いを考えると正体はケモノ系の化け物かもしれない、とも考えていたが、志乃の引き出しの中に化け物の種類は幾千でも、旧校舎かつ日本という状況に相応しい候補はなかった。


 ああ……これからどうしますかね……。


 進展を思ってかぶりをふった志乃だが、その直後にどこからか叫び声が聞こえて来た。あまりにも一瞬だったため、空耳かとも思ったが、化け犬がピクリと反応し、ノイズのような唸り声をあげながら立ち上がった。


 芸術のように見えるほどしなやかに動き出したその化け犬は、ジージーと唸る蛍光灯が照らす両開きのドアへ近付いた。その時になって志乃はようやく化け犬の全貌を拝むことが出来た。


 見た目は犬のようだが、真っ黒な全身に毛は見当たらず、身体は骨のように細く、ドロドロと黒い水が滴り落ちている。それだけでも異様だが、志乃の目を最も引いたのはその巨体だ。志乃が知る中で一番大きい犬種はアイリッシュ・ウルフハウンドだったのだが、件の化け犬は両開きのドアを叩き開けると潜って体育館を出て行った。


 その光景に驚愕した後、志乃はその場で無理矢理百まで数えてから跳び箱を出た。溶けそうになった両足を守るために舞台へ戻り、ポケットから取り出した携帯電話の頼りないライトで体育館を照らす。


 浮かび上がったのは、二階の通路を補強中の組まれた鉄パイプと垂れ下がったことで黒く染まってしまったブルーシートだ。そんな彼らに守られた通路を辿った志乃は、二階にも両開きのドアがあることに気付いてニヤリとした。


 階段を探すため舞台の脇を覗き込んだ志乃は、二階のものと地下へ通じる階段も見つけたが、水にでっぷりと沈んでしまっていた。地下は駄目だが、幸運にも二階への階段は封鎖されていなかったため、鉄パイプを使う必要がなかったことに感謝しつつ階段を上がり――何かに右足首を掴まれ倒された。


 ガツン、と身体を段差に叩き付けられた志乃は苦痛の声を連れて肩越しに振り返った。


 ヌメリとした手で志乃の足首を掴むのは、上半身を黒い水でずぶ濡れにした下半身の無い男だ。外れそうなほど開けられた口からは言葉にならない悲鳴と黒い水を吐き出している。


「このっ……放せ!!」


 縋るように足首を掴む男の右手を踵落としで拒絶した志乃は立ち上がると同時に階段を駆け上がろうとしたが、男は志乃の頭上を軽々と飛び越えて立ち塞がった。見ると男の下半身には萎びたぶどうのようなものが付いており、志乃はすぐに男の正体を見抜いた。


 歯車に巻き込まれて死んだ用務員だ。


 志乃は即座に踵を返し、映画スターのように洗練された動きで舞台から跳んだ。


 階段は使えず、化け犬が出て行ったドアも駄目なら道は一つだ。


 水が戦く音など無視して走った。続くように背後から大きな水飛沫が上がり、志乃の耳にうめき声のような叫びが届いたものの、振り返ることなく鉄パイプへ飛び乗ると一気に駆け上がり、手摺を軽々と乗り越えた。


 アドレナリンの力を最大限に活用し、乱れた息すら凌駕する速度で通路を滑ると廊下に飛び出し、力任せに両開きのドアを叩き閉めた。


                  第肆幕 完

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