第肆幕 策定

「だから……今日までずっとここに来たかったわけ」


 紡が黙り込んでしまってから幾星霜。口を開いてくれることを願ってホトトギスを前言撤回した雪斗は、現状への不安と焦りに任せてとにかくしゃべった。ペラペラと話すようなことではないが、自分のこと、何故旧校舎に来たのか、好きな音楽に絵……。すると、


「へぇ……昔の思い出を探しに来てこんなことになったんだ。ツイてるね」


 紡はようやく口を開いた。目付きは幾分優しくなったと思えた雪斗だが、口調の方はまだ刺々しい。それでも話に応じてくれたことが安堵になって、彼女の人間的進歩を心の底から喜んだ。自分のことが気に入らないというのは雪斗からしても構わないことだが、映画でも言われるように、反感を持っていても協力し合わなければならない時があるのだ。


「そうだね、生きて出られたら宝くじを買うよ。合流するまでの経緯は柊さんも同じだろ?」


「そう。私は鳴を捜してここに来た、唯一見ていない場所だったし。あんたとすれ違った後、昇降口に鳴のバッグがあって、ドアを調べようとしたら中に引きずり込まれた」


 鳴のバッグ、それが謎だった。雪斗はドアを調べたが、その際にバッグなんて無かった。まるで狐に化かされているような現象にうんうんと頭を悩ますが、紡はぼそりと言った。


「もしかすると……罠だったのかもね」


「罠……? もしかして君は……何が起きているのかわかって?」


 紡を凝視すると、彼女は「あーあ」と声を漏らし、深いため息とともに目を閉じてしまった。


 またそれか……。


 再び会話を拒む態度になった紡を見、雪斗は絶望を振り散らした。消えた鳴、外には出られない、黒い水、化け物、話さなくてはいけないことが山ほどあるのに、唯一のお仲間は話そうとしないという絶望だ。


 今起きていることは全て夢で、本当の自分はまだ布団の中で寝ている。そう思いたかったが、足に絡み付く水が非情にも現実であることを告げている。


 ああ……もう! 奏との思い出を求めてここまで来たのに、どうしてこんな――。


 その時、覚えがある痛みが肺を走り「ぐっ」と声を漏らした雪斗は、胸を押さえながら丸くなった。七年前に匹敵するほどの痛みが肺を襲い、脂汗が身体中から吹き出し、椅子から転げ落ちてしまった。


 水の中、視界が暗くなり、蕩けるような感覚に包まれた身体、誰かの手が伸びて――紡の手が身体を掴み、雪斗を水の中から引き上げた。


「ちょっと……急に何してんの……!」  


 その言葉で我に返った雪斗は、支える紡に全体重を預けたまま水を吐き出し、五回、六回、と深呼吸をした。息を吸っても、入って来るのは水から吐き出される穢れだが、それでも平静さは次第に取り戻せたため、


 我に返った雪斗は、支える紡に全体重を預けて、水を吐き出し、五回、六回と深呼吸をした。息を吸うごとに、平静さを取り戻していき、紡に支えられながら椅子に戻った。 


 生きてるか……俺……?


 背もたれに甘え、胸の鼓動を確かめる。少し怪しいが、異常はなさそうで痛みもない。大丈夫、肺は大丈夫だと自分に言い聞かせていると、ふと紡と目が合った。濡れた髪を纏った綺麗な顔には怒っているのか、心配してくれているのかわからない表情が浮かんでいる。


 奇妙な生物でも見つけましたか、柊さん? と訊きたくなる表情だ。


「病気……?」


 意外にも、先に口を開いたのは紡だ。


「肺の病気みたいなものだよ。発症は十の時。空気感染はしないから」


「あっそ」


 そっけない紡だが、雪斗の隣にある机の上に座ると、暗い表情のまま、また黙り込んでしまった。恐る恐る覗き込んだ雪斗に見えたのは、漏れるため息と両足をふらふらとさせる不安そうな態度だ。その態度に対し、彼女が何か話し辛いことを口にしようとしているのではないか、そう推理した雪斗は思い切って口に出した。


「何か……知ってるんだ? こんな状況だ、何を言われても平気だよ」


 微かに顔をそらした紡は、


「…………」


 長い沈黙の後、 


「……怪現象って信じる?」


 明後日の方角を向いたままそう言った。その態度と、HRでの出来事が重なり、雪斗は彼女が何を言いたくて、何を気にしているのかわかった。


「現に……今がそうじゃないの? 信じているよ、俺は」


 彼女を見てニヤリと笑ってみせた。ああいったことを経験してきたなら、こんな状況でも警戒するだろう。それなら乱暴な態度も納得いく。


「もし、あんたが死んだらばつが悪いから……むやみに言いたくないけど……」


 まだ言い淀む紡に対し、雪斗は彼女の目を見てハッキリと告げた。


「信じてくれていい。俺は怪現象を信じているし、人の秘密を言いふらす趣味はないからさ」


 その言葉を信じてくれたのか、紡はやおら口を開いた。 


「私たちは今……現世じゃなくて、誰かが維持している空間にいるんだと思う」


「ん? 維持してる? ごめん、もう少しわかりやすく教えてほしいな……」


「つまり、誰かが二00一年の頃の旧校舎をまるごと再現したドールハウスに、私たちがいると思えばいいの。そして、それを維持させてる奴がいる……」 


「俺たちは人形で、維持させてる奴の遊び相手……」


「この場所はそう思って間違いないと思う」


「それなら、そいつの正体は……? さっきの影は……」


「あの影は違う。だけど無視できない存在……」 


「……じゃあ先にはっきりさせておこう。あの影が何者かわかる?」


「その前に……私があの時、あんたをここに押し込んだでしょ? どうしてだと思う?」


「素敵なエスコートだったね。火が見えて、足音が近付いたからじゃ?」


「正解……だけど百点じゃない。あれがただの〝浮遊霊ざこ〟だったら逃げる必要なんてなかった。本当に存在するとは思ってなかった……あれだけ敵意を剥き出しにしているのは間違いなく……」  


 そこで紡は唾を飲んだ。焦らしているのではなく、口にするのも恐ろしい存在だからだ。


「あれは〝まつろわぬもの〟で間違いない……」 


 まつろわぬもの。聞いたことがない言葉だ。


「何者……?」


「母さんの妄言だと思ってた……。妖怪のこと」


 それを聞いて雪斗は口を閉じた。妖怪といえば、あの大物漫画家や小泉八雲、鳥山石燕らが絵や文学に遺している存在だ。あれが現実に存在している……?。


「あの影が維持者のまつろわぬものじゃないんだ?」


「違うと思う。あの影は空間を維持出来るほどの奴じゃない。それでも私たちじゃ話にならないけどね……」


「えっ、君でも対処出来ない……?」


 肩をすくめた紡は自嘲気味に言った。


「私は霊感があるだけ。除霊はやってないし……母さんの話が本当なら、並の霊能力者じゃ歯が立たない。私なんかじゃなおさらよ」


「……どうしてそのまつろわぬものがここに?」


「知らないよ。私だって初めて見たんだから」


「その……特徴とかはあるの?」


「あるでしょうね。母さんから聞かされたのは……人間様が誇る兵器は効かなくて、好物は人間の恐怖や魂だって」


 それは素晴らしい。 


 雪斗は思わず噴き出してしまった。まるでゲームや映画に出てくる化け物のようだ。だが、人間の兵器が通じないのなら、とっくに人類は滅ぼされている気がする。それはどうなんだろう――。


「うん? 滅ぼす……?」


 雪斗の脳裏にとある伝説がよぎった。


「消えた氷海村って伝説があるらしいけどもしかして……?」


「まあ……関与しているとは思うよ。昔は今と違って、村一つくらい楽に潰せたでしょ」


「……ここって昔は氷海神社っていうのがあったらしいけど」


「助けにはならないでしょうね。出来ることは見つからないように鳴を捜して……現世へ通じる道を探すことぐらい」


 紡は静かに机上から降りると、懐中電灯を手に取った。


「行きましょう。じっとしていたって助けなんてこないから……動かないと」


 どうやら彼女も覚悟を決めるための時間が必要だったようだ。


「わかった。……本当はめちゃくちゃ怖いけどね」


 雪斗は頷き、懐中電灯の一つを掴んだ。残った二つは明かりを消し、机上に置いておくことにした。


 紡はすでに引き戸の前に立っており、雪斗はその背中に続いて廊下へ出ようとしたのだが、何故か紡は動こうとしない。件のまつろわぬものが来たのかと思い、慌てて身構えたが、足音も松明も雪斗には見えない。


「あの、柊……さん?」


「私のこと……化け物だと思う……?」


「えっ……?」


 ぼそりと呟いたまま、紡は振り返らない。


 化け物――その言葉に雪斗は彼女の学校生活を思い出す。クラスの騒ぎには混じらず、いつもヘッドフォンを付けたまま文庫本を片手に読書に耽っている。クラスに親しいと思える友人はおらず、会いに来るのは他クラスの鳴と円香だけだ。朝の出来事は聞いているだけで腹が立つ雑音だったが、あれは紡を遠巻きに見ている連中の声でもあったのだろう。化け物という言葉はおそらく、彼女と母親が浴びせられてきた蔑みの言葉だ。


 かぶりをふった雪斗は、その問いかけに答えようとしたが、紡は答えを待たずに廊下へ出ようとしたため、慌てて彼女の腕を掴んだ。


「待った。俺はさっき信じるって言った。俺は柊さんを変人とも化け物とも思わない。京堂だって早見さんだって同じことを言ったはずだ。……少し刺刺しいとは思うけど」


「……一言余計だよ、バカ」


 紡は振り返り、雪斗の目を見て言った。


「でも、ありがと……」


 その眼差しは真剣で、彼女な素直な言葉に雪斗はまたもや面食らってしまった。それと同時に、奏とも似たようなやりとりをしたことを思い出し、思わず小さく微笑んでしまった。


「どうしたの?」


「いや、昔のことをね」


 思い出し笑いは今に相応しくない。かぶりをふってその光景を追い出した。


「それで、どう動く?」


「二階に行きましょう。一階じゃ水が邪魔だし、鳴が同じように彷徨っているなら一階にはいないと思う」


「賛成。先導するよ」


 辛うじて動かせる引き戸に感謝しつつ廊下に出た雪斗は、左右の廊下を照らしたまま足音に意識を送ったが、幸いにも怪しい物音は届かなかった。あの松明の化け物は、職員室前の廊下を曲がり、体育館への渡り廊下、三年生教室、校長室、中庭、二階、実習棟への渡り廊下がある東側廊下のどれかへ向かって行ったようだ。


 雪斗は出来るだけ松明の化け物から離れる意味も込めて、正面階段から二階へ上がることに決めた。


「この教室棟内で二階へ行くには三カ所ある階段なんだけど……ここから行こう」


 二人は水音を出来るだけ立てないよう慎重に進み、濡れた革靴とブーツを連れて正面階段の右側へ上がった。ピチャリ、ピチャリ、と嫌な音を立てる足下に辟易しつつ、連れて来たタオルで出来るだけ拭った。


「ねぇ……この水ってやっぱりフェンスと教室の窓にあった手形と関係してるのかな?」


「そうね……関係してるかも。ああ、その菌糸みたいなやつに関わらない方がいいと思うから」


 壁に伸びる菌糸を凝視しようとした雪斗を諭した紡は、滴り落ちる冷や汗を拭うために足を止めた。その横を雪斗は抜け、踊り場からチラチラと二階を照らす。


「はぁ……生きて帰れたら真っ先するのは風呂ね……」


 自分の身体と服から溢れ出る腐蝕臭のような臭いに辟易した紡は、踊り場で待ってくれていた雪斗を照らし――鏡に映る雪斗の横に誰かがいる。


「雪斗……!!」 


 思わず声をあげた紡だが、当人が驚いた時にはもう人影は消えていた。


「……何か?」


 それには答えず、紡は踊り場の壁にはめ込まれた巨大な鏡を凝視した。


「その鏡? 建てられた時からあるって聞いたよ。何かあった?」


「あ……いや、見間違いだったかな、ごめん……」


「そっか」


 雪斗は鏡を一瞥し、二階へ上がって行った。その後ろ姿をみつめる紡。あの時、映った某からは敵意を感じなかったが、雪斗に寄り添うように立っていたことを思うと、急に不安になった。


 あんた……霊と変な関係持ってないでしょうね……。


 雪斗の背中を追い、探るように睨みつけるが、紡は相手を一見しただけで本質を見抜くことなど出来ない。それが出来るのは蓮華だけだ。彼女は相手を一見しただけで、本質や心を見透かす。隠し事は事実上不可能だ。


 雪斗の本質や心境はわからないが、昔の思い出を求める人が不純な関係をもつことはないだろうと思い、溜め息と一緒にかぶりをふった。


「柊さん、見たところ二階の廊下には誰もいないみたいだ。京堂が隠れているとしたらどこかな?」


「……幼なじみなんでしょ? 私より知っているんじゃないの?」


「俺の中の京堂は十の時で止まってる、今のはわからないよ」


「じゃあ……怪談に出てくる場所にはいないはず。いるとしたら……普通の教室か図書室かな」


「じゃあ図書室を見てみようか。職員室の上にあるんだ――あれ?」


 雪斗は足を止めた。廊下を見渡した時には閉まっていたはずの教室の引き戸が開いていることに気付いたのだ。四年二組、そこは雪斗が最後に在席していたクラスだ。


「ちょっと……気になるんだ」


 図書室に向かおうとしていた紡に一声かけて、雪斗は行き先を変えた。聞き取れはしないが、近付くごとに教室の中からしゃべり声のようなものが届くため、鳴が中にいてこっちに呼びかけている、と想像した雪斗だが、拾い上げたその声は男のものだった。それも、雪斗にとって聞き覚えのある懐かしい声だ。


「もしかして、水島先生……?」


 静かに引き戸を開けて懐中電灯を向けると、窓の側に立つ水島の後ろ姿が浮かび上がった。あの時と変わらない綺麗なジャケットを着ていて、光を受けても微動だにしない。


「ああ、やっぱり水島先生だ! 俺です、沢田雪斗です。お久しぶりですね、もしかしてうずまさは先生が……」


 水島に近付いた時、紡に襟を掴まれたうえに引っ張られた。


「ちょっ……何!?」


「あんたバカ?! 何してんの!」


「何って……水島先生が――」


 向き直った雪斗が見たのは、黒い水で汚れた水島の背中――その水島は振り返ると、全身の黒い水を滴らせながら、言葉にならないうめき声をあげて二人に近付いて来た。


 何が起きたのか理解する間もなく、紡が何かを叫び、雪斗は腕を掴まれ教室から引っ張り出された。転ばないようにして図書室前を走るのがやっとの雪斗に見えたのは、重い荷物を背負っているかのようにおぼつかない足取りの水島だ。


「紡……あれはいったい……」


「怨霊! 廃校の真っ暗闇に人が立っているわけないでしょ――」


 肩越しに振り返っていた紡は、横の部屋から飛び出して来た何かに突き飛ばされた。そんな彼女と一緒に倒れ込んだ雪斗は、落としてしまった懐中電灯を慌てて拾い上げ――その先に浮かび上がったのは、倒れた紡を見下ろしている水島だ。


「先生……何で……」


 そんな雪斗の声に反応した水島はギョロリと振り返り、倒れたままの雪斗に向かって襲いかかって来た。ゾンビのように伸ばされた両手は雪斗の肩を掴むと軽々と彼を押し倒し、悲鳴にも怒号にもならない声を発しながら大量の黒い水を吐き出した。吐瀉物から逃げたい一心でもがいた雪斗は反射的に懐中電灯で水島の頭を殴り、怯んだその身体を渾身の力で蹴り飛ばした。その一撃を受けた水島はうめき声を発しながら四肢をばたつかせた。


「このクソッタレが……!!」


 前言撤回。精一杯の罵声を吐き出しながら立ち上がった雪斗は、紡を助け起こすと腕を掴みその場から逃げ出した。その際に、紡が額から血を流していることに気付いたものの、意識不明じゃないから我慢、として逃げることを優先させて実習棟を目指した。


 あと少し……実習棟なら隠れる場所はたくさんある!


 紡の手を放した雪斗は、鍵のことなど考えずにドアへ渾身の体当たりを繰り出した――すると、最初から施錠されてはいなかったようで、威勢のいい音を引き連れて雪斗は前のめりに転がった。一瞬だけ肺が悲鳴をあげたものの、それを無視して立ち上がった雪斗は、走る紡に手を伸ばしたその瞬間、両開きのドアが勢いよく閉まった。


「っ……紡!」


 見えなくされた紡に向けて体当たりする雪斗だが、施錠されていないにも関わらずドアは頑なに反応しない。


「開けて! 雪斗、早く!!」


 紡の叫びが響く。震える声に焦る雪斗だが、何度体当たりしてもドアは動かない。


 そうだ……!


「紡! 一階だ、下のドアから来い!」


 もう隠密なんてクソくらえだ! 


 校舎中に響くほどの声で叫んだ雪斗は、中央階段を塞いでいる防火シャッターに毒づきながら東側廊下を走った。音楽室と図工室を横目にし、東側階段を飛び降りた――その直後、雪斗は殴られたように足を止めた。


 東側階段の手前、引き戸がだらしなく開けられた理科室の中から誰かが覗いているからだ。人の形をしたシルエットしかわからない黒い影――怨霊という言葉が浮かんだものの、恐怖よりも紡の危機が勝った。


 飛び出そうとしてこない人影を気にしつつも理科室と放送室、パソコン室の横を駆け抜けた雪斗は実習棟と教室棟を結ぶ渡り廊下にへ通じるドアに駆け寄ったが――無視出来ない肺の痛みに襲われてしまい、壁に手をつき立ち止まってしまった。


 なんでこんな時に……!


 鼓動が激しくなる胸を押さえながら、雪斗は無理矢理足を進め――。



 サァ、イッショニトケマショウ。



 聲がした。全ての感情に蓋をしたような冷たさに全身を舐められた雪斗は、身体中の血が凍りついていくのを感じた。足は即座に震え出し、身体は脳からの指示に従おうとしないうえに、両目はとある一点から目をそらせなくなった。


 渡り廊下と実習棟を隔てるドアの手前、揺れる水面の下、微かに濃さが違う箇所に何かがいる。


 その影は水面をラップのように引き連れて姿を現した。水の中にまで伸びる黒髪を従えた黒い和服の女は、雪斗から懐中電灯を当てられているにも関わらず、顔の全体は靄のような翳りに包まれて見えない。唯一光を受け止めたのは、優しくも邪悪な微笑みを浮かべる紅い唇――。


 自分が見ている光景を理解出来ず、雪斗は思考を放棄したまま立ち尽くすしか出来なかった。


 それでも女は水面を滑るような歩みを止めない。その時、



 こっち……!



 誰かが雪斗の耳元で囁いた。


 その聲で我に返った雪斗は、自身へ手を伸ばす女から逃げた。バチャバチャと叫ぶ足音など気にする余裕などなく、雪斗はもつれてダイブしないよう必死に理性を奮い立たせながら走った。だが、あの女が水島のように天井や壁から急に飛びかかって来るのではないかと思うと。もう紡のことも頭から吹き飛んでしまった。縋るのは耳元の聲だ。


 次はどっち……! どっちだよ……!!


 次の指示をくれない聲の主を呪いつつ、雪斗は二階の防火シャッターを思い出して西側廊下を逃走路に選んだ。特別教室、家庭科室とその準備室を横にし、西側階段を駆け上がったその時、



 こっち……来て……!



 その囁きとほぼ同時に視聴覚室の引き戸が開いた。明らかに人の手ではない開き方だったが、雪斗は迷うことも疑うこともなく中に飛び込んだ。

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