失踪
『部活会議が終わったらメールするから待っててねー』
これは鳴から送られたメールだ。鳴という少女は、円香の友人の中でも一番と言っていいほど他者には誠実だ。彼女がメールをすると言ったなら、その通りになるはずなのだが、円香はこのメールをもう何十回と見返していた。
まったく……電源でも切れたのか……?
いくら返信をしても一方通行ばかりで、問い合わせた新着メールもないことに痺れを切らした円香は、携帯電話をバッグの中に突っ込むと体育館裏にある弓道部の部室から出た。
弓道部の部活会議は思っていたよりも長引いてしまい、鳴と紡が自分のことを待っているだろう、と想定していたのだが、いくら待っても二人が姿を現すことはなかった。バレーボール部の部員が弓道部員の友人を迎えに来ていたところを見ていたため、会議がとっくに終わっていることは知っている。紡の方は部活動とは無縁のため、メールすればすぐに合流出来るだろうと思っていたのだが、彼女の方もメールの返信がないのだ。
部員と個人的な会議を続けている。その可能性を連れて見に行くことにした円香だが、部室の手前でバレーボール部顧問の長谷部がドアノブを必死に拭いている光景を見たことでその可能性は消えた。それに加え、部活棟に入った時点で感じた不快な臭いが、異変が起きたことを告げている。
この血のような生臭さ……祖父母の邸宅で嗅いだ臭いと同じか……。
「先生、何をしているんですか?」
「ん? ああ早見か、見ろよ。誰かが悪戯してドアノブに液体をぶちまけたんだ。何でこんなことをするんだか……臭くてかなわん」
長谷部は黒焦げになった雑巾を投げ捨て、また別の雑巾でドアノブを拭き始めた。その背中を覗き込んだ円香は、ドアノブから床に向かってぶちまけられた黒い水に眉を顰めた。まるでそれは返り血のようで、手拭いで鼻を庇っても臭いは弱まらない。
「何ですか、これ……」
「さあな、いくら拭いてもとれないし雑巾が真っ黒だ……。そうだ、お前京堂と仲がいいよな? どこにいるか知らないか?」
予想外の質問に円香は目を丸くした。
「鳴が犯人……というわけではないのでしょう?」
「違う。あいつ鍵を取りに来たくせに会議に出てないんだよ。鍵はこの水の中に落ちていたらしいし……柊が来たから訊いてみたんだが……何をやっているんだか……」
会議に出ていない? あの子が?
ぶつぶつと文句を垂れる長谷部に別れを告げた円香は、側の壁に寄りかかり、もう一度二人に電話してみたが、どちらも不通で呼び出し音すらしない。
「一緒に帰ろうと言ったのはお前だろうに……」
やれやれと息を吐いた円香は、二人を捜しに校内をうろつくことにした。
教室棟、食堂、実習棟と見ていくが、二人がいそうな場所に人影はなかった。行き違いか、それともどこかに監禁でもされているのか、円香は手当り次第に部室なども覗き歩き、最果ての美術室まで来た。他の部室はほとんどが施錠されていたが、美術室は引き戸が開け放されていたため覗き込んだ。
「うん? 誰もいないのか」
覗き込んだ室内に人影は無かったが、真ん中に置かれたキャンバスが人の存在は証明していたため、心当たりがあった円香は美術室に入った。そのキャンバスは志乃が描いている何かだと思って覗き込んだのだが、描かれていたのは予想に反して雰囲気が紡によく似ている少女の絵だった。志乃が描くものとは明らかにモチーフが違いすぎるため、他の誰かが残って絵を描いていたと結論付けた円香は美術室を出た。
その後、円香は体育館、部室棟、校庭を見て回ったのだが、結局二人のことを見つけることは出来なかった。だが、唯一確認していない場所がまだ校内にある。可能性は低いのだが、見回りの最中に鳴の家へ電話し、彼女の弟からまだ帰っていないことを確認したため、そこが最後の候補なのだ。
早足で教室棟へ向かい、職員室を目指した。誰が残っているかによって話の進め方が変わるため、円香は胸のリボンを整えてから職員室のドアをノックした。「失礼します」と言って中に入ると、自身の担任は帰ったようで、静まり返った職員室に人影はない。ある一人を除けば。
その教師は円香が入って来たことに気付いていないようで、わたわたと机の中を漁っている。面倒な教師よりはずっとましだが、その頼りなさに円香はかぶりをふった。
「黒崎先生、よろしいですか」
「ん? 君は確か……早見さんだっけ? 友江先生なら帰ったよ?」
「……先生に頼みがあります」
「頼み? ん〜これ以上頼みが増えるのは……おじさんつらいよ〜」
「頼まれているうちが華ですよ。裏にある旧校舎の鍵を貸していただきたい」
「鍵? なんで?」
目を丸くする新一に対してかぶりをふった円香は、他の質問が出る前に状況を説明した。
「校舎中を捜しても二人が見つからない? 二人とも約束をすっぽかすタイプじゃないよな?」
「だからここに来たんです」
「見ていないのは旧校舎って? いないと思うけどなぁ」
「見ておきたいです」
「……わかったよ。そのかわり、俺の時計台調査を手伝ってもらうぞ?」
よいしょ、と席を立った新一は備品棚から懐中電灯を二つ取り出し、一つを円香に渡した。
「それにしても嫌な感じだな。柊、京堂、フェンス、それぞれに黒い水が関与していて……」
「関与? 何ですか?」
「ああ、終業式後の教室に黒い手形があったんだよ」
「……嫌な予感がしますね。行きましょう――」
プルルルル、プルルルル、プルルルル。
円香の声を遮り、新一の散らかった机の電話がなった。何の怪しさもない呼び出し音なのだが、新一は驚いて懐中電灯を落とした。
「電話ですよ? 出ては?」
円香は電話に向かって顎を動かした。新一は一瞬固まり、すぐに円香を見て微笑んだが口の端が引きつっている。
「ああ、はは……今出るよ。……そこにいろよ?」
新一は震える手で受話器を取ったが、コードを最大まで伸ばし、もはや逃げの姿勢だ。
「はい、朧高校です……」
引きつったままの口から出た声は震えている。
「もしもし……」
何も答えない相手に恐怖した新一は受話器を置こうとした。すると、
「……黒崎先生ですね。柊蓮華です」
聞こえてきた音楽のように柔らかい声に、新一はパッと明るくなった。
「ああ、驚きましたよ! 黙ってないでくださいな……」
「……ふふ、それでも電話に出るのを怖くてためらい、逃げの姿勢でいるのは駄目ですよ」
その指摘に新一は周囲を見渡した。
「私は今、家にいます。そんなことより、紡はまだ校内にいますか?」
「紡さん? まだ家には帰っていないんですね……?」
「見回りの担当ですよね?」
「あっ……はい、そうです」
「……言伝をお願いしても?」
「あっはい、どうぞ」
新一はペンを探して机の中をガチャガチャいわせた。
「まずは紡に……。〝あなたと私ではだめ、優しくなれないから。大切な約束のために、助けてあげて〟そして、これは隣にいる円香さんへ……。〝娘と友達になってくれてありがとう。腕珠を外さないように〟以上です。黒崎先生も、娘のことを気にかけてくださってありがとうございます」
新一はペンを止めると、曲げていた背中を直立させて言った。
「いえ、教師として当たり前のことをしているだけです。彼女も大切な生徒ですから。伝えておきます」
電話はきれた。
「占い師だっけ? 彼女のお母さん。ウチのばあさまにそっくりだ、千里眼とか」
新一は殴り書きしなかったメモを千切り、円香に渡した。そのメモに目を通した円香は、最初こそ首を傾げたが、すぐにメモを折り畳んでバッグに入れた。それを見た新一は、紡へのメモをポケットに突っ込み懐中電灯を持った。
「さ、鍵も持ったし行こうか」
鍵をポケットに滑り込ませた新一は、袖の下に付けられた水晶の腕珠を見つめていた円香を促した。その腕珠が蓮華の言っていたものだろうか、と気になった新一だが、それを訊くよりも早く円香は廊下に出て行ってしまった。
「何してるんですか? 行きますよ、先生」
「えっ? ああ、ごめん」
円香の口ぶりが犬の散歩のように聞こえたが、新一はそれ以上考えずに彼女の背中に従った。意図していなくても女帝のような素養を持っている少女はいる。黒崎家からしたら彼女のような女性は喜ばれるだろう、と凹みながら旧校舎へ向かう。
「少し急いでくれます? 件の見回りも面倒ですから」
苛立たしげに振り返った円香は新一を促した。特定の趣味人たちにとっては彼女からの叱責はご褒美かもしれないが、新一は萎縮してしまう方なので相性は最悪だ。だが、振り返ったその表情に微かな焦りと翳りがあることを見逃さなかったため、その苛立ちを受け止めて歩く速度を上げた。
深い雪、駐輪場、倒れている朽ち木、足跡がない道、一部が溶かされたフェンスを抜け、二人は足跡一つ見当たらない広い校庭に出た。一面の銀世界は、ここが校庭だということを一時的でも忘れさせるほど眩しく輝いている。雪掻きをしなければ人間の痕跡などあっという間に消されてしまう。自然の強さを改めて見せつけられた形だ。
「ひゃ〜……すごい雪だなぁ。足跡はあるかい?」
「ここからでは見えませんね。雪が降っているわけではないので、足跡が埋められることはないと思うんですが……」
「ふむ、どうやらここには来ていなさそうだねぇ」
辺りを見渡したその時、遥か先に見える昇降口に向かって円香が走り出した。雪を踏み分けているとは思えないほど俊敏な動きを見せたため、新一は二度見の末に目を丸くした。
「今時の若い子ってのは……」
今度こそ置いていかれないように、新一は大急ぎで後を追いかけるが、雪に足を取られて思うように走れないうえに、二回も雪の中へ飛び込んでしまった。
そうこうして雪と格闘しながら、重厚なドアが立ち塞がる昇降口にようやく辿り着いた。
「先生、これを……」
ドアの前に屈んでいた円香が立ち上がり、足下に転がる物を指差した。それはバッグと学校指定ではないもので、指定のバッグにはやや派手なキーホルダーが付けてある。もう一つには何も付いていない。
もしやと思い、口を開こうとしたが、先に円香が口を開いた。
「これは二人の持ち物です……中にいるのかな……」
「……どっかから入ったのか? ここは秘密基地じゃないんだからさぁ……」
ドアに近付いた新一は、南京錠を調べようと手を伸ばし――。
ガチャン……!
突然、南京錠が落ちた。
「鍵が……」
「……京堂たちか?」
円香は新一を睨む。
「どうやればこんなことが出来ますか?」
新一をどかし、ドアを叩き開けた円香は中を覗き込み、
「鳴ー! 紡ー!」
真っ暗な校内に向かって叫んだ。返事はなく、足下の埃を見ると人が入った痕跡はない。
「まぁ……鍵はしっかりしていたし、ここからは入れないだろう」
「先生は外から調べてください。私は中から行きますので――」
昇降口を開け放しておけるつっかえはないかと円香は校内に入り、新一は鳴と紡のバッグを抱えて校内に入り――直後、二人の腕は何者かに掴まれた。
その背後では昇降口が音もなく閉まり、落ちていた南京錠が逆再生のように把手へ戻った。
第参幕 完
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