出発
「以上だ、部活は二十八日まで、年明けは始業式まで休みだからな」
美術部顧問の袴田はそう言うと、部活会議を終えた。それに伴い数少ない部員たちはパタパタと出て行き、美術室はあっという間に静かになった。
さて……旧校舎にはいつ忍び込もうか。
少しだけ活動させてほしいと袴田に懇願していたため、雪斗は美術室の鍵を預かっている。部員が全員帰宅し、校内が静まり返ったタイミングを狙って活動しようと思っていた雪斗だが、何故か一人だけ帰らずに残っている曲者が出てしまった。
その曲者の名は香坂志乃という。彼はいつもなら読みもしない分厚い本と御見合いをしており、雪斗がその周りをうろついてもまったく気付いておらず、帰るような素振りすら見せない。
雪斗がやきもきする理由は、美術室の位置に関係している。旧校舎に通じる道は美術室からだと座っていても一望出来る状態のため、カーテンを閉めるか志乃を追い出すかを選択しなければ丸見えになってしまうのだ。さらに今は侵入のためにフェンスを越える必要がある。誰かに見られることは出来るだけ避けたいのだ。
雪斗は小さく息を吐き、志乃に探りを入れた。
「志乃、お前はどれくらい残る予定なんだ?」
それなりに大きな声で告げた雪斗だが、志乃が何も答えなかったため、読んでいた分厚い本を持ち上げた。すると、
「あら? ああ、ジュリーさんどうしました?」
志乃は雪斗のことをジュリーと呼ぶ。由来は沢田から来ているのだが、雪斗にとっては実にどうでもいい話題だ。
「どうしました? じゃないよ、どれくらい残るつもりなんだ?」
「ああ……その本、図書室のやつなので読み終わるまで……三十分ほどです」
三十分……図書室で読んでくれよ。
そう口にはせずに本を返した雪斗は、布を被せていた自分のイーゼルを取り出した。志乃が帰るまでの間、少しでも完成への一歩になるようにとロッカーから画材道具を取り出して作業に入ろうとしたのだが、それを志乃が止めた。
「ジュリーさんって……朧市出身ですよね?」
「うん? そうだよ。十の時まで住んでいたし、裏の旧校舎は母校だ」
「おや、それはそれは……」
志乃は御愁傷様です、とでも言うように深々と頭を垂れた。
「では、地図から消えた〝氷海村伝説〟って知っていますか?」
「知らない」
「あれ、デジャブ? 知りませんか? 明治初期頃にあった出来事らしいんですけど、なんでも村が一晩で跡形もなく消えてしまったそうです」
「氷海山が周囲にあるし、雪崩とか土砂災害だろ」
「雪崩なら雪崩と書くと桐生さんも言っています」
「誰だよ」
「この本の作者です。日本中を巡り、異界について研究していた人で、末裔が今もいます」
「異界研究ねぇ……。今も昔も酔狂な人はいたもんだ」
「日記によると村があったのは……今の朧市の中心ですね。それと、桐生さんが村の消失の少し前まで滞在していたのが……旧校舎がある敷地に存在していた氷海神社みたいです」
「へぇ……」
正直に言うと、雪斗は怪談やオカルトに興味はない。あまり喰い付いた態度を見せて語られても困るから、と気の抜けた相槌で流すことにしたのだが、志乃はその考えを悟ったようで、
「ジュリーさんはこういった話、そんなに興味ないんでしたよね。ごめんなさい。それなら……どうして怪異の巣窟、旧校舎に行きたいんですか?」
予想していなかった志乃の質問に、雪斗は思わず手を止めてしまった。
「はは、図星ですね? 僕が帰るのを待つくらいなら行ってきたらどうですか? 誰にも言いませんから」
「どうしてわかった……?」
テレパスめ……。
雪斗はその言葉を浮かべて志乃を見たが、志乃の方はクスクスと少女のように笑った。その笑い方からして小馬鹿にされた気がした雪斗だが、大人しく志乃の続きを待った。
「だってジュリーさん、先生が話していた時から旧校舎の方ばかり気にしていましたし、その状態でいつ帰るのかって訊かれたら誰でもわかりますよ」
さいで……。
「じゃあ……俺の仕草に気付いていたなら、何も知りませんよって態度は全部芝居をしていたってことだな?」
「あら……それは」
少女のように両手を頬に当て、おどける志乃。
「……まあいいよ。お言葉に甘えて行って来るから」
「フェンスの一部が溶けたようになっているので、すぐに入れますよ」
溶けた?
その一言が気になった雪斗はドアの手前で振り返ったが、もう志乃の興味は桐生某の本へ向けられているため、アクションは何もなかった。
「どうせ悪戯だよ。心霊スポットだからな」
聞いていないことを前提に告げた雪斗は、実習棟の裏口を経由して旧校舎に向かった。降り積もった雪はカチカチになっており、迂闊なことをすれば骨折の可能性もある危険な状態だ。凍る路面、埋もれる地面、どちらも制服と革靴には苦難でしかなく、雪用ブーツも許可されない(一部の生徒は堂々と校則を打破している)状況に舌打ちしつつ、雪の中を進んだ。
そうして辿り着いた第一のフェンスは、志乃が言っていた通り一部分が溶けており、抜けることに雪斗は苦労しなかった。
そのフェンスの先には小さな桜並木があり、雪斗が在学していた七年前までは用務員の小沢が手入れをしていたことで三月と四月には綺麗な桜吹雪が巻き起こっていたのだが、今では倒木した桜の木や雪を貫く草木に支配されているため、当時の面影はまるでない。
「ここも駄目か……小沢さんも用務員辞めちゃったのかな」
道を塞ぐように倒れている桜の木を乗り越え、立ち入り禁止の看板が掛けられたもう一つのフェンスも潜り抜け、
「やぁ、久しぶりだね、我が母校……」
ようやく辿り着いたのは、広大な白の校庭だ。そこにはまだ鉄棒やジャングルジムなどが残っていたが、それ以外にも名称不明な荷物や重機が雪に埋まっており、校長の取り壊し予定が嘘ではないことを証明している。
そんな白色の海に浮かぶ旧朧小学校は、雪斗が見渡せる範囲全てがベニヤ板や木造の机などで封鎖されており、入れるスペースは見当たらない。だが、雪斗が目指している場所は中庭であって校舎内ではない。
この旧朧小学校は鳥瞰するとカタカナのコの形をしている。雪斗を出迎えた校舎は教室棟という扱いで、裏には小沢が念入りに手入れをしていた綺麗な池を有する中庭が存在する。そんな教室棟の右手と奥には渡り廊下で繋がる実習棟と体育館が存在し、一階と二階しかなくとも校舎全体としては広いのだ。
どこを見ても懐かしさが蘇るのだが、今の雪斗が目指しているのは中庭だ。ボスッ、ボスッ、と雪を踏み分け、肩で息をするようになってようやく昇降口に辿り着いた。真冬にも関わらず額には汗が滲み、背中には風邪の原因になる大粒の汗が流れている。それらも大きな障害になったが、雪斗は思い出を優先させて昇降口の把手を引いた。当然ながら反応はなく、押してみても反応はなかった。
そんな想定済みの結末を流した雪斗は手拭いで背中を拭きつつ、今度は校舎の壁に沿って中庭を目指す。ズボンは瞬く間に雪だらけになり、染み込んだ汗を刺激する風が雪斗と打ち付けられたベニヤに悲鳴をあげさせている。命の存在を告げるのが雪斗の息遣いと足音だけという状況は、ベニヤの軋む音すら別世界に生きる魔物の雄叫びのように感じさせてしまう。
廃校舎、冷たい風、軋む音、雰囲気作りは完璧だな。足りないのはお化け、妖怪と埴輪くらいか――。
ブツブツとよそ見しながら角を曲がった瞬間、出会した人影とぶつかってしまった雪斗は、倒れそうになった人影の腕を反射的に掴んだ。
「ごめん! 人がいるとは思わなくて……」
折れてそうな腕の先に見えたのは、何一つ想定していなかった人物だ。
「あれ? 柊……さん?」
倒れそうになった少女の腕を掴む少年。それだけなら映画のワンシーンのような光景だが、ぶつかった所為で乱れた姿勢と髪の毛から覗く紡の視線が苛立ちを纏った鋭さだったため、雪斗は一瞬にして蛙になってしまった。
「大丈夫だから……放して」
「ああ、ごめん……」
死人のように冷たい腕と同等の冷淡さに吹き飛ばされた雪斗は慌てて手を離したが、冷たい視線は優しくならない。
「えっと……こんな所で――」
「何をしている、なんて訊くのは野暮じゃない?」
「えっああ……そうだね。じゃあお互い見なかったことに……」
雪斗がそう言った時にはもう紡は横を抜けていた。他者を拒絶するヘッドフォンを連れ、彼女は一度も振り返ることなく昇降口の方へ歩いて行った。
「雪の上で足音なしかよ……凄いな」
どこかの組織か軍隊で戦闘訓練でも受けていたんだろうか、雪斗はそんなことを思いながら自分の目的に戻った。
校舎の右手に位置する体育館に繋がる半壊した渡り廊下を跨ぎ、紡が耕した道を頼りにすることで雪斗はようやく中庭へ辿り着くことが出来た。
「まぁ……こんなもんか」
予想は出来ていたが、現実で見せられると精神的な傷は大きい。
七年前には四季折々の花を咲かせていた花壇は荒れ果て、プランター用のスタンドは雪の重さに耐えられず倒壊。近くにも倒壊した生徒お手製のベンチがあり、その奥にはうずまさの大きな小屋が力無く佇んでいる。中庭の全てが記憶と同様に過ぎ去っており、物事を次世代に繋ぐことが如何に難しいことか雪斗に実感させた。
雪斗は台座から落とされている二宮金次郎を横目にしつつ、うずまさの小屋へ近付いた。屋根が無くなった小屋の中は雪だらけで、彼の郷愁をくすぐるものは何もなかった。
「まぁ……うずまさも俺のことなんてとっくに忘れてるよな」
引っ越した後のうずまさを雪斗は知らない。あまのじゃくな性格だったため、自身を助けてくれた雪斗よりも水島に懐いていたのだ。
うずまさの未来を祈りつつ、次は中庭の象徴だった池を覗き込んでみた。水は枯れていないようだが、黒く濁った水は迂闊に近付いた雪斗の鼻に向かって腐臭を吐き出した。
「くっさいな……あの窓の手形ってここの水か?」
雪斗の脳裏に思い浮かんだのは、趣味の悪い悪戯好きな某がフェンスを突破し、池の水を用いて手形を残した。外側には室内から机を組んで身を乗り出した、というわけだ。その光景を想像した雪斗は、新一がやれやれと呆れる理由がよくわかった。
「まったく……暇人め」
おバカさんにかぶりをふった雪斗は、辛うじて無事なベンチの雪を払って腰掛けた。そのまま中庭を満足いくまで見回してみたのだが、約束は一向に思い出せなかった。心の中ではゲームや漫画のように都合良く思い出せるかも、と楽観していたのだが、今は思い出すどころか変わり果てた母校の姿に打ちのめされてしまった。
「もう七年も前のことだし……あの子も忘れてるかな……」
グレーな空とブルーな心が見つめ合い、これからどうすればいいのかと宙ぶらりんのまま次のアクションを求めた時、
カエッテ……キテクレタ……。
不意に声がした。忽然と耳元で囁かれたことに加え、耳に何者かの吐息が吹きかけられたことで雪斗は突き飛ばされたようにベンチから離れた。慌てて周囲を見渡してみたが、紡が隠れているようにも見えず、悪戯小僧がカメラを回している気配もない。耳もすませてみたが、風の音を聞き間違えたようにも思えなかった。
気をつけろ雪斗……旧校舎の祟りがお前を狙っているかも……。
心からのそんな警告を一蹴した雪斗は、もう何も思い出せない中庭を見限って踵を返したその時――。
ギ……ギギィィィイイ〜……。
東棟の廊下へ通じるドアが音を立てて開いた。
「……柊さん?」
ドアが開く唯一の心当たりを口にしたが、彼女はビクともしない昇降口の方へ向かっていたことに加え、自分のためにドアを開けてやる必要などない。それとも悪戯小僧がカメラを回しているのか、或は祟りかもしれない。
「誰かいんの?」
酔っぱらいのように開いたドアに近付きはしたが、中を覗き込むことなく声を出したが、当然中からの返事はない。君子危うきになんとやらだ、と自分に言い聞かせる雪斗だが、結局は校内が気になって隙間から覗き込んだ。
「柊さん? いますかー!?」
一筋の光も入らない木造廊下の奥に向けて呼びかけると、奥から微かに足音がした。ヘッドフォンのまま校内を歩いているのかもしれない、そう結論付けた雪斗は、廃墟にも等しい校内の危険さを伝えようと廊下へ踏み込み――その手を紡より冷たい手が掴んだ。
第弐幕 完
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