第2章 闇に溶ける校舎

第参幕 煙霧

 君は……誰? いつからそこにいたの?


 見ない顔だね、そんな所で何をしているの?


 え? 朧小学校の中庭だけど……。


 君、どこの小学校?


 えっ……俺の名前? 沢田雪斗……。


 まぁ……変わった名前とは言われるよ。君の名前は?


 へぇ、いい名前だね。家は近く?


 何をしていたの?


 そうなの? そんな格好をしているから気になってさ。


 え? あ……黒くて、長いよ。うん、すごく綺麗だ……。


 うん、目は……切れ長で、少し気だるい――アンニュイってやつかな。肌は色白で、雰囲気は……大人っぽいっていうのかな?


 それと、すごく似合っている紅い和服。綺麗だよ……。


 あれ? うずまさが急に吠えだした……。


 ごめんね、いつもは大人しいのに……どうしたんだろう?


 ……俺は絵を描こうと思って中庭に来たんだ。うずまさに会えるし、中庭は綺麗だから絵のモチーフにぴったりなんだ。


 う、うん。絵を完成させる必要があるからね。


 あっそこにいたね、おはよう。あれ? うずまさが懐いてる?


 山の中で右耳と左足を怪我していたところを助けたんだ。大人しいけど、気難しいから懐くなんてめずらしいんだよ。


 もう夕方か、一緒にいると時間が経つのは速いね。


 うん、大丈夫。うちの親はいつも忙しいから帰って来るのは深夜だよ。近くにおじいちゃんとおばあちゃんの家があるけど、そっちも忙しいから……。


 いつも家は一人だから友達を呼んだりできるけど、ご飯一人はさすがに寂しいよ。


 うん、ほぼ毎日。だから家のことは一通りできるよ。……そうだ、今度お弁当持ってくるよ。君はいつもお昼を食べていないだろ? 嫌いなものがあったら教えてよ。


 本当? すごいなぁ、俺はどうしてもトマトが苦手だよ。


 ほら、一緒に描こうよ。横で見ているより楽しいよ。


 何を言っているの、ほら!


 ほら! 触れられるだろ? 一緒に描こうよ。


 そうだ、今度一週間家族で出かけるから、会えるのは夏休みが終わって……土日くらいかな。


 うん。でも一週間だけだからすぐに会えるよ。


 それじゃあ、これをあげる。逢えない時もわたしのことを忘れないように。ずっと、ずっと……わたしのことを見てて、ね?

 え? これって……いつも首から下げてた勾玉だよね、いいの?


 えっ……どうしたの? 突然……。


 ……うん! 一緒にいたいよ。

 一つだけ……約束してくれる?

 約束? うん、何を約束するの?


 わたしたち約束したよね、この約束は絶対に違えない……忘れないで――。


 わたしの名前を呼んで。



「奏……?」


 かなで。そうだ、それがあの子の名前だ。あの女の子の存在を証明する大切な名前だ。どうして忘れていたんだろう。


 痛む肺を押さえつつ、たった今見ていた夢とやり取りを思い出そうとした雪斗だが、自分の一方的なやり取りしか思い出せない。


「奏……名前は思い出せたのに……約束って何だった――」


 そこまで口にした瞬間、約束の件は一瞬で吹き飛んだ。


「何だ……何でこんな……!」


 一寸先は闇――それよりも、雪斗は自分の首から下が水に浸かっていることに気付いて慌てて立ち上がった。その結果、顔がズレるほどの勢いで立ち上がった弊害で膝と足首がビィン、と悲鳴をあげたが、それよりも水から出たいことが先だった。


 何しろ、拒絶された水たちが胸から下を舐めるように伝ったため、そのあまりの不快さに雪斗は怪我と引き換えも辞さない覚悟だったのだ。それに加え、身体中の毛穴が体内に入り込んで来た水を吐き出そうと一斉にパニックを起こしたような感覚に襲われてしまい、その場から逃げようとしたが、膝まである水に足を掴まれ盛大にダイブしてしまった。バシャーン、と嫌な音が響き渡ったことよりも、我先にと身体中へ入り込んで来た水を追い出すため、雪斗は情けない悲鳴を連れて犬のように全身を振り乱した。


「クソッタレ……クソッタレが……何なんだよ!」


 びしょ濡れになった髪、重くなった制服、水と一体化したような靴下と革靴、まさに最低な状況である。さらに、自らの置かれた状況が混乱に拍車をかけ、手当たり次第に投げ散らした視界が掴むのは闇と暗闇と――一カ所だけ辛うじて輝く蛍光灯だ。その明かりに照らされるのは、雪斗にとって見覚えのある木造の壁とプリントだらけの掲示板だ。


 現実を思わせる光景で微かに冷静さを取り戻した雪斗は、ベチョリと寄り添う胸ポケットから祈るように携帯電話を取り出し――。


「よっし……! 生きてる!」


 雪斗は携帯電話をすぐに新機種へ変える趣味はない。物を大事に扱えば付喪神となり、大事にしてくれた持ち主へ幸運を齎す――ことを鵜呑みにしているわけではないが、それでも物を大切に扱うことは良いことだと祖父母から言われてきた雪斗にとって、この瞬間こそ報われた光景だった。


 落とさないようにライトを点けると、浮かび上がったのは緑の古い公衆電話、左右の階段に挟まれた掲示板、雪斗の時代では使われなかった木製の下駄箱、黒い水の中から壁に向かって伸びる菌糸のような何か、壁から迫り出す一年一組と書かれたプレート、学校で出会すものばかりだ。


「何で校舎の中に……」


 続けて浮かび上がらせたのは、左右に伸びる廊下、中からも塞がれた昇降口、終わりが見えない一階の浸水だ。その中で雪斗が選んだのは基本に忠実に、昇降口だ。


 不快な水に言い寄られながらも両開きのドアを押してみたが、水深約二十センチでドアは開かなくなることを実感出来ただけだ。


「外は……何も見えないか」


 昇降口横の窓から外を覗いたが、ライトを当てても見えるのは渦巻く黒い霧だけだ。いくら押しても引いてもドアと同じで反応もない。下駄箱の横にある傘立てを一瞥した雪斗だが、それはあまりにも物音を立て過ぎると判断してかぶりをふった。


「電源も少ないし……確か懐中電灯が職員室にあったよな」


 もの言わぬ闇の中で誰かが見ているんじゃないか、そんな恐怖心にも急かされ、雪斗は水音に注意しながら職員室を目指し――。


「誰かいるの……?」


 不意に黒い影が中央階段の踊り場から現れた。そのあまりの不意さに全身を凍らされた雪斗は思わず携帯電話を落としてしまい、重い水音と入れ代わるように暗闇が飛び込んで来た。だが、それに対して戦くよりも先に別の光が雪斗のことを乱暴に照らした。逆光の所為で相手の正体もわからないまま、誰何するよりも早く駆け寄って来た何者かに襟元をグイ、と掴まれた。


「あんた、どっから入ったの」


「光を……目に当てないでくれるかな……?」


 その願いが通じ、逆光は取り下げられた。


「どこから入ったの、沢田雪斗」


「え? どこからって……中庭から」


 逆光の正体は柊紡だった。雪斗の視線が捉えた彼女は同じように全身が濡れ、綺麗な顔には濡鴉が寄り添い、常時厳しい目付きはさらに鋭くなっている。


「本当に? 私はあんたに会う前に一階のドアを全て調べた。中庭側のドアはどこも開いていなかったけど?」


「……この状況で嘘をついてどうすんの。勝手に開いたから柊さんが中から開けたのかと思って……覗き込んだらこれだよ」


「……昇降口は」


「閉まっていた、厳重にね」


「バッグはあった?」


「バッグ? 無かったけど……」


「そう……」


 紡は小さく息を吐き出すと、投げるように雪斗を手放した。何か思うことがあるようで、口に指を当てたまま黙り込んでしまった。その光景は雪斗にとって安堵半分、相方が彼女だということへの辟易半分だ。初対面の時、雪斗は彼女をクールな人だと思っていたのだが、いざ口が開いた時、彼女はクールを通り越して他者を拒絶する高圧的な性格だった。


「ねぇ、この状況って何かわかる――」



 バチャ……。



 不意に、一年生と二年生の教室が並ぶ西側廊下から水音が聞こえた。誰かが水の中へ足を踏み入れたような音だったのだが、耳をすませてみても同じ水音は二度と聞こえてこなかった。だが、それだけでもこの場所で話しているのは得策ではないと心臓が警告を発したため、雪斗は職員室を指差した。


「あの……さ、とりあえず職員室に行かない? そこなら懐中電灯もあると思うし、ここにいるのは……嫌かな……」


「嫌? 場所はわかっているの?」


「ああ、すぐそこだよ」


 顎で指し示したのは、蛍光灯がジージーと唸っている東側廊下だ。奇しくも、その下で照らされている木製の引き戸が職員室の入り口である。


「ふぅん? じゃあ……行きましょ」


「わかった……けど、その前にやることが……」


 雪斗は沈んだ携帯電話を回収するために水の中へ両腕を突っ込んだ。必然的に水面と近くなった目と鼻から激しい抗議を受けたことに加え、胃袋は朝食を吐き出そうともがき始めた。全身全霊の抗議を必死に宥めながら雪斗は腕を振り回し、ようやく見つけた携帯電話を恋人のように抱きしめた。


「汚なっ……それ動くの?」


 心ない一言に雪斗は紡をギョロリと睨みつけた。落とした理由は彼女であり、感電の恐怖とも嘔吐感とも戦い、ようやく得た勝利に対してあまりにも無神経な一言だ。今すぐにでも携帯電話様の偉大さを熱説してやりたいところだったのだが、結局は胸ポケットに携帯電話を避難させただけに留めた。


「あっ……いや、いい……とにかく職員室へ行こう」


 先ほどの水音が熱説に釘を刺したのだ。その水音の主が雪斗や紡のように状況がわかっていないのなら、同じ人間の声が聞こえた場所へ顔を出すはずだ。それにも関わらず一切の進展がないことに雪斗は言い知れぬ恐怖を感じたのだ。まるで音の主がピクリとも動かず、自分たちの物音に耳をすませているような光景を想像してしまったことも移動を促した。


 紡に先頭を促し、雪斗は振り返りつつ西側廊下の暗闇を警戒した。すると、


「ねぇ、昇降口の横が保健室なんだ」


「そうだよ、いつも日向先生がいたんだけどな……」


「……立ち入り禁止になってるけど、何かあったの?」


「えっ?」


 紡の視線を辿った雪斗は、二つある保健室の引き戸に立ち入り禁止と書かれた警察のテープが大量に貼付けられている光景を見た。案の定、引き戸に反応はない。


「何が起きたんだろう……薬品とかの悪戯対策かな」


「ここ小学校でしょう? 保健室に青酸カリなんてないんだから悪戯するメリットないでしょ」


「悪戯する奴はどんな状況でもするさ。理由は馬鹿だから――」



 バチャン……! ビチャン……!! バチャン!!



 二人は殴られたように振り向いた。それは微かな水音ではなく、何者かが水面を踏み砕いて走っている音だ。膝まで水があるにも関わらず、その水音は急速に近付き、西側廊下の最果てである曲がり角を照らし始めたのは松明の光と走る影法師――。


「っ……来い!」


 そう言った紡は雪斗の腕を乱暴に掴むと、力任せに開け放った職員室へ勢いよく投げ飛ばした。抵抗も抗議も出来ないまま、雪斗はまた水の中へダイブしてしまい、鼻と口に入り込んだ水を一斉に吐き出した。その行為に文句を言われるよりも早く、紡は力一杯に引き戸を閉めると雪斗の側へ移動し、静かに、という誰にでもわかる合図をして携帯電話のライトを消した。


 やがて水音と赤い光が近付き、松明を持った人影が職員室の汚れた窓を覆うほどに巨大化した。その人影は松明を振り回し、雪斗たちを捜すようにギョロギョロと首を動かしたが、一分もしないうちに三年生の教室が並ぶ西側廊下の奥に向かって激しい水音を従えて遠ざかって行った。


 従えられた水音は次第に弱まり、やがて二人の耳に届かなくなった。静まり返る校舎、耳を注意深くすませても物音は拾えない。それだのに、二人はしばらく動けなかった。


 何が廊下にいたのか、何が走っていたのか、口に出したいことは山ほどあった雪斗だが、それよりも先に、自分が緊張のあまり息を止めていたことに気付いた。胸を押さえながら深呼吸し、幸いにも肺は悲鳴をあげずに心臓と入れ代わるように落ち着いてくれた。それに心から安堵した雪斗は肺の我慢強さに感謝した。


「行った……?」


 長い沈黙の果てに囁いた雪斗だが、紡は何も答えない。その時になって、雪斗は制服の袖を紡が握り締めていることに気付いた。そのまま気付かれないよう横目で彼女を見ると、鋭かった眉は不安げに下がり、怯えるように瞬きを繰り返している。その表情と態度に面食らった雪斗は思わず小さな声をあげてしまい、


「何よ……」


 眉と表情が即座に反転し、覗き見を批難する鋭い視線が雪斗に刺さった。


「いや……何も。それより、中を照らしてほしいな。懐中電灯を探すからさ」


 お願いという形で紡を促した雪斗は、彼女がちらちらと照らす職員室を動いた。散乱するプリント、荒らされた机、水に沈んだ室内を除けば普通の職員室だ。荒らされていることを気にはしたが、奥にある備品棚へ直進した。紡もそれに続き、彼が漁り始めた備品棚を照らした。すると、


「さて……使えればいいけど」


 雪斗は祈りつつ、備品棚に置かれていた四つの懐中電灯、包装されたままのタオルを取り出して机に並べた。他の備品は全て水に浸かっていて動きはしなかった。だが、机に並べた懐中電灯はスイッチを押すと全てがまばゆい光を発した。


「やった! 小沢さん、感謝します」


「……誰?」


「ここの用務員さんだよ」


 ああ、と頷いた紡は、室内に向かって顎を動かした。


「……この小学校に?」


「――五年間在校してた。その時は廊下に〝あれ〟はいなかったし、水に浸かってもいなかったけどね」


 懐中電灯を二方に向けて置き、視界を確保した雪斗は改めて自分の携帯電話を確認した。微かな希望を抱いていたが、案の定、携帯電話の電波は一つも無く、時間すらエラー表示で止まっている。


「駄目か……外との連絡は……」


 胸ポケットに携帯電話を戻した雪斗は、濡れた髪を拭きながら机上の受話器を耳に当てたが、聞こえて来るのは沈黙だけだった。


「……ですよね」


 無情な現実にかぶりをふった雪斗は、二00一年の予定が書かれた黒板に近付いた。その横に貼られているカレンダーも二00一年で止まっており、校舎と土地の放棄は二00三年だが、旧校舎の再封鎖は二00一年だと判明した。


「よし、柊さん、とりあえず……知ってることを教えてほしいなぁ……なんて」


「窓からの脱出は無理、以上」


「いや……もっと何かない……?」


「思い付く限りの物理的な抵抗はしたけど進展はなし、以上」


 やれやれと息を吐いた紡は、近くにあった机の埃を払って腰掛けた。


「……あえて言いたくなかったんだけど、言っていいかな」


 雪斗は引き戸の鍵を閉めて言った。


「松明のこと……?」


「あれは何だと思う……?」


「……さぁね」


 そっけなく答えた紡は、腰かけたまま俯いてしまった。


 雪斗としては、答えでなくともあの何かに対しての意見がほしかったのだが、紡が会話を拒むように口を閉じてしまったため、小さく息を吐いた。


 黒い水、校内の化け物、気難しいクラスメイト、会話は拒否、すばらしい。椅子にドサリと腰を預けた雪斗は、持て余すほどの時間に対してかぶりをふった。


 仕方ない……発狂しない程度に、鳴かぬなら鳴くまでまとう、なんとやらだ。

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