悪意

「いやはや、参りましたね……まさか大時計が鳴るなんて思いもしませんでしたよぉ」


 朧高校の校長は陰でワンマン校長と蔑まれている。そんなワンマンには必ずと言っていいほどに腰巾着が存在する。朧高校ではそれが教頭だ。それに対して他の教師たちは同調を示すような愛想笑いでその場をやり過ごす。そのやり取りに加わらずに自分の机でプリントを漁っていた新一だが、内心では教頭の台詞に同調していた。


 木造である旧朧小学校が最初に封鎖されたのは、今の朧高校の校舎である鉄筋コンクリート製の朧小学校新校舎が建てられた一九六三年だ。その後、朧市の人口増加に伴って一九九八年に一時的な使用される。その後、朧小学校は市の中心地に新しく建てられたことで二00三年に新旧の校舎と土地を放棄した。その際に旧校舎の取り壊しを予定していたが、作業員に死傷者が出たため放棄という結果になった。


 その後は広い敷地を探していた朧高校が二00四年に土地も新旧校舎も引き取った。木造校舎は既に絶滅間際だったこともあり、レトロ校舎として再利用する計画もあったが、結局は何一つ進展しないまま、二00九年に取り壊すことが約束された。そのため、旧校舎は時計台が誤作動するような状況にないのだ。


「それにしても校長、取り壊す予定を撤回するつもりは……」


「ない。当たり前だろう? あの土地も使えば我が校はさらに生徒数が増える。何の為にここを選んだと思っているんだ」


「ですが、あの校舎を取り壊してくれる業者は……」


「いない、と言いたいのだろう? 取り壊す準備中、松明を持った変質者に作業員が殺された。しかも三人」


「はい、その通りです」


「警察が来て山狩りをしたが、そんな変質者は見つかっていない。それに、イカレた殺人鬼はいつまでも同じ場所にはいないさ。そんな負の遺産は来年に取り壊す。私の友人が社長をしている会社に頼んであるから……」


 そんなやり取りをしながら職員室を横断していた校長は、冬休みの過ごし方をまとめたプリントを必死に束ねている新一を見つけ、その無防備な肩を叩いた。


「あ〜新一先生、ちょっと」


 校長は肥えた腹と念入りに手入れした口髭を撫でながら、意地の悪い笑みを浮かべると、振り返った新一の肩をもう一度叩いた。


「新一先生、君に決めたよ」


 来客用の恭しい笑みを浮かべ、校長はポケットの中から汚い鍵を取り出した。


「それは……ご自宅の鍵でしょうか」


「はっはっはっ……面白いことを言うね。あのボロ校舎の時計が誤作動した理由……頼みますよ」


「うぇ? いやっ……私には荷が重すぎるかと……」


「君にしか頼めない」


「私はどうも機械が苦手で……」


「新一先生、私の話は長くて退屈ですかな?」


「いえっ……! そんなことは……」


「それでは黒澤せんせ、ホームルームが終わったら校内の見回りと、調査をお願いしますよ?」


 ガハハハ、と品のない笑い声と一緒に新一の肩をバシバシと叩いた校長は、そのまま笑いながら校長室へ戻って行った。その間、新一も満面の笑みを努めたが、最終的にはその場で頽れた。


 二年前の異動時に、ここが曰く付きだらけの場所だと知っていたら教師を辞めてでも異動を拒否しただろう。自殺、行方不明、事故死、殺人、怪談、新一の妹ならどれも好んで関わるのだが、新一にとってはどれも冗談ではないのだ。


 自らの不運に悲観しつつ、新一はプリントたちを連れて職員室を後にした。


 重い足取りのまま階段を上がっていると、二年生の教室が並ぶ三階から妙に騒がしい声が聞こえて来た。バタバタと足音も聞こえており、思い浮かんだ光景は、明日からの冬休みに浮かれて暴れ回る馬鹿な生徒たちの姿だ。そんな光景にかぶりをふりながら三階に上がると、案の定、廊下で駄弁っている生徒たちばかりだ。加えて、生徒たちが集まっているのは新一が担当しているクラスだ。


「まったく……十七歳にもなってこれか……?」


 大きな溜め息を連れて教室に入ったが、生徒たちは新一のことなど一瞥すらせず、一心に窓を見上げて騒いでいる。その中には他クラスの生徒もおり、新一はますますげんなりして教壇を叩いた。


「ほら、さっさと自分のクラスに戻れ。ホームルームの時間だ。UFOでも見えたか? ホームルームを始めるぞー!」


 手が届く範囲にいる生徒たちの頭をプリントで叩くが、それでも教室の詰まりは解消出来ない。すると、一人の女子生徒が振り返った。 


「先生! あれを!」


「うん……? 何だ?」


 指差す先を辿った新一は、窓に黒い染みが付いていることに気付いた。


「何だ? 手形……か?」


 窓に付着しているのはとにかく真っ黒な手形だった。力士の手形色紙に似ているが、そんな綺麗なものではなく、SF映画に出て来る怪物のベタベタな体液を擦り付けたような手形だ。さすがに誰も触りたくはないようで、机と椅子で拵えた台に乗って繁々と見ている生徒も手は出していない。そんな手形がフェンスに付着していた液体に似ていることに気付いた新一は、


「おい、誰の悪戯だ?! いくらなんでも悪趣味だし……高校生にもなってどういうことだ? 校長に知られたらまた朝の話が長くなるかもしれないんだぞ……!?」


 やれやれとかぶりをふった新一に対し、川嶋という女子生徒が立ち上がって手形を指差した。


「先生、ちゃんと見ました? それは外から付けられているんです! 四階の外に!」


 ええ……面倒だなぁ……。


 新一は女子生徒たちから押し付けられる形で台に乗り、恐る恐る手形に触れてみた。半信半疑だったが、外側に付けられていることは確かだった。それはつまり、某は外から四階の教室を覗き、わざわざ手形を付けたということになる。


「誰でもいいから……悪戯なら自首してくれよ。もう面倒事を増やさないでくれるか? 良い子だから……」


 縋るようにそう言った新一だが、誰も自首することはなかった。すると、ガヤガヤと荒れる教室に紛れ込んでいた別クラスの女子グループが急に声を張り上げた。


「ねえ! 柊、あんた何か知ってんじゃないの?」


 女子グループが声を投げつけたのは、騒ぎに混ざらず席で本を読んでいた紡だ。睨むように彼女へ視線を送るが、紡の方はまるで意に介していない。そんな我関せずの柊とは違い、グループの方は紛糾するかのようにベラベラとしゃべりだした。 


「あんたさぁ、いつもそうやってすました顔してるよね」


「あんたの親って、あれでしょ? 千里眼を持ってんでしょ?」


「ネットで調べたんだけど、あいつの親って太陽が出てる時は外に出れないらしいよ!」


「何それ、キモッ! ってか、あんたが転校して来てから変なこと多くない?」


「あんたがやってるんじゃないの? 気持ち悪い霊感とかであたしたちイケてるグループを僻んでさぁ」


「ありそ〜! 超説得力あるんですけど〜」


 うるさいなぁ……。


 好き勝手なことを捲し立てる女子グループの騒擾に対し苛立っていた雪斗は、黙らせようと立ち上がり――。


「いいかげんにしろ! この手形と柊の家のことは関係ないだろ! さっさと自分たちの教室に戻れ!!」 


 雪斗が立ち上がろうとした瞬間、新一は教壇を叩いて女子グループへ怒鳴った。他者へ怒鳴れるようには見えないその外見と態度とは思えないほどの迫力と怒号に教室は一瞬にして沈黙した。その予想外の迫力に雪斗は思わず座り込んだが、それは彼だけではなく、怒鳴られた女子グループは即座に、


「えっ? 何怒ってんの……キモッ!」


 得意技の汚い言葉で反撃するものの、


「俺もお前のことをそう思うよ。他者は鏡だ。その鏡に向かって吐き出した唾は自分にかけているのと同じだ。高校生ならもう少し言葉を選べ! お前たちもだ! さっさと教室に戻れ!」


 新一の剣幕に圧倒され、蜘蛛の子のように教室から出て行った。それ以外の生徒も全員が教室に戻り、2年D組は重苦しい空気のままHRが始まった。


「手形付けた奴、怒らないから後でちゃんと拭いておけよ」


 新一は溜め息と共にプリントを前列の生徒に配った。ようやく静かになった教室を見渡してHRを始めた新一は、その途中で紡と目が合った。しかし、紡の方は小さく頭を下げただけだ。


 鳴や円香のように紡のことを受け入れている生徒もいれば、あの女子グループのように境遇を僻む生徒もいる。それは新一も知っているのだが、どこまで陰湿な苛めをしているのかは掴めていないうえに、紡の方が歯牙にもかけていないため相談室に呼んでも大丈夫の一点張りなのだ。


「いいか、冬休みだからって浮かれて狂ったことをしないように。背伸びしたい年頃なのは認めるが、煙草を吸ったから大人だとか麻薬に手を出してる俺は不良だとかしょうもない理由で馬鹿をするなよ? 嫌でもお前たちは大人になって……税金を払って会社の奴隷になって……身体も頭も衰えて死ぬんだからな。若くてまだ綺麗な自分を謳歌することだけに集中するように」


 学生時代に犯した馬鹿な背伸びや苛めは帳消しになんてならない。因果応報、自業自得、自分がしたことには必ず反動が来る。回って来るのが遅いか早いかだけだ。


 新一はそんなことを思いながらHRを続けた。

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