馴染
「円香さん、
いつもの登校時間に比べるとずいぶんと早い。そう思っていた円香だが、わざわざ身を乗り出してまで呼びかけて来た相手はずいぶん先に来ていたようだ。
「……ずいぶん早いな。何か用事……とも思ったが、その様子じゃ忙しさとは無縁そうだな」
呼びかけて来た某がいるのは、教室棟と実習棟を繋ぐ渡り廊下だ。そこまで背が高いわけではないので、某は手摺から必死に身を乗り出している。
「いえいえ、これでも年中忙しいんですよ〜」
「お前が忙しそうにしている姿なんて見たことない」
忙しいという表現とは無縁の某の名は
「どんなに忙しくても円香さんには声をかけますよ。今までもこれからもそれは変わりませんよ」
「そうか。暇そうで何よりだ」
「いえいえ、忙しいですよ〜? ちょっと気になる話がありましてね、知人を聴取していたんですよ」
志乃はそう言うと手摺から身を乗り出し、ヒョイヒョイと身軽な動きで枯れ木を伝って雪の上に音もないまま着地した。
「相変わらず無駄のない動きだ、武道と体育にかける情熱を少しでも学業に向けてくれれば、誰も文句は言わないだろうに」
「そうかな。はは、そうかもしれませんね」
円香は心ない拍手を送ったが、志乃の方は目に見えてご満悦だ。その笑みは女と見紛うほどだから、よほどの観察眼がなければ初対面者は貧弱男だと侮るだろう。だが、志乃という男はその笑みの下で文字通り爪を隠している。その辺の不良では大人と赤ん坊の喧嘩になってしまうのだ。
「円香さんに言われちゃうと耳が痛いですよぉ。でもテストは平均点ギリギリ稼いでいますから、そこまで危険域じゃないでしょう?」
性格は外見のように穏やかで、自分から他者に突っかかるようなことはしないものの、円香が困っているのは彼が興味主義者ということだ。つまり、彼は自分にとって重要なこと、興味を引いたものにしか関わろうとしないことだ。案の定、学校の授業や成績には興味を示していないから、なかなかに問題児でもあるのだ。
「そんなことよりですね、前に報告した噂を調べていたんですよ」
「あの噂? お前はまだそれを調べていたのか……」
暇な、と円香は声音で告げたものの、志乃はそんな声音など意に介していない。
「もちのろんですよ! 旧朧小学校の怪談!」
志乃は好奇心を告げる大きな目を煌めかせながら円香に迫った。
「またそういう話か……」
そういう話に円香は心底うんざりしている。それを志乃にもわかりやすくするため肩をすくめてやったが、そんなことで引き下がらないことを円香は幼少期から知っている。
外見詐欺の志乃は、それこそ幼少期から怪談や都市伝説に並々ならぬ興味を抱いていた。円香からすればそれは困った癖で、一つ上のお姉さんとして面倒を見ていた頃から怪談をねだっていた。円香からすればそれが怪談ではあったが、志乃の方は順調に怪談マニアの階段を駆け上がって行った。そして、その怪談調査に付き合わされるのは円香やお人好し、御同好である。志乃の姉たちはうまく躱していたようで、円香はその躱し方の伝授を懇願しているが、笑ってごまかされる日々が続いている。
「いいか、志乃。近くに海だ、山だ、古い木造校舎があれば変な噂はどこにでも湧いて出る。後追い自殺者が集う山の話は不気味だったが、学校の怪談なんてどこも一緒だろうに」
腕を組んだ円香は、渡り廊下を支える柱に背中を預けた。
「そうですね、確かに今まで蒐集してきた学校の怪談はどこも同じ話……全国に遍く知れ渡る怪談を少し弄った程度のものばかりです。でも、朧小の怪談は本当にあったことが伝わっているみたいですよ、新聞にも載った怪談がありますしね」
そう言って志乃はバッグの中から新聞の切り抜きを出した。
朧小学校 教師が一人行方不明!
三日前、旧朧小学校にて、教師の水島透さん(四十五歳)が行方不明になった。通報した用務員小沢真さんによると、水島さんは二十三時近くまで一人で職員室に残っていたらしく、雨漏りを直し終わった小沢さんが、職員室に顔を出した時には姿を消していたという。不可解なことに、黒い水が入り口近くに溜まっていたと小沢さんは話していた。
朧小学校、今度は養護教諭が自殺か!
昨日午後、旧朧小学校を戦慄させた事件が起きた。現場は校内の保健室。二年生の男子生徒が中に入ったところ、養護教諭の日向小百合さん(二十八歳)が、首から大量の血を流して倒れているのが発見された。現場は一時騒然となり、学校は休校、集団下校が行われた。発表によると、日向さんは、数日前から誰かに見られていると周囲に話していたらしく、警察は事件、自殺の両方で調べる方針だという。
朧小学校、用務員が事故死?
昨日、旧朧小学校にて用務員の小沢真さん(三十五歳)が三階の時計台で亡くなっているのが発見された。発表によると、小沢さんは時計台へ向かう姿を最後に、行方がわからなくなり、学校側が捜索したところ、時計台の歯車に挟まれているのが見つかったという。不可解なことに、小沢さんの背中には黒い手形があったと言われていたが、警察からの発表はない。
朧小学校付近で、小学生が教われる!
昨日十七時半ごろ、高波時雨さん(十一歳)が校舎の裏山を散策中、不審な人物に追いかけられた。時雨さんによると、不審者の身長は約三メートルあり、木々の間を縫って彼女を捕まえようとしたという。度重なる事件に保護者たちからは不安の声があがっており、建設中の新校舎の完成を急ぐように……。
「ふん。それで? この人たちの幽霊が旧校舎に出るのか?」
切り抜きを返して円香は言ってやったが、志乃は怯まずに別の切り抜きを差し出した。
「不可解な事件はこれだけじゃないんですよ。それは二00一年の記事の一部なんですけど、夜中の旧校舎を走る松明、獣の咆哮が聞こえた、とかがあるんです。他にもあるんですが……どうです? 気になりませんか?」
「ならない」
その言葉に志乃は唇を尖らせた。
「だいたい、旧校舎は立ち入り禁止だ。周囲にはフェンス、敷地内に侵入出来ても壊す以外に校舎内へ入ることは出来ない。諦めろ。こればっかりは一緒に行く気はないよ」
こうして素っ気なく、はっきりと言ってやらないと志乃には効果がない。それが円香の知っている唯一の躱し方だ。
「そんなぁ……デートでもあるんですけど」
「そうか。デートスポットとして最低な選択をしたな」
やれやれとした時、円香の横を一年生が走り抜けた。いつの間にか予鈴まで十分を切っている。
「与太話に付き合い過ぎたな。私は行くよ」
「ああ、じゃあ僕も――」
荷物を、と志乃が戻ろうとした時、その背後からガシャーン、と大きな音が響いた。その音に志乃は勢いよく振り返ったが、すぐに「ああ」と肩をすくめた。その理由は至極単純で、円香が志乃の立場だったとしても同じ反応をしただろう。
ひっくり返った自転車の側で、ぶちまけられたプリントを必死になって集めているのは、へたれの王子として生徒からは完全に舐められている二年D組担任の
「先生〜朝から楽しそうですね。何をしているんです?」
相も変わらない笑みを連れたまま、志乃は嫌味を口にした。それに対して当然、
「何をしているって……見ればわかるだろー? 手伝ってくれよ、志乃〜」
情けない声で志乃に縋る新一。そんな態度だから舐められているというのに、本人は気付いていないのだ。
「円香さん、手伝ってあげましょうよ」
「…………」
ばらまかれたプリントには成績表なども混ざっていて、円香は溜め息を連れてそれを拾い上げた。志乃もプリントをせっせと拾い上げていくが、その中の一枚が都合良く風で攫われ――旧校舎へ通じるフェンスを運良く越えてしまった。
「あらら、これは取りに行くしかなさそうですよねぇ」
「おいおい、旧校舎は生徒の立ち入りが禁止されてるんだよ」
「そうですか〜残念ですね〜先生は遅刻するし〜もしあの紙が成績表だったら〜大変だなぁ〜心配だなぁ〜」
棒読みでそう言った志乃は、新一の表情を一瞥してからフェンスに駆け寄った。
彼の身体能力なら造作もないだろうと思っていた円香は戻ろうとしたが、
「お〜い、志乃〜。早く取ってきてくれよ〜」
フェンスの手前で立ち止まった志乃へ催促が飛んだが、彼は何故か動こうとしない。それを見かねた円香は横へ立ち――。
「ほう? 志乃、ずいぶんと強引な手段に出たな」
突っ立っている志乃の前には、人が潜れるほどの穴がぽっかりとあいている。
「いえ……僕じゃないんですが」
「おいおい……誰かの悪戯かぁ? 校長に知られたらまた長話だぞぉ?」
悪戯。フェンスの一部を溶かすことがという分類に入るだろうか。そんな疑問が当然出るのだが、新一はそんな疑問など思い浮かばないようで、ブツブツと文句を言いながらフェンスを潜ってプリントを拾い上げた。
「円香さん……これ、何だと思いますか?」
志乃が指摘したのは、溶けたフェンスにこびり付いている黒い液体だ。近付いただけで血生臭く、吐き出す言葉に迷った円香だが、新一が面倒だと吐き出したことでその場は解散になった。
「何だかな……とにかく、面倒なことをしてくれたな〜」
第壱話 完
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